落下中
3月1日、午後10時27分。
僕は今落下中だ。
家の屋根から飛び降りたからだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
僕はもともと物忘れがひどかった。
学生時代も筆記用具を忘れることはもちろん、
カバンごと忘れて学校に行ったことも数え切れない。
友達の顔や名前が思い出せないこともしょっちゅうで、
クラスメイトからよく笑われたりしていた。
なんとか仕事についてからも、
やっぱり物忘れがひどくて、よく上司に怒られたっけ。
でも今回は別格だ。
明日、仕事で重要な取引が行われるのだ。
社運を賭け、1年半と7億円をかけたプロジェクトの取引だ。
その取引の為に、相手先に届けなければならない書類の期日が、
今日の夕方5時までだったことをすっかり忘れていたのだ。
絶対に遅れてはならない書類だった。
その書類を絶対届けなくてはならない為、
今日は会社に来なくていいぞと言われていた。
どこをどう思ったのか、今朝起きたときにはすっかり書類のことを忘れて、
会社に来なくていいことだけを覚えてしまっていた。
遅めの朝飯を食い、布団を庭に干し、部屋の片づけをし、
夕方までのんびりし、買い物に出かけ、夕食を作った。
軽く晩酌をしていたとき、今日一日放り投げていた携帯に、
会社から留守録が入っていることに気付いて再生した。
「梶田~~!!!!」
上司の怒鳴り声で酔いが一気に冷めた。
その瞬間に、書類を届けてないことに気付いたからだ。
手から携帯が滑り落ち、後のメッセージは聞けていない。
きっと取引はご破算になるだろう。
そうすると間違いなくうちの会社は潰れる。
僕のせいで、会社の二百人近い人間が路頭に迷うことになる。
それから3時間、悩みに悩んで、気付くと家の屋根に登っていた。
結婚もしていないし、両親はこの家を僕に残して早くに死んだ。
一人暮らしに3階建ての家は広すぎたが、
こうなっては飛び降りるには丁度いい高さだと思う。
膝がガクガク震えた。何度も飛ぼうとしたが、
足が自分の体じゃないみたいに全く動かなかった。
目を開けていると怖いから、目を閉じたまま屋根の端に立ち、
そのままゆっくり、倒れるように飛び降りた。
そして、今、僕は落下している。
走馬灯というやつだろうか。
今までの人生が高速で頭を駆け抜けていく。
父さん。母さん。ごめん。
もうすぐそっちに行くから。
31年の短い人生だった。
いや、あと5日程で誕生日を迎えるから、
約32年の人生か。
ふふふ。そういえば、僕が4の倍数の年齢になるときは、
うるう年になることを忘れて、誕生日をよく間違えたっけ。
自分の誕生日を間違えるなんてって、よく親に呆れられたもんだ。
…待てよ?
今年はうるう年じゃないか!
今日は3月1日じゃなくて、もしかして2月29日じゃないのか?
書類を届ける期日は3月1日までだったから、
もしかしてまだ間に合うはずだったのか?
では今日は、会社に行かなくていい日ではなく、
普通の出勤日だったのか?
なんてことだ。
じゃあ職場からの電話は、
書類を届けてないから電話が来たんじゃなく、
今日無断欠勤したことに対しての電話だったんだ。
気付いてしまったがもうどうしようもない。
僕の体は宙に浮き、まさに今落下中なのだ。
ああ。最後の最後まで、
僕の人生は忘れ物ばかりだ。
なんて情けない死に方だろう。
きっともうすぐ地面に激突し、僕は死ぬんだろう。
ほら…もう…。
ドーン!!
体にすさまじい衝撃が…。
あれ? 言うほどでもない…。
おそるおそる目を開けると、
目の前は真っ白だった。
もう天国に着いたんだろうか。
思ったより苦しくなかったなぁ。
一瞬そう思ったがどうもおかしい。
近所を走る車の音が聞こえるし、なにより、
心臓はバクバク言って、しっかり脈打っている。
僕は慌てて起き上がった。
真っ白だったのは、天国じゃなくて、
昼間に庭に干して、そのまま仕舞い忘れていた布団だった。
はっきり言って僕も忘れ物が多いです。
いろいろと抜けてます。
この話は全然他人事じゃなく、
未来の僕のことかも知れません。




