彼女は山を登る
行く手の道が分かれている。右手には今まで歩いてきた道路が大きく曲がりながら続いており、左手には細い道路が山中まで伸びている。彼女は迷わず左を選ぶ。
山にへばりつくように始まった道は、やがて完全に緑に包みこまれる。
道の両側から雑木林が影を投げかける。ぬるく湿った空気が彼女の火照った体を包む。ざくざくとアスファルトを踏みしめる靴元には、先ほどの嵐で折れた小枝や落ちた木の実が散らばる。人も車も滅多に通らぬせいか、一応舗装されてはいるものの、どこか古びた印象がある。
苔むした標識と錆の浮き出たガードレールの脇を通りながら、彼女は時折、ふつふつと湧き出る汗を拭く。
山は意外に騒々しい。
夏の風に揺れる葉ずれのざわめき、名も知らぬ姿も見せぬ鳥の声。
降り注ぐ蝉しぐれ。
生き物たちは精いっぱいに主張する。自分がここにいるという事を。生きているという事を。
木々は鳴きわめきはしない。しかし、すっくと立つその姿で、旺盛に繁茂するその勢いで、彼らもまた確かに存在しているのだと静かに語る。
声高な、静かな、山全体の主張の中、彼女は足元を見つめながらひたすらに登って行く。はあはあと息は荒く、拭き残した汗が滴り、細い顎を伝って落ちる。
一台の車も通らない。すれ違う者もいない。
彼女は独りきり、山を登る。
一体、何がきっかけだったのか、未だによくわからない。こうして、汗を滴らせ息を切らせて山を登る今でも、私を駆り立てたものの正体を掴めずにいる。
例えば失恋したとか、事業に失敗したとか、そういった劇的な出来事があれば分かりやすいのだろう。けれども、これはそういった、一言で容易に説明でき誰かの共感を得られるものではない。もっと捉えどころのないモヤモヤとしたものだ。
ふと身を包む空しさ、突然に襲う手放しで泣き叫びたくなるような哀しさ、明日を飲み込み心を溶かす不安……と、具体的な言葉を挙げてしまうとそれも違うように思うのだが、とにかくそういった、何に依るのかもわからない鬱々とした感情。それらは、きっと誰にでも訪れるものなのだろう。普通であれば、こういう理由の無い負の感情は一時心を支配するだけで終わる。後には普段通りの、起伏はありながらも落ち着いた状態が戻る。
けれど、このところの私は違った。不安やいわれなき悲しみや虚無感が絶えず押し寄せ、乱暴に私を掴み、振り回し、翻弄していた。暗いドロドロしたものに捕らわれ、私はどうする事も出来ずにいた。出口のない真っ暗な部屋で、ただ力なく壁にもたれていた。
今は少しだけ分かる。きっと、私はとてつもなく疲れ、倦んでいたのだ。身の回りの様々な出来事や物ごとに。判で押したように続く日々や、狭く重い人間関係や、頭を押さえつける未来に。そして、私はそれらから逃れる術を知らなかった。ただその重さに潰されそうになりながら、どこかにあるかもしれない出口を求めて喘いでいたのだ。
あの日。
梅雨の終わりの大雨が降った帰り道。
私はふと空を見上げた。
まだ雨雲が微かに残る不安定な夏の夕空には、強い七色の光が弧を描いて浮かんでいた。
そのあまりの強さに、恐れすら覚える美しさに、背筋が震えた。
夕景にも劣らずにはっきりと己を主張する七色の橋の向こうには、この山があった。
その途端、私は気が付いたのだ。
自分が生まれてから一度も、山向こうの景色を見たことがない事に。その先に広がる物を何一つ知らない事に。
いや、山向こうだけじゃない、私は何一つ、この街の風景以外の何一つも本当には知らないで、十何年も生きてきてしまったのだ。
あまりにも狭い世界で。閉ざされた檻の日々の中で。
強い光の橋を茫然と見つめるうちに、私の胸の中に嵐のように一つの思いが湧きたった。
知りたい。
あの虹の向こうに行きたい。
思いは私の心を捕らえ、焦がし、泣きたくなるほどに強く締め付けた。
夕暮れの路上で、私は空を見上げながら立ちつくしていた。
きっと、あの向こうに広がるものを見れば、私は変わる。何かが起こる。そんな予感がした。
そうだ、きっかけは虹だ。あの、はかなく不思議に揺らめく光のいたずらだ。
それが、私を突き動かしているんだ。
あの日も、そして、今も。




