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洪水とトロル騒動

 夏の盛りになると、気温も虫の鳴き声も一層盛り上がりを見せてきていた。

 喫茶店で流れているニュースでは、今回の季節移動中の騒乱は、警察が把握して出動した件数が、去年よりも2%多い287件だったと伝えている。


 農園では、カンプンが薬草への水やりプログラムを調節しながら汗をぬぐった。

「ふう……さすがに避暑地まで北上しても、日中は暑いなあ」

 農園長のスミングが遠くから呼んでいる。

「熟成庫や貯蔵庫、保冷庫の温度湿度を調整に行こう。ついて来てくれ」

「はい先生」


 農園は出荷に便利なように都の隅にあり、ちょうど港にも接している。そのため、シュナ内海の湖面のきらめきが反射してまぶしい。

 ふと足を止めるスミング。

「ん? 気のせいかな。湖面がいつもよりも濁っていないかい? カンプン君」

「そうですか? うーん、言われてみればそのようにも見えますね、先生」

「水位も高くなっているな。これは上流で大雨が降っているんじゃないか」


 スミングが確信したようだ。対岸の大森林の中にまで内海の水が流れ込んでいるのを見てカンプンに指摘する。

 都は現在、年間で最も北の地点まで北上しており、内海を取り囲む大森林の相も亜熱帯林のそれから落葉樹林のそれに変わっていた。

「そうかもしれませんねえ」

 カンプンもぼんやりと答える。


 2人して、2呼吸ほど水面を見ていたが……

「おっと、仕事だ仕事」

 スミングがカンプンを急かして熟成庫へ向かっていった。



 ラウトが仕事を終えて家に帰宅した。

「あれ?」

 玄関には父母の守護樹がない。

「まだ帰って来ていないんだな。珍しい」

 中では、アバンのポップがBGMとして流れて、空中ディスプレーには今日のニュースが放映されていた。台所では、姉が急ごしらえの夕食を作っている。

「そうなのよ。徹夜するかも、とか言っていたのよ。はい、ごはん」


 姉がホイと、電子レンジから大皿に入ったセミと芋のチーズ煮をラウトに渡した。チーズとハーブとセミの油の匂いが部屋中に広がる。姉もラウトもこの香りが好きなようで、クンクンかいで喜んでいる。

「何があったの? 姉さん。こんな時期に珍しいね」

 ラウトが食卓に大皿を運んで、食器とグラスを並べる。


「あまり大きな声では言えないけどね」

 姉が短冊切りしたオレンジとグアバ、パイナップルに似た果物を下敷きの葉野菜に乗せていく。その上から発酵臭がするケチャップのような赤いドレッシングをかけて、いつも通りの口調でラウトに話した。

「陛下が持ち込んだ果物の騒動で、森林部と天文部のプログラム打ち込みにエラーが出たそうなのよ。もちろん、すぐに修復したんだけど。ホイ、受け取って」


 サラダ盛り合わせをラウトに渡す。次いで、虫を砕いて丸めたミートボールに豆腐と色とりどりのハーブを加えた具だくさんスープに、巻貝を潰して発酵させた赤い色の調味油をたっぷりと注ぎながら話を続ける。

「衛星の一部が、その時に大量の意味のないデータを受けてシステムダウンしたり、調子が悪くなったそうなのよ。ホイ」

 スープ皿をラウトに渡した。調味油の香りを吸い込んで微笑んだラウトが食卓にスープ皿を並べる。

「姉さん、飲み物は何がいい?」

 ラウトが貯蔵庫を開けて姉に聞く。


「そうね、ライムジュースでいいわ。で、衛星から間違った観測データが送られて、それを元に気象魔法を発動させたそうなのよ。で、洪水」

 ドンと食卓にヨーグルトを置いて座る。

「さ、食べましょ。ラウト」

「洪水?」



 翌朝、薬師部にバランが来た。難しい顔をしている。その様子を見て、ミンヤックとラウトも仕事の手を休めた。

 深いため息をついてから、バランが腕組みをしながら要件を話し始めた。

「気象魔法自体は昨日までに全部修正したそうなんだがね。効果が出るまでには、あと2日くらいかかるそうだ」


「そうなると……」

 ミンヤックが考え込んで、バランの顔を見た。

「上流域の薬草園や個人農園に洪水の被害が出る、かもな」


 バランもうなずいた。

「そうなる可能性があるな。ジャンビ君、該当する薬草園や農園で、被災すると困る生薬や資材はあるかね?」

「調べてみよう」

 ミンヤックが空中ディスプレーを出してリストを表示させ、照合する。ものの1分もしないうちに検索と照合が完了した。

 ひらがなの草書体が崩れたようなエルフ語の結果を見て、ミンヤックがうなずく。

「まあ、大丈夫だろう。他の薬草園や農園から補給できるものばかりだ」


「うむ、それは良かった。しかし……」

 バランの顔はまだすぐれないようだ。それはミンヤックも同様で、太い腕を組んで肩をすくめた。

「緊急な事態ではないけれど、洪水で薬草園が潰れては困る。幸い今日は仕事が込んでいないし、すまんがジャンビ君とラウト君の2人で現地まで飛んでくれないかな。民間の農園は自力で何とかするだろうが、我々の薬草園は作業ゴーレムしかいないからね」


 ミンヤックが「フン」と鼻息を鳴らして、うなずいた。

「分かったよ、薬草園まで行ってこよう。おい、ラウト準備するぞ」

「はい」



 ほどなくして豪雨の中、シュナ内海へ注ぐ川の上流部にある薬草園の上空に到着した。飛行艇から守護樹に乗って降りるミンヤックとラウト。

 ミンヤックがゴーレムたちを手早く診察する。ラウトがミンヤックにも水の精霊を使役して雨に濡れないようにしているので、足元の泥跳ねだけで済んでいるようだ。

「作業ゴーレム表面の土が、この豪雨で洗い流されたが……特に支障はないな。健康状態も良好だ」


「よかったですね、先生。しかし、まだすごい豪雨ですね。これでピークを過ぎたんですか?」

 ラウトが空を見上げた。視界も10メートル程度しか利かないような土砂降りが続いている。


 洪水のために川面から空中に避難して浮遊している薬草園の下は、逆巻く茶色の激流になっていた。轟音を発して大きな波が次々に砕けて、土砂混じりの水しぶきを薬草園まで噴き上げている。

 大量の樹木の枝や草も濁流に乗って流れていくのが見える。


 ミンヤックが呆れて、薬草園から激流を見下ろした。

「一体、どれだけ降らせたんだ? 全く、あの国王は」

 ……と、ぶつぶつ。今だに罰と油ナベの事を根に持っているようだ。


「先生。雨を防ぐ広域防御障壁の範囲ですが、どこまで設定しますか」

「そうだな……薬草栽培区は思ったよりも豪雨被害を受けていなかったから、土が流れて行かない程度の強度でいいよ。ゴーレムたちが上手に管理してくれたおかげだな。苗畑だけしっかり守ってくれ」

 ざっと薬草園を見回りながらミンヤックがラウトに指示する。


「はい、先生」

 ラウトが杖を出して星をチカチカさせて精霊場に接続し、術式を発動させた。途端に雨が弱まり、視界も広がった。ラウトが杖をしまう。

「このくらいで良いですかね、先生」

「だな。良い魔法をかけてくれた」

 ミンヤックの足元は泥だらけになっているが、気にしていない様子である。

「恐縮です」


 ラウトも空を見上げる。彼の足元も泥だらけである。

「48時間有効です。それまでには天気も安定するでしょう」

 ミンヤックが手に持っていたゴーレムを呼び寄せる呪符をヒラヒラさせた。

「さて。では、ゴーレムの作業プログラムの修正作業を始めるぞ。まずはここの排水を何とかしないとな。このまま放置すれば、根腐れを起こしてしまいかねん」


 その作業中にバランの声がした。空中にディスプレーが出現する。

「すまない、ジャンビ君。ちょっといいかな」

 ラウトがゴーレム用のプログラム修正を苦労してやっているのを見ていたミンヤックが、ディスプレーの方を向く。

「おう、バラン何だい? こちらはそろそろ終わるぞ」

「それは良かった。ジャンビ君、実は急に大勢のトロル貴族達が、成人病検査と治療にやってきたのはいいんだけど暴れだしてね。人手が足らないんだ。急いで戻ってきてくれないか」

 後ろには10名程度の大きなトロルっぽい影がウロウロしているのが見える。


「むう……こっちが終わってからではダメか」

 ミンヤックが尋ねるが、どうやらバランの近くでもトロルが暴れだしたようだ。「ぷるわ、ぷるわ」と奇声を上げ、何かが破壊される騒音が聞こえて映像が切れてしまった。


「フン」と鼻息を鳴らしたミンヤックが、ラウトに顔を向けた。

「そういうことだ。オレは先に戻るよ、ラウト」

「仕方ありませんね。折り返して船を寄こして下さい、先生。これ、もう少しかかりそうなので」

 ラウトが振り向かずにプログラム修正を続けながら言う。

 ゴーレムの後頭部に浮き出ているウィザード魔法の奇怪な文字を、精霊魔法言語に翻訳しながら修正を加えて、それをまたウィザード文字に変換している。


 ウィザード文字はタンパク質や酵素の分子模型がくちゃくちゃに絡み合ったような姿をしており、しかも立体文字になっていて、分子模型の周囲をいくつもの衛星みたいなものが回っている。これが1つの文字で、それらが複雑に結合して文章と術式を形成している。

 エルフの文字とは全く違うので、翻訳も大変のようだ。光の精霊がウィザード文字と精霊文字の対訳を助けているのが見える。ラウトがよそ見をしてしまうと、それだけで誤訳してしまいそうな繊細な作業である。


 ミンヤックは自分の守護樹に乗って飛行艇に移り、パイロットゴーレムに命じて発進させた。

 たちまち飛行艇が薬草園を包む防御障壁の外に出て、豪雨の中を都に向けて飛行していった。



 ミンヤックが飛行艇を直接、都の病院に横付けして到着すると、爆音が何度も連続して聞こえてきた。

「なんだなんだ?」

 飛行艇から飛び降りて病院に入るミンヤック。

 病院の中にはトロルとオーガ、それに何と一つ目巨人までが大暴れしている。ようやくバランを捕まえて聞くと、彼が肩をすくめた。

「ああ、彼ら、相当に短気でね。順番待ちできないといって、この騒ぎだよ。これだけ元気であれば、成人病も何も関係ないと思うのだがね、どう思う? ジャンビ君」

「だな」

 同意するミンヤック。

「しかし、相手がトロルだけならまだしも、巨人までいるのかよ。オレもお手上げだな」

 バランが微笑んだ。

「そのための警察だよ。そろそろ来る頃だ」


 そう言って、ミンヤックの手を引いて病院から出た。

 同時に病院内に、複雑な形に入り組んだ防御障壁が生じていく。その中にうまくトロルたちが取り込まれ、動きが鈍った瞬間。猛烈な電撃が無数に走って防御障壁内を蹂躙した。落雷の爆音が鳴り響く。

 病院全体が白く輝くが、病院の中にある機材には何らの影響も与えていない。


 それを見て感心するミンヤックとバラン。特にバランがほっとした表情を見せた。

「ほう、さすがだね。電撃で機材の半分ほどは壊れると覚悟していたんだけど、大丈夫みたいだ。電力自体もジャンビ君が食らったやつに比べれば、たわいもない出力だね」

 ミンヤックが苦い顔をした。

「うう……思い出すのも嫌だな、あれは」


 バランが含み笑いをした。

「あの時陛下はね、特殊部隊に「核融合できるか?」とか聞いたそうだよ。イオン温度と密度は達成できたのだけれど、安定しなくて失敗だったらしい。できていれば歴史に残っただろうね」

 ミンヤックがバランを睨んだ。

「あの国王らしい、といえばいいのかい? バラン」

「さあ、どうだろう」


 ミンヤックの鋭い視線を難なくやり過ごして病院を見るバラン。これだけの電撃魔法と防御障壁をかけているのだが、病院の中にも周辺にも魔法をかけている警官らしき人影は1人も見られない。

「そろそろ、終わるね」


 電撃が止んで防御障壁が解除されると、黒こげになったトロルたちが立ち往生していた。

 が、さすがに生命力が尋常ではない種族だ。3呼吸もすると早くも動き出し、黒焦げになった表皮がボロボロとはがれ落ちてきた。


 ミンヤックが呆れる。

「はあ、何が成人病だって?」

 バランが苦笑して説明する。

「さっきの電撃は、連中の動きを止めるためのものだよ。この後……」


 トロルたちが、かき消されるように次々に消滅していった。

「留置所へ転移させたんだよ。警察もステルス装備しているから見えないねえ」

 バランが他人事のような口ぶりでミンヤックに説明する。

「後片付けが大変かなと思ったので、力仕事の助っ人としてジャンビ君を呼んだんだけど……この程度の被害なら掃除用ゴーレムだけで間に合うね。お茶でも飲みに行かないかね? ジャンビ君」

「おいおい。病院だろ? 患者や看護師たちは大丈夫なのかよ。まだ病院の中にいるんだろ?」


 心配するミンヤックに笑顔でバランが杖を取り出して振り、空中にディスプレーを表示させた。

「見ての通り、ケガ人は出ていないよ。さすが警察の仕事だよね」

 ミンヤックもそのディスプレーを食い入るように見て唸った。

「すげえな。本当に誰一人としてあの電撃を食らってねえのかよ。どうやったら操作できるんだよ」

 バランが微笑んで、気楽な声色でミンヤックを再度誘った。

「仕事だからね。訓練もしてるさ。じゃあ、どこの喫茶店に行こうかね。ジャンビ君お勧めの店はあるかい?」



 図書館では、コラールが書庫にある本の掃除を風の精霊達にさせていた。そこに空中ディスプレーが現れて、ラウトが話しかけてきた。

「こんにちは、コラールさん。ラウトです」

「あら、ラウトさん。どうしたの? まあ、ずいぶん汚れて」


「コラールさん、病院に何かあったんですか? 都へ戻る船が来ないんですよ」

 ディスプレーに映っているラウトが聞いてくる。彼の横にはゴーレムやら、近所の住人やらがワイワイ集まっているのが見える。


「ああ、病院ね。何でもトロル達が暴れたせいで、しばらく営業できなかったそうよ。明日から再開するんじゃないかしら」

 コラールがディスプレーに杖でニュースを次々に検索表示させながら説明していく。

「そうかー、悪い予感はしたんだよなあ」

 ラウトが、がっくりしている様子が見える。


「どうしたの? え、どこにいるのっ。ラウトさんっ」

 コラールも突然、ただごとではないと察してラウトに向かって声を上げた。

「上流の薬草園だよ。病院にも薬師部にも連絡が取れなくて困っているんだ。森林部にも問い合わせしたんだけど、所属が違うから船は出せないと言われてね」

 力なく笑うラウト。

「今日で4日目になっちゃった。どうしよう、コラールさん」

 顔が青ざめていくコラールの後ろで、セリアが声を必死でこらえて、うずくまって笑っていた。



 トロル騒動では病院の医局部の設備や機器が若干壊されただけで、薬師部や農園には被害はなかった。

 しかしメスやハサミなどを新調する必要が生じて、ミンヤックがまた2週間ほど出身世界へ戻っていた。その間またラウトはレマック薬師の第二助手になり、またもや『革新的な』薬の開発に関わることになったのであった。


「すまないね。彼もあの趣味さえなければ、非常に優秀なんだがね」

 くたくたのラウトにバランが、なぐさめにもならない言葉をかけてくれた。

「そうそう、巨人世界からの補償が下りたよ。我々にも、ほぼ10ヶ月分の電力が慰謝料としてもらえるそうだよ」

 これは良い知らせということなのだろう。ラウトの肩をポンと叩いて、そのまま病院へ歩いていった。ラウトも薬師部へ戻って、新薬の調合試験を再開する。

「でもねえ……使う暇がないんですけど」


 ボンと音がして、調合した試験薬が粉砕して燃えた。ミニミニサイズの火の精霊が現れて、元気良くアッカンベーをして消える。

「ふう……これも失敗ですよ。レマック先生。というより、燃えるような薬を作ってどうするんですか」


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