妹だけを助けた家族へ。置き去りにした私に、もう帰ってこいと言わないでください
「その衣装箱を下ろせば、私も乗れます」
馬車の扉へ手を掛け、父の隣を指すと、妹が身を乗り出した。
「嫌よ。婚礼の衣装が入っているの」
屋敷の向こうで、鐘が鳴っていた。
三度、短く。それから長く一度。
北の防柵が破られ、魔獣が領内へ入った合図だった。
妹のメイラは、すでに母の隣へ座っていた。
向かいには父が座り、その隣の一人分の席を、大きな衣装箱が塞いでいた。もう一つの箱は父の足元にあり、妹は小さな髪飾りの箱を膝に抱えていた。
「髪飾りの箱は、抱えたままでいいの。お父様の隣の、大きな箱を下ろして」
「お姉様が遅かったんでしょう」
私は階段のほうを振り返った。
足を痛めた家政婦が、手すりにすがって下りてくる。
母に連れてくるよう命じられ、部屋まで迎えに行っていた。
「早くしろ!」
門の前で、騎馬の護衛が叫んだ。
父は懐中時計をしまい、御者へ顔を向けた。
「出せ」
「お父様」
「お前は次の馬車だ。使用人たちと来なさい」
私は、父を見た。
「次は、いつ出るのですか」
「すぐだ。道を塞ぐな」
父の手が、内側から扉を引いた。
私は指を離した。
すぐ目の前で錠が下りる音がした。
「お姉様は、しっかりしているもの」
窓の向こうで、母が言った。
妹は箱を抱えたまま、こちらを見なかった。
馬が歩き出した。
追いかけて二歩、三歩進んだところで、背後から呼ばれた。
「お嬢様。次の馬車など、ありません」
厩番の少年が立っていた。
空になった厩を、片手で指していた。
◇
その朝までは、妹の嫁入りの支度をしていた。
メイラは十八、私は二十になっていた。
王都の子爵家へ嫁ぐ妹のために、父は馬車を塗り直し、母は衣装箱を新調した。
私は箱に布を詰め、妹は入れ方に文句を言った。
『お姉様には頼んでいないのに』
頼んだのは母だった。
妹の支度を手伝いなさい。あなたは急ぐことがないでしょう、と。
私の縁談は、二度流れていた。
一度目は、妹が同じ時期に舞踏会へ出るから。
二度目は、相手が私より妹と話したがったから。
父はどちらも、私の愛想が足りないせいだと言った。
だから、家を出られる妹が羨ましかった。
今朝までは、その程度のことだと思っていた。
◇
「馬も、残っていないの?」
私は少年へ尋ねた。
彼は首を振った。
「北の村へ出す荷車の分も、旦那様が連れていかれました」
厩には、夕方から村へ回すはずの馬がいた。
昼前に一度、避難の準備をするよう使いが来ていた。防柵の外で大きな群れが確認されたためだった。
私は、その使いに水を出していた。
父は、荷車と馬を北の集会所へ送るよう厩番へ命じていた。
「それも?」
「はい。馬車の先と後ろへ、一頭ずつ繋いで」
予備の馬だ。
峠道で替えるために、父が持っていった。
私は門の向こうを見た。
東へ延びる街道には、もう馬車の姿がなかった。
「御者は?」
「一緒に。残った荷車は、僕が出します。ですが、馬が……」
少年の声が震えた。
後ろで、家政婦が階段の最後の一段を下りた。
「お嬢様は?」
「私も、残りました」
口にして初めて、膝が揺れた。
父が戻ってくるかもしれない。
少し先で、荷物を下ろしてくれるかもしれない。
けれど、屋敷の北側で、何かが折れる音がした。
庭師が裏口から走ってきた。
「果樹園の柵が倒れた! 森側には行くな!」
家政婦が、私の腕をつかんだ。
私はその手を握り返した。
「川沿いへ行きましょう。粉挽き小屋まで」
屋敷の南西に、古い歩道があった。
幼い頃、乳母と通ったことがある。馬車は通れないが、川沿いを下れば共同の水車小屋へ出る。
そこから先には、南の村へ続く道がある。昼の使いも、水車小屋を歩いて逃げる者の集合場所だと言っていた。
北へは行けない。東の街道を、足を痛めた家政婦と追うこともできなかった。
「水を。持てる分だけでいいから」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
厨房の女中が革袋を持ってきた。
残ったのは、私を入れて七人だった。
庭師と厩番が、二輪の手押し車を出した。
箱を下ろし、畳んだ敷布を載せる。
「こちらへ座ってください」
家政婦は、皆の足手まといになると言った。
私は首を振った。
「置いていきません。つかまっていてください」
女中が家政婦を支え、私が車の後ろへ回った。
少し押しただけで、車輪が石に引っかかった。
庭師が持ち手を持ち上げる。
「後ろは、傾いたときだけ支えてください。重くなりますから」
私は手を離した。
何でも自分がやればいいわけではなかった。
もう一度、門を見た。
誰も戻ってこなかった。
◇
川沿いの道は、ぬかるんでいた。
手押し車は何度も止まり、そのたびに庭師と厩番が車輪を持ち上げた。
私は水袋と、家政婦の杖を持った。
背後で、遠く獣の声がした。
振り返らないようにした。
振り返れば、何もかも置いて走ってしまいそうだった。
厨房の女中が、私の袖を引いた。
「裾が」
足元の枝が、裾に絡まっていた。
抜こうとして、さらに深く引っかける。
手が思うように動かなかった。
女中が鋏を出した。
厨房から持ってきた布包みに入っていたものだった。
「切りますよ」
返事をする前に、裾が短くなった。
私は礼を言った。
膝が、寒かった。
粉挽き小屋へ着いたときには、日が傾いていた。
小屋の前に、村人がいた。
私たちを見ると、老いた男が走り寄ってきた。
「馬は? 迎えの荷車は来ないのか?」
私は口を開いた。
「父が、連れていきました」
男の顔が変わった。
小屋の中には、足腰の弱い人と、子供を抱いた女性がいた。
北の集会所で待っても荷車が来ないため、歩ける者が連れ出してきたのだという。
小さな女の子が、母親の服を握っていた。
手には、片方だけの靴があった。
「伯爵様が、すぐ来ると」
男が言った。
私は目を逸らせなかった。
「私も、そう言われました」
遠くで、蹄の音がした。
皆が顔を上げた。
私は川沿いの道を振り返った。
けれど、音がしたのは、その先の南の道だった。
「王国騎士団だ! 動ける者は、その場で手を上げろ!」
青い肩章をつけた騎士が、馬から下りた。
続いて数人が小屋へ入り、川上を見張る者と、怪我人を確かめる者に分かれた。
「北から来た方は」
私は手を上げた。
「伯爵邸から、七人で来ました。ほかの方は、北の村からです」
「最後に魔獣を見た場所は?」
「屋敷では姿は見ていません。果樹園の柵が倒れたと、庭師が」
庭師を呼んだ。
彼が話し始めると、騎士は私へ水筒を差し出した。
「座って。口を湿らせるだけでも」
私は受け取ろうとした。
水筒が、指の間から滑った。
騎士が受け止め、私の手を見た。
「怪我を?」
自分でも知らない血が、手の甲についていた。
枝で切ったらしい。
「このくらいは、後で」
「包帯は足りています」
彼は近くの衛生兵を呼び、私を小屋の石段へ座らせた。
座った途端、立てなくなった。
「荷車が来ます。乗れますから、ここで待っていてください」
私は顔を上げた。
「本当に、来ますか」
騎士は、私を見た。
それから南の道を指した。
「あの曲がり角まで来ています。二台あります。先に着いた部下から連絡が来て、回させました」
車輪の音が聞こえた。
幌のついた荷車が、木立の向こうから現れた。
私は顔を伏せた。
泣くつもりはなかったのに、顎から涙が落ちた。
◇
夜になって、私たちは南の城塞町へ入った。
家族が逃げた東の峠とは、川を挟んで反対側だった。
その町に駐屯していた騎士団は、北からの狼煙を受け、午後から川沿いを捜索していた。
水車小屋は、もともと避難の中継場所に決められていたという。
だから、そこに荷車を回せたのだと、後で聞いた。
私は修道院の大広間で、家政婦と並んで毛布を掛けられた。
寝台は足りず、床に藁を厚く敷いてある。
それでも、扉が閉まり、獣の声が聞こえないだけで、息ができた。
「お名前を、もう一度お願いします」
救援の騎士が、紙を持ってきた。
私は水車小屋で名乗ったはずだった。
けれど、どう答えたのか覚えていない。
「ティルゼ・オルバンです」
彼の手が一度止まった。
「オルバン伯爵家の?」
「長女です」
彼は、私の名を書いた。
「ご家族に、こちらへ保護されたと知らせます。知らせて困る事情はありますか」
私は、毛布の端を握った。
すぐに答えられなかった。
「……生きていることは、知らせてください」
家政婦が、私を見た。
「ただ、今は、迎えに来てほしくありません」
騎士は、私の言葉を書き足した。
「面会の希望が来たら、先にあなたへ確認します」
私は頷いた。
「お名前を、伺っても?」
「ヴァレール・セランジュ。ここの救援隊の副隊長です」
彼は紙を閉じ、すぐに次の寝床へ向かった。
私はその背中が見えなくなるまで見ていた。
◇
家族から便りが来たのは、三日後だった。
騎士団の連絡所から渡された紙には、母の筆跡があった。
『心配しました。無事でよかったわ。お父様も、あなたを案じていました。東の伯父様のお屋敷へ来なさい。家族は一緒にいるべきです』
私は二度読んだ。
次の馬車のことは、書いていなかった。
家政婦が、足を引きずって隣へ来た。
「行かれるのですか」
私は首を振った。
その動きが、自分でも意外なほど早かった。
「あの馬車が、まだ目の前にあるんです」
家政婦は黙って座った。
「父が扉を閉めるところが。妹が箱を、抱えているところが」
声が続かなくなった。
家政婦は私の背へ手を置いた。
「私が、もっと早く下りていれば」
「違います」
強く言いすぎて、家政婦が目を上げた。
「あなたは、どの馬車にも乗れなかった。私が先に乗っても、あなたたちは残ったのでしょう」
彼女の口が震えた。
私は、その手へ自分の手を重ねた。
「あなたのせいでは、ありません」
言いながら、自分にもそう言い聞かせていた。
◇
翌日、避難の経緯を聞き取る役人が来た。
伯爵家の娘だけではなく、ここへ逃げてきた全員が順に話をすることになっていた。
私は家族の馬車のことを話した。
役人は、次の馬車へ乗るよう言われた時刻と、父が最後に言った言葉を尋ねた。
「『すぐだ。道を塞ぐな』と」
書き取る音が、止まった。
「実際には、次の馬車はなかったのですね」
「厩番から、そう聞きました。厩に馬がいなかったのも、見ています」
自分が見たことと、人から聞いたことを分けた。
厩番も庭師も、別の場所で聞き取りを受けた。
私は水車小屋の村人が言ったことも伝えた。
役人は頷き、そちらも本人に聞くと答えた。
「お父上には、避難車を用意する義務があります。北の村からも、約束の馬が届かなかったと報告が来ています」
私は、膝の上で手を握った。
「父は、私が馬車に乗り遅れたと説明するかもしれません」
役人は顔を上げた。
「そう説明されたら、こちらで双方を確かめます」
父が何と言うかを、私が先回りして説明しなくてよかった。
私は、次の質問を待った。
◇
北の群れが退けられるまでに、八日かかった。
その後も、焼けた柵の修繕や、道の安全確認が続いた。
屋敷は裏棟の一部を壊されていたが、正面の建物は残っていた。
帰れると聞いたとき、私は戻ると言えなかった。
避難者向けの宿泊を、いつまでも使うこともできない。
修道院長に相談し、この町に母方の叔母がいることを話すと、手紙を出してはどうかと言われた。
叔母は二年前に夫を亡くし、この町へ移っていた。幼い頃に何度か会ったが、母は叔母とあまり付き合っていなかった。
私から使いを頼むと、その日のうちに叔母が来た。
保護名簿を見られる立場にはなく、私もこちらにいるとは知らなかったという。
「手紙が来て、驚いたわ」
叔母は私の顔を見て、それから短くなった裾へ目を落とした。
「まず、着替えましょう」
私は泣きそうになった。
叔母は迎えの馬車の扉を開け、自分が先に乗った。
「荷物は、そちらへ置けばいいわ。あなたは、こっち」
空いた席を、手で叩く。
私は、その席へ座った。
◇
家族が会いに来たいと言ってきたのは、その二日後だった。
叔母は私に聞き、私が会いたくないと答えると、そう返事をした。
翌日、父と母は予告なく玄関へ来た。
叔母は屋内へ通さなかった。
私は奥の部屋にいたが、父の声は聞こえた。
「娘を返してくれ」
「本人は、ここにいると決めています」
「妹が心配している。こんなときに、家族がばらばらになってどうする」
叔母は、少しの間、答えなかった。
「ばらばらになったのは、あなたが馬車を出したときでしょう」
私は両手で耳を塞いだ。
言ってもらって嬉しいのに、父の返事を聞くのが怖かった。
やがて扉が閉まり、叔母が戻ってきた。
私は手を下ろした。
「帰られましたか」
「ええ」
叔母は、私の向かいへ座った。
「次は、役人立ち会いで話したいそうよ。避難の調査のこともあるのでしょう」
私は、机の木目を見た。
父が私に会いたくなった理由を、初めて疑った。
◇
ヴァレール様が叔母の家へ来たのは、その午後だった。
私が修道院へ忘れていた鞄を、返しに来たのだ。
救援が落ち着き、荷物の持ち主を探す作業が始まったという。
「中身を確認してください」
叔母が見守る前で、私は鞄を開いた。
薄い財布と、ハンカチと、小さな裁縫道具。
避難のとき、自分のために持ち出せたものだった。
「あります。全部」
鞄を閉めると、彼が息を吐いた。
「よかった。小屋からこちらへ来るまでに、誰のものか分からなくなった荷物が多くて」
私は彼の手を見た。
指に、細い傷があった。
「お怪我は、大丈夫ですか」
「これは、壊れた荷車を片づけたときのものです。もう塞がっています」
私は鞄からハンカチを出しかけた。彼の手はもう血が出ていない。気づいて手を止めると、彼が少し笑った。
「ありがとうございます。洗って、薬も塗ってもらいました」
私は頷き、ハンカチを鞄へ戻した。
彼は、帰り際に言った。
「修道院の家政婦さんから、よろしくと。足は、少しずつよくなっているそうです」
私は頷き、何度も礼を言った。
彼が帰ってから、鞄を抱えたまま椅子に座った。
あの晩、私の名前を確かめた人が、今も私のことを覚えていた。
◇
父と会う日は、一週間後に決まった。
場所は救援隊の詰所ではなく、町の公会堂だった。
王都から派遣された調査官が、父の報告と私たちの証言を照合していた。
叔母が付き添い、私の隣へ座った。
父と母、妹が向かいにいた。
妹は、あの箱を持っていなかった。
けれど髪には、あの晩に膝へ抱えていた小箱の、銀の飾りがついていた。
「ティルゼ。よく無事で」
母が立ち上がろうとした。
調査官が先に、着席を求めた。
「まず、避難時の行動について確認します」
父は、私へ微笑みかけた。
「お前が後から来ると思っていた。混乱の中で、行き違いがあったようだ」
私は、膝の上で手を握った。
叔母が私を見たが、代わりには答えなかった。
「後から、何で行くと思っていたのですか」
「使用人たちにも、避難するよう言ってあった」
「馬車は、ありませんでした」
「お前は歩けただろう」
父は、言ってから口を閉じた。
調査官が紙へ何かを書いた。
「次の馬車へ乗るよう、命じたのですか」
父は、調査官へ向き直った。
「安全な場所へ行かせるつもりでした。馬車という言い方をしたかどうかは、よく覚えておりません」
階段を下りていた家政婦も、次の馬車で来るようにという言葉を聞いていた。
御者は父が扉を閉じたことを認め、護衛も、私が扉の前にいたと答えていたという。
調査官はその内容を父へ確かめた。
母が、私へ言った。
「メイラは怖がっていたの。あなたまで同時に乗ろうとしたら、馬車が出せなかったでしょう」
「箱を下ろせば、座れました」
妹が顔を上げた。
「あれは、婚礼に使うものだったのよ」
私は、妹の髪を見た。
「まだ、使えているのね」
妹が飾りへ手をやった。
私が責めたのは、飾りを持ち出したことだけではなかった。
あのときの箱より、私が軽かったことだった。
「お姉様は、助かったでしょう」
私は返事をしなかった。
「なのに、いつまで怒っているの。私が箱を捨てたら、全部よかったことになるの?」
机の端を見た。
水車小屋で、靴を片方だけ持っていた女の子を思い出した。
「あの晩、私は、馬が来るのを待っていた人に会ったわ」
妹が眉を寄せた。
「あなたの箱を捨てても、あの人たちが待たされたことは変わらない。私を乗せても、ほかの人を残したままではいけなかったの」
父が、私の名を呼んだ。
私は父を見た。
「北の村へ出す馬を、どうして連れていったのですか」
「道が悪かった。家族を確実に逃がすために、替え馬は必要だった」
調査官が問いを重ねた。
「変更を北の集会所へ知らせましたか」
「知らせる余裕はなかった」
父は、今度ははっきり答えた。
調査官は、時刻を確かめる紙を出した。
厩へ命令を変えた時点では、門の前の使いを北へ返すこともできた。
護衛の一人を、集会所へ行かせることもできた。
父は全員を馬車の護衛にした。
私は、父の顔を見ていた。
家族を逃がすため、考える時間がなかったのではない。
私も、村の人も、あとから何とかすればよいほうへ分けられていた。
◇
確認が一区切りつくと、調査官は私へ、家族と暮らす意思を尋ねた。
私は、叔母の家にいたいと答えた。
「帰らないのか」
父が聞いた。
「屋敷は直している。お前の部屋も、残っているぞ」
私は、あの部屋の窓を思い出した。
庭が見えた。
妹の衣装を詰めた日、窓辺には洗ったリボンを干していた。
「部屋は、ありました」
声が掠れた。
「でも、あの馬車には、私の席がありませんでした」
母が、肩を落とした。
「そんなふうに言わないで。私たちだって、あなたが帰ってこなくて、どれほど――」
「助けを、頼みましたか」
母の声が止まった。
「避難先で、私が屋敷に残っていると、救援の方に伝えてくださいましたか」
父が答えた。
「使用人たちと出たと考えていた」
東の関所で、父は屋敷の者も後続で退避中だと話していた。
長女の救出を頼んだ記録はなかったと、すでに調査官から聞いていた。
「心配していたと、手紙にはありました」
私は母を見た。
「私は、待っていたんです。次の馬車を」
母は、何も言わなかった。
「今も、私が帰らないと困るのは、どうしてですか」
父の指が、机を叩いた。
「娘に帰ってきてほしいと思うのが、おかしいか」
私は息を吸った。
「私は、帰りたくありません」
今度は掠れなかった。
「置き去りにした私に、もう帰ってこいと言わないでください」
父は叔母を見た。
叔母は、私の言葉を変えなかった。
「本人の意思は、お聞きになったでしょう」
調査官が面会を終えると告げた。
私は自分で立ち上がった。
足は震えていたが、座り直さずに歩けた。
◇
玄関の前に、二台の馬車が止まっていた。
片方は家族のものだった。
塗り直した車体に、川の泥が乾いて残っている。
私は、足を止めた。
「ティルゼ嬢」
階段の下に、ヴァレール様がいた。
公会堂へ救援物資の受領報告を届けに来たところだった。
叔母と会釈を交わし、私を見た。
「お帰りですか」
私は、頷けなかった。
目の前の扉から、父の手が伸びてくるような気がした。
叔母が私の腕へ触れた。
「こちらよ」
自分の馬車を示してくれた。
分かっている。
それなのに、足が動かなかった。
ヴァレール様は、私の見ているものへ目を向けた。
「少し歩きますか」
私は、彼を見た。
「広場に、腰を下ろせるところがあります」
叔母が、御者へ待つよう言った。
三人で、広場の端まで歩いた。
ベンチへ座ると、私は両手で顔を覆った。
「乗れると、思うんです」
指の間から、声が漏れた。
「叔母様の馬車なら。来るときも、乗れたのに」
ヴァレール様は、少し離れて立っていた。
「急がなくて大丈夫です。ここを閉める時間でもありませんから」
私は、深く息をした。
叔母が、水を持たせてくれた。
飲んでいる間に、家族の馬車が公会堂から出ていった。
その姿が見えなくなってから、私は立ち上がれた。
◇
それからしばらく、私は叔母の家で暮らした。
家政婦は弟夫婦の家へ移り、ほかの使用人たちも、それぞれ働き先を探し始めた。
私は彼らへ手紙を書いた。
返ってくる手紙には、家の修繕や、新しい職場の話があった。
叔母の家では、来客へお茶を出し、庭の豆を摘んだ。
何もかも避難の前と同じようにできるわけではなかった。
大きな鐘が鳴ると手が止まり、馬の蹄の音で窓を見た。
夜中に扉が閉まる音を聞いて、寝床から起き上がったこともある。
叔母は修道院の治療師へ相談するのに付き添ってくれた。
眠れなかった日は、昼間に少し横になった。
ヴァレール様は、ときどき叔母を訪ねてきた。
家政婦の足がよくなったと知らせに来た後は、帰り道に近くを通るのでと、茶の誘いを受けるようになった。
叔母は、若い人もいたほうが話が増えると言った。
ある日、私が庭から豆を運んでいると、彼が来た。
「手伝います」
籠を受け取ってもらい、私は摘み残したところへ戻った。
彼も隣へ屈んだ。
「こちらも?」
「それは、まだ小さいです」
彼は手を止め、私の指した莢と見比べた。
「同じに見えました」
「少し、薄いでしょう」
教えると、次は自分で選んだ。
私はその隣で豆を摘んだ。
彼は、摘むより茹でた豆を食べるほうが早いと言った。
私は、厨房へ全部届くか見張らなければと返した。
叔母が窓から二人を呼ぶまで、籠はなかなかいっぱいにならなかった。
◇
父への裁定が出たのは、夏の終わりだった。
王室の命を受けた調査で、領民の避難に使う馬を自家の予備へ回したこと、変更の連絡を怠ったこと、護衛をすべて自分につけたことが認められた。
避難のための馬は、王国から維持費を受けて預かっていたものだった。
単に私を馬車へ乗せなかったという、家の中だけの問題では済まなかった。
父は領地の行政と防備を指揮する権限を停止され、代わりに王室が任じた管理官が入ることになった。
爵位そのものは残ったが、これまでのように領主として命令することはできない。
新たな当主へ引き継ぐか、いつ誰へ権限を戻せるかは、再建の経過を見て決めるという。
避難の遅れによって増えた救援の費用と、待機中に失われた家畜などの損失についても、父の責任が認められた分を伯爵家が負担することになった。
母は王都の屋敷を閉め、妹とともに領地へ戻った。
妹の縁談は、秋になる前に終わった。
相手家は、父の責任について確認する中で、妹本人にも避難時の行動を尋ねた。
叔母が窓口となっている私への連絡には、縁談相手の母君からの書状もあった。
叔母は、私が知りたいと答えてから、その内容を教えてくれた。
妹は、私がしっかりしているから後に残っても平気だと思った、と答えたという。
その後で、髪飾りは婚礼に必要だったと付け足した。
先方は、家族を見捨てた判断を改めて考える意思が見えないと、話を終わらせた。
父が権限を失ったからだけではなかった。
私は、手紙を叔母へ返した。
あの銀の飾りが妹の髪を飾る式へ、出席する日は来なくなった。
◇
家族から、もう一度だけ、面会の申し入れがあった。
私は叔母の家で、会うことにした。
叔母が同席し、時間を決めた。
父は以前より痩せていた。
母は、私が元気そうだと言った。
妹は、膝に置いた小さな鞄から手を離さなかった。
「屋敷へ戻れば、お前にも役目がある」
父が言った。
「今は、皆で支え合わなくてはならない」
私は、叔母の庭が見える窓を見た。
豆の季節は終わり、次の苗を植える準備が始まっていた。
「戻りません」
母が、手を伸ばした。
「あのときのことなら、悪かったと思っているわ。だから、いつまでも」
その先は、私が聞かなかったことにすれば、母も言わずに済むのだろう。
私は、母の手を取らなかった。
「私がここで暮らすことを、認めてください」
父が、叔母を見た。
「ずっと、世話になるつもりか」
私は、叔母と相談したことを話した。
近くの学校で、子供たちへ読み書きを教える手伝いを始める。
最初は週に二度、先生について覚える。叔母の家のことも手伝い、これからの暮らしを考える。
すぐに一人で生きていけるわけではない。
それでも、私を置いていく家へ帰るしかないとは、もう思わなかった。
「私の結婚まで、駄目になったのよ」
妹が言った。
「お姉様が、そんなふうに話すから」
私は妹を見た。
「私が話さなければ、なかったことになった?」
妹は答えなかった。
「次の馬車は、なかったのよ。あの晩、私たちは歩いて逃げたの」
妹の指が、鞄をつかんだ。
母は、もう帰りましょうと言った。
私は玄関まで見送らなかった。
叔母が戻ってきてから、二人で冷めたお茶を飲んだ。
◇
秋、ヴァレール様に、収穫祭へ誘われた。
叔母も来るつもりだったが、午前中に近所の友人と会場へ行ってしまった。
私は家の女中と一緒に、彼を待った。
「馬車を、手配しましょうか」
前日に聞かれたとき、私は歩きたいと答えていた。
広場までは、ゆっくり歩いても半刻ほどだった。
彼は家の門の前で、私の服を見た。
妹のお下がりではない、叔母と選んだ赤茶色の服だった。
「お似合いです」
私は礼を言った。
彼の隣を歩くと、裾が靴に触れた。
「今日は、切らなくても歩けます」
つい言ってしまった。
彼が少しだけ私を見た。
「道も、ぬかるんでいません」
私は笑った。
あの道の話をしても、今日は足が止まらなかった。
収穫祭では、焼いた木の実を買った。
彼は一袋を私へ渡し、自分も別の袋を持った。
市場を抜けるまでに、彼の袋が先に空になった。
「豆も、そうやって食べてしまうんですね」
「あの日の豆は、すべて厨房へ渡しました」
「数えました?」
「数えてはいませんが」
彼が真面目に答えるので、私は笑い、袋を少し傾けた。
「どうぞ」
彼は一つだけ受け取った。
次の角で、また食べ物を売る屋台があった。
私はそちらを指した。
帰り道には、女中が買った菓子を叔母の家へ先に届けてくれた。私たちは、家から見える小さな橋の欄干で足を止めた。
橋のたもとには人通りがあり、遠くに叔母の姿も見えた。
「今日、来てくださって、嬉しかった」
ヴァレール様が言った。
「私も、楽しかったです」
返すと、彼は手に持った空の袋を畳んだ。
「また、お誘いしても?」
「はい」
彼が、私へ向き直った。
「あなたに会う日を、楽しみにしています。学校で何があったかも、次に何を食べたいかも、聞きたくなる」
私は、欄干から手を離した。
「ティルゼ嬢。私は、あなたが好きです」
返事をしようとすると、喉が詰まった。
彼は空の袋を握ったまま、私を待っていた。
「私、あなたがいらっしゃる日は、庭にいることが多いでしょう」
彼が頷いた。
「ええ。豆の季節が終わっても」
「門が開くと、すぐ分かるからです」
言ってから、顔が熱くなった。
彼は袋を畳み直しかけて、手を止めた。
「今日も、朝から何度も時計を見ました。出かける支度なんて、とっくに終わっていたのに」
橋の下で、水が小さく音を立てた。
私は、彼の袖へ手を添えた。
「私も、好きです」
ヴァレール様は私を見て、それから門のほうへ目を向けた。
家はここからでも見えた。
「次に伺う日を、今、決めても?」
「はい」
「五日後の午後は、いかがでしょう」
「学校から戻るのが、お昼過ぎになります」
「では、お茶の時間に」
私は頷いた。もう、その日が待ち遠しかった。
袖から手を離すと、彼の指がそっと触れた。
私はその手を握り、二人で叔母の家へ向かった。
◇
冬に、家政婦を訪ねた。
足はまだ寒い日に痛むが、家の中なら杖をつかずに歩けるという。
庭師も厩番も、それぞれの職場で冬を迎えていた。
私は学校で、子供の字を直すより先に、最後まで読むことを覚えた。
ヴァレールは、その話を聞いて、自分の字も読めるかと手紙を寄越した。
読むことはできたが、返事には、もう少し大きく書いてほしいと添えた。
彼は、次の手紙を本当に大きな字で書いてきた。
便箋が一枚増えていた。
春になる頃には、叔母の馬車へ迷わず乗れる日が増えた。
戸を閉める前に、御者が行き先を確かめてくれる。
その声を聞き、自分で頷いてから扉を閉めてもらった。
◇
正式な求婚を受けたのは、それから半年後だった。
彼は男爵家の長男で、両親は領地に健在だった。
今は騎士団の仕事を続け、城塞町で暮らす予定だと、前から聞いていた。
彼の家族にも会い、私が学校へ通うことも話した。
休みの日に一緒に帰省するなら、馬車のほかに川舟でも行けると、母君が教えてくれた。
結婚しても、働きたい。
叔母や家政婦とも、会いたい。
怖い日は、馬車へ乗れないこともある。
一つずつ話すと、ヴァレールも自分の仕事のことを話した。
夜に呼び出される日がある。救援に出れば、帰りが遅れることもある。
そのときは、分かる範囲で知らせる。だが、連絡が届くまでに時間がかかることもある。
「待つのは、怖いです」
私が言うと、彼は頷いた。
「はい」
絶対に心配させないとは、言わなかった。
だから、私も考えたことを話せた。
「叔母様のところへ行っていても、いいですか。家で一人で待っているのがつらい日は」
「もちろん。戻ったら、そちらへ会いに行きます」
私は笑った。
彼と暮らしたかった。
◇
婚礼は、その翌春に挙げた。
父には、王室の管理官と叔母を通して、婚姻の話を伝えた。
父の同意は得たが、実家へ戻ることも、家のための口添えも約束しなかった。
式へは招かなかった。
母から、いつか話せる日を待つと手紙があった。
妹からは、来なかった。
私は返事を急がなかった。
式には叔母と、避難の夜を一緒に歩いた人たちが来た。
家政婦は杖をついていたが、自分で礼拝堂の席へ座った。
厩番だった少年は、今の職場から休みをもらってきたと、少し大きくなった手を見せた。
ヴァレールと誓いを述べた。
指輪をはめてもらうとき、彼が私の手の甲へ目を落とした。
枝で切った傷は、もう薄い線になっていた。
彼はその手を、そっと握った。
◇
礼拝堂の外に、馬車が待っていた。
小さな、二人で使う馬車だった。
叔母の家の庭で食事をするため、これから町を横切っていく。
ヴァレールが扉を開けた。
私は中を見た。
座席には、何も載っていなかった。
祝いにいただいた花は、足元の籠に入っている。
広場で買った菓子の箱も、その隣に置かれていた。
私は彼の手を借りて、乗り込んだ。
自分の席へ座り、衣装の裾を整える。
彼も乗ってきた。
「窓は、開けておきますか」
「少しだけ」
彼が窓を動かし、扉を閉めた。
音がした。
私は、自分の指にある輪を見た。
怖くない、とまでは言えなかった。
それでも、降りたいとは思わなかった。
「出していただいて、大丈夫です」
自分で御者へ告げた。
車輪が動き出す。
私は窓の外へ手を振った。
家政婦が、庭師が、声を上げた。
隣から、手が伸びてきた。
私はその手を取り、膝の上へ置いた。
馬車は、二人を乗せて走り出した。
~完~




