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虹を越えて  作者: 沖川英子
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雨の後に虹が立つ

 雨はあまりに唐突に降り始める。

 それは乾ききった風景をあっという間に水彩画の如くにじませ、全ての境界を水の膜で曖昧にする。

 彼女は辺りを見回し、マンションの軒先に駆けこむ。この一瞬で体はかなり濡れてしまっている。しっとりと濡れた短い髪をタオルで拭きながら、彼女は空を見つめる。

 しばらくすると黒雲がまだらに切れ、合間から陽の光が差し始める。それはみるみるうちに広がり、街にいくつもの光の筋を投げかける。大粒の雨は西日を受け、水晶の粒を撒いたように輝きだす。

 彼女はそれを見ている。

 うつろな目に、わずかに陽の光が当たる。



 豪快な雨だ。足の痛みも心の疼きも洗い流すような強い雨。土の濡れる匂いに、なぜか胸が締め付けられる。私は空を仰ぎながら深呼吸をする。

 少し空気が冷えたのか、半袖の腕にあたる風が心地良い。私は目を閉じ、しばらくそうして雨音と風音を聞く。波立っていた心がすっと凪ぐ。

 辞書の「狐の嫁入り」という項目にこの風景を貼っておきたい、そう思わせるほどの見事な天気雨。風景全てが輝きながら混ざり合って、ぼやけた色彩となっている。

 この雨が止むまで。

 私はリュックを下ろし、頭を拭きながらぼんやりと胸の内で呟く。

 この雨が止むまで、少し休もう。

 


 やがて雨はそぼそぼと大人しくなる。時折雷鳴が響くが、その低音も今は遠い。嵐はもう間もなく去ろうとしている。

 彼女はマンションの軒先に座り込み、膝を抱えて空を見上げている。幼子のように何も考えず、ただただ空を見上げている。

 リュックは傍らに投げ出され、ころりと転がった姿勢のまま主の挙動を待っている。



 綺麗な空だ。

 夕の茜色と雨雲の灰色が作りだす混沌とした色合い。その合間から西日がカーテンのように差し込んで、辺りを照らしだしている。

 なんて美しいんだろう。

 座り込んだまま、私は何でもない市街地の風景に見とれて動き出すことができない。

 体の疲れもある。けれど一番渋っているのは心だ。心が動くことを拒否し、歩むことを阻止し、ここに座っていようと誘う。

 その声に従っていたいと思う。

 けれど、そうはいかないことは分かっている。ここは誰かの住む場所だ。勝手に長時間居座って良いわけがないし、何よりそろそろ日が暮れる。もう歩きだして、夜にはどこかに辿り着かなくてはならない。

 私は茶色いレンガの床に手をつき腰を上げる。体がひどく重い。のろのろと立ちあがって、転がっていたリュックを引き寄せる。ずっしりと重い手ごたえを感じながら肩に背負い、マンションを後にする。

 道のあちらこちらに水たまりができている。それを避けながら、私は道の続きを歩き始める。

 どこへ行こうというのだろう。

 この先に何があるのだろう。

 分からない、何も分からない。

 それでも行かねば。私は、探さなくては。

 虹の向こうを。


 彼女は歩き出す。わずかに左足を引きずりながら、重い足取りで道の続きを辿ろうとする。

 背後から不意に涼しい風が吹く。

 彼女は泣きだしそうなしかめ面をふと緩め、立ち止まる。

 


 なぜか胸がざわめく。



 彼女は振り返る。そして、大きく眼を見開く。


 

 山の上に七色の光の橋がかかっている。



 それは紛れもない虹だった。

 七色の光は強く、しかし、しんと静かに山の上に覆いかぶさり、街を、彼女を、見降ろしている。虹は空の茜色に滲むことも無く、手に取れそうな確かさで輝いている。



 私は振り返ったまま身動きもとれずにいた。

 なんて虹だろう。

 あまりに大きく、あまりにはっきりと、それは視界いっぱいに広がっている。片足から反対側の足まで、見事にくっきりと、掠れることのない輝き。強く、静かな光。

 こんな虹、見たことが無い。肌が粟立っているのが自分でもよく分かる。私は思わず、自分で自分を抱きしめるように腕を掴む。胸が切なさではちきれそうに苦しい。なぜこんなに心を動かされているのか分からず、私はただ虹を仰いでいる。

 あの虹の向こうには、何がある?

 心の中で呟く。答えがゆっくりと浮かび上がる。

 虹の向こうには、私の街。



 私は路上に立ちつくし、茫然と彼方の七色の光を見つめていた。

 全てが反転していた。

 私が捨ててきたはずの街が今、虹の向こうにある。

 ならば、虹の向こうの地とは、私が目指すべき場所は、あそこではないか? 全てが始まったあの街ではないのか?

 けれど、街にいたときは確かにここが、今私の立つこの場所が虹の向こうだったのだ。だから私は出てきた。ずっとここまで歩いてきた。

 それなのに、どういうことだ。まるで馬鹿みたいじゃないか。これではいつまでも虹の向こうになんて辿り着けやしない。私は――

 混乱する頭の中に、すっと一つの思いが浮上した。それは狼狽や驚きといった他の全ての思いを押しのけ、心の真ん中に現れた。

 そうだ。

 そういうことだったんだ。

 私はその思いを掬い取り、受け入れた。心は不思議にすっと静まっていた。



 虹の向こうには、辿り着けない。



 そうだ、どれだけ焦がれても、望んでも、私は永遠に虹の向こうには辿り着けないのだ。虹の向こうとは、言うなれば「ここではないどこか」だ。けれど「ここではないどこか」は、辿り着いた途端に「ここ」になる。どれだけ憧れた所で、私が両足を着けたならば、そこは理想の地から現実の世界になるのだ。

 初めはそれでもいいのかもしれない。虹の向こうだと思っていた場所に辿り着いた喜びの方が勝るのかもしれない。

 けれど、時が経つにつれてその感動は薄れ、日々の澱が溜まり重くのしかかるようになる。そうなった時、私はきっとまた新たな「虹の向こう」を求める。

 終わりのない堂々巡り。蜃気楼のオアシスを追って砂漠をさまよう旅人。

 それではいつか、私は焦がれて野たれ死ぬ。

「……ははは」

気が付くと私は笑いだしていた。おかしくて、悲しくて仕方がなかった。あるはずの無い物に焦がれ、そのためにさ迷う自分が滑稽でならなかった。

 永遠に手に入らない物を追ってなんになろう?

 急に体中の力が抜けて、どっと疲れが増したようだった。私はふらふらと先ほどのマンションに戻り、軒先に倒れるようにして座りこむ。

 うつむきながらここまでの道のりを思い出す。

 私の街を出た時のあの高揚、山道の静かなざわめき。山頂に立った時に真っ先に感じた、肩すかしをくらったような気分。そしてあの賑やかな街での孤独。

 きっと、ありもしない虹の向こうに焦がれているうちは、私は何度でも、期待外れの失望と異邦人の孤独を味わうのだろう。

 いつかは、自分の両足をしっかりと地に着け、そこを己の場所と決めて生きる覚悟をしなくてはならない。そうでなければ、この気持ちはいつまでも私に付きまとう。

 私は再び空を見た。茜色には少しずつ青みが混じり、夜が近づいて来ている。虹は未だに山の上にかかってはいるが、先ほどよりもずっと色は薄い。こうして見ているうちにも、光はどんどんと薄れていく。鮮やかな輝きは失われ、少しずつ空と同化していく。

 消える。


 やがて、空は鉛色の雲の切れはしだけになった。

 どれだけ目を凝らしても、もう七色の光は見えなかった。


 虹の最期を見届けて、私は立ち上がる。リュックを担ぎ直し、ペットボトルの水を一口だけ飲んで歩き出す。

 もう、あれほど見事な虹を見ることはないだろう。あれは一生で一度の虹。ずっと記憶に残り、時折心に浮かんでは、私を理由の無い高揚と切なさで締め付ける理想の虹だ。

 けれど、きっと私はこれからいくつもの虹を見る。あれほど見事でなくても、切れはしであっても、紛れもない虹を見る。様々な場所で、様々な時に。その度に虹の向こうには違う景色が広がり、私は心を動かされるだろう。

 でも、他の誰かから見れば、私のいるこの場所こそが虹の向こう側なのかもしれない。まだ見ぬどこか遠い地も、良く知っている街かども、どこだって虹の向こうになり得るのだ。

 だとしたら、私はどこでも生きていける。どこへだって行ける。

 そんな気がした。



 陽は傾き、辺りには宵の気配が漂い始めている。夕風の中をふらふらとコウモリが飛び、街灯が瞬き始める。

 彼女はリュックを背負い、背筋を伸ばして街に向かう。その足取りは少し重いが、迷いはない。

 右、左、右、左。

 交互に差し出される足はしっかりと地面を踏みしめ、一歩一歩前へ進んでいる。

 街に着く頃にはすっかり日も暮れるだろう。家に着くのは明日になるはずだ。遠い道のりを思いながらも、その唇には薄らと笑みが浮かんでいる。

 行く手に広がる街灯りのきらめきを受け、彼女の黒い瞳は静かに輝いている。

 涼やかな風が吹いて彼女の袖を揺らす。どこかでりん、と風鈴の音が微かに響く。

 街向こうの山の上には、一番星が瞬いている。

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