彼女はさ迷う
夏の陽が赤みを帯びてくる。道に伸びる影が陽炎の中で踊る。排気ガスに揺れる貧相な街路樹からカナカナと涼しげな歌が響く。やっと鳴き始めたヒグラシの声を背に、彼女は道を行く。
辺りは夕の気配が濃くなり、空気の温度もわずかに下がっていた。それでも、夏の苛烈な陽光が辺りをしっかりと焼き照らしていたせいで、むわりとした空気が今なお夕景を満たしている。
先ほどの大きな街はかなり遠くなった。それでも、振り返れば高いビルの影がまだはっきりと見える。その向こうには今日越えてきたあの山がある。高い建物のせいだろうか、彼女の街から見るよりも、それは幾分か小さく感じられる。背後からむくむくと湧きあがる入道雲に押されて縮こまっているかのようだ。
彼女は今やうつむき、朝より何倍も重い荷を負うかのような足取りでゆらゆらと歩いている。道は不自然なほどに真っ直ぐに伸びて彼女を誘う。終わりなど無いかのように。
彼女はもう道の先を見ない。
ただ足元だけを見て歩く。
左の足首がジンジンと痛む。
もうどれくらい歩いたのかも分からない。距離の概念はとうに無くなって、ひたすらに足を動かすだけの時間が随分と続いている。私はからっぽの頭で、機械のようにただ右、左、と足を差し出している。
私はどこに行くのだろう。
この道はどこに続いているのだろう。
そんなことを時折思う。けれど思うだけで、積極的に調べ明らかにしようという気にはならない。
先ほどの街を出た時の「ここではない」という思いすら今では薄れ、私は最早、自分がなぜ歩いているのか、それすら分からない。
そりゃそうだ、と誰かがわらう。
お前には、行きたい場所も目的も大義名分も何もありはしないんだ。
お前はただ逃げたかっただけ。面倒なことや思い通りにならないことを、全部捨てたかっただけだ。
子供のかんしゃく、積み上げたおもちゃの街が気に入らなくて、全てをぶち壊して無かったことにしてしまう乱暴なしぐさとおんなじ。
単なる無計画で衝動的な行動だ。
だから今、お前はどうしていいか分からなくなっている。それでも引き返せずに惨めに歩いている。
そんなこと、お前だってとっくに分かっているんだろう?
違う。
逃げているだけだってお前は言う、それは私にも分かっている。
けれど、ただ逃げただけじゃない。
もっと良くありたいから、もっと自由でありたいから出てきたんだ。
そう、私は、もっと大きくなりたい。広くありたい。
あんな黒い気持ちに捕らわれて、じくじくと体の中から腐っていくような思いはしたくない。
そのためにはあの街じゃだめだった。他の場所が必要だった。だから出てきたんだ。
それは後付けの言い訳だ。自身の行動を正当化したいがための気取った言い分。かっこつけの気障な台詞。
結局、どんなにこじつけたって、お前は単なる逃亡者、現実に負けた惨めな負け犬にすぎないんだ。お前自身が認めたように。そうでなけりゃ、なぜ街を出た時に「逃げる」なんて言葉が浮かんだ? あまつさえそこに甘美な響きさえ見出して、笑ったりしたんだ。
お前は敗北者だ。
この旅に、意味も目的地もありはしない。
何も見いだせない、無意味な逃避行だ。
そんな事はない、無意味なんかじゃない。
いいや、お前だって気付いているはずだ。この先には何もない。あるのはただの田舎町と道、ただそれだけだ。
そんなこと、もっと先まで行ってみなきゃ分からない。
分かるさ、進めば進むだけ期待は膨らむ、けれどそこには凡庸なものしかない、お前はどんどん失望し、細っていく。
違う、そんなことない、私は、きっと、この先は、何かがあって、それはきっと私を変える物で――
不意に冷たい風が頬に触れた。いつの間にか陽の光は真っ黒な雲に遮られ、不穏な薄暗さが辺りを支配していた。
ぽつん、と大粒の水滴が、瞼で、ついで鼻の先で弾けた。




