↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

妹だけを助けた家族へ。置き去りにした私に、もう帰ってこいと言わないでください

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/11/04

「その衣装箱を下ろせば、私も乗れます」


 馬車の扉へ手を掛け、父の隣を指すと、妹が身を乗り出した。


「嫌よ。婚礼の衣装が入っているの」


 屋敷の向こうで、鐘が鳴っていた。

 三度、短く。それから長く一度。

 北の防柵が破られ、魔獣が領内へ入った合図だった。


 妹のメイラは、すでに母の隣へ座っていた。

 向かいには父が座り、その隣の一人分の席を、大きな衣装箱が塞いでいた。もう一つの箱は父の足元にあり、妹は小さな髪飾りの箱を膝に抱えていた。


「髪飾りの箱は、抱えたままでいいの。お父様の隣の、大きな箱を下ろして」

「お姉様が遅かったんでしょう」


 私は階段のほうを振り返った。

 足を痛めた家政婦が、手すりにすがって下りてくる。

 母に連れてくるよう命じられ、部屋まで迎えに行っていた。


「早くしろ!」


 門の前で、騎馬の護衛が叫んだ。

 父は懐中時計をしまい、御者へ顔を向けた。


「出せ」

「お父様」

「お前は次の馬車だ。使用人たちと来なさい」


 私は、父を見た。


「次は、いつ出るのですか」

「すぐだ。道を塞ぐな」


 父の手が、内側から扉を引いた。

 私は指を離した。

 すぐ目の前で錠が下りる音がした。


「お姉様は、しっかりしているもの」


 窓の向こうで、母が言った。

 妹は箱を抱えたまま、こちらを見なかった。


 馬が歩き出した。

 追いかけて二歩、三歩進んだところで、背後から呼ばれた。


「お嬢様。次の馬車など、ありません」


 厩番の少年が立っていた。

 空になった厩を、片手で指していた。


     ◇


 その朝までは、妹の嫁入りの支度をしていた。

 メイラは十八、私は二十になっていた。

 王都の子爵家へ嫁ぐ妹のために、父は馬車を塗り直し、母は衣装箱を新調した。


 私は箱に布を詰め、妹は入れ方に文句を言った。


『お姉様には頼んでいないのに』


 頼んだのは母だった。

 妹の支度を手伝いなさい。あなたは急ぐことがないでしょう、と。


 私の縁談は、二度流れていた。

 一度目は、妹が同じ時期に舞踏会へ出るから。

 二度目は、相手が私より妹と話したがったから。


 父はどちらも、私の愛想が足りないせいだと言った。

 だから、家を出られる妹が羨ましかった。


 今朝までは、その程度のことだと思っていた。


     ◇


「馬も、残っていないの?」


 私は少年へ尋ねた。

 彼は首を振った。


「北の村へ出す荷車の分も、旦那様が連れていかれました」


 厩には、夕方から村へ回すはずの馬がいた。

 昼前に一度、避難の準備をするよう使いが来ていた。防柵の外で大きな群れが確認されたためだった。


 私は、その使いに水を出していた。

 父は、荷車と馬を北の集会所へ送るよう厩番へ命じていた。


「それも?」

「はい。馬車の先と後ろへ、一頭ずつ繋いで」


 予備の馬だ。

 峠道で替えるために、父が持っていった。


 私は門の向こうを見た。

 東へ延びる街道には、もう馬車の姿がなかった。


「御者は?」

「一緒に。残った荷車は、僕が出します。ですが、馬が……」


 少年の声が震えた。

 後ろで、家政婦が階段の最後の一段を下りた。


「お嬢様は?」

「私も、残りました」


 口にして初めて、膝が揺れた。

 父が戻ってくるかもしれない。

 少し先で、荷物を下ろしてくれるかもしれない。


 けれど、屋敷の北側で、何かが折れる音がした。

 庭師が裏口から走ってきた。


「果樹園の柵が倒れた! 森側には行くな!」


 家政婦が、私の腕をつかんだ。

 私はその手を握り返した。


「川沿いへ行きましょう。粉挽き小屋まで」


 屋敷の南西に、古い歩道があった。

 幼い頃、乳母と通ったことがある。馬車は通れないが、川沿いを下れば共同の水車小屋へ出る。

 そこから先には、南の村へ続く道がある。昼の使いも、水車小屋を歩いて逃げる者の集合場所だと言っていた。


 北へは行けない。東の街道を、足を痛めた家政婦と追うこともできなかった。


「水を。持てる分だけでいいから」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

 厨房の女中が革袋を持ってきた。

 残ったのは、私を入れて七人だった。


 庭師と厩番が、二輪の手押し車を出した。

 箱を下ろし、畳んだ敷布を載せる。


「こちらへ座ってください」


 家政婦は、皆の足手まといになると言った。

 私は首を振った。


「置いていきません。つかまっていてください」


 女中が家政婦を支え、私が車の後ろへ回った。

 少し押しただけで、車輪が石に引っかかった。

 庭師が持ち手を持ち上げる。


「後ろは、傾いたときだけ支えてください。重くなりますから」


 私は手を離した。

 何でも自分がやればいいわけではなかった。


 もう一度、門を見た。

 誰も戻ってこなかった。


     ◇


 川沿いの道は、ぬかるんでいた。

 手押し車は何度も止まり、そのたびに庭師と厩番が車輪を持ち上げた。

 私は水袋と、家政婦の杖を持った。


 背後で、遠く獣の声がした。

 振り返らないようにした。

 振り返れば、何もかも置いて走ってしまいそうだった。


 厨房の女中が、私の袖を引いた。


「裾が」


 足元の枝が、裾に絡まっていた。

 抜こうとして、さらに深く引っかける。

 手が思うように動かなかった。


 女中が鋏を出した。

 厨房から持ってきた布包みに入っていたものだった。


「切りますよ」


 返事をする前に、裾が短くなった。

 私は礼を言った。

 膝が、寒かった。


 粉挽き小屋へ着いたときには、日が傾いていた。

 小屋の前に、村人がいた。

 私たちを見ると、老いた男が走り寄ってきた。


「馬は? 迎えの荷車は来ないのか?」


 私は口を開いた。


「父が、連れていきました」


 男の顔が変わった。

 小屋の中には、足腰の弱い人と、子供を抱いた女性がいた。

 北の集会所で待っても荷車が来ないため、歩ける者が連れ出してきたのだという。


 小さな女の子が、母親の服を握っていた。

 手には、片方だけの靴があった。


「伯爵様が、すぐ来ると」


 男が言った。

 私は目を逸らせなかった。


「私も、そう言われました」


 遠くで、蹄の音がした。


 皆が顔を上げた。

 私は川沿いの道を振り返った。

 けれど、音がしたのは、その先の南の道だった。


「王国騎士団だ! 動ける者は、その場で手を上げろ!」


 青い肩章をつけた騎士が、馬から下りた。

 続いて数人が小屋へ入り、川上を見張る者と、怪我人を確かめる者に分かれた。


「北から来た方は」


 私は手を上げた。


「伯爵邸から、七人で来ました。ほかの方は、北の村からです」

「最後に魔獣を見た場所は?」

「屋敷では姿は見ていません。果樹園の柵が倒れたと、庭師が」


 庭師を呼んだ。

 彼が話し始めると、騎士は私へ水筒を差し出した。


「座って。口を湿らせるだけでも」


 私は受け取ろうとした。

 水筒が、指の間から滑った。

 騎士が受け止め、私の手を見た。


「怪我を?」


 自分でも知らない血が、手の甲についていた。

 枝で切ったらしい。


「このくらいは、後で」

「包帯は足りています」


 彼は近くの衛生兵を呼び、私を小屋の石段へ座らせた。

 座った途端、立てなくなった。


「荷車が来ます。乗れますから、ここで待っていてください」


 私は顔を上げた。


「本当に、来ますか」


 騎士は、私を見た。

 それから南の道を指した。


「あの曲がり角まで来ています。二台あります。先に着いた部下から連絡が来て、回させました」


 車輪の音が聞こえた。

 幌のついた荷車が、木立の向こうから現れた。


 私は顔を伏せた。

 泣くつもりはなかったのに、顎から涙が落ちた。


     ◇


 夜になって、私たちは南の城塞町へ入った。

 家族が逃げた東の峠とは、川を挟んで反対側だった。


 その町に駐屯していた騎士団は、北からの狼煙を受け、午後から川沿いを捜索していた。

 水車小屋は、もともと避難の中継場所に決められていたという。

 だから、そこに荷車を回せたのだと、後で聞いた。


 私は修道院の大広間で、家政婦と並んで毛布を掛けられた。

 寝台は足りず、床に藁を厚く敷いてある。

 それでも、扉が閉まり、獣の声が聞こえないだけで、息ができた。


「お名前を、もう一度お願いします」


 救援の騎士が、紙を持ってきた。

 私は水車小屋で名乗ったはずだった。

 けれど、どう答えたのか覚えていない。


「ティルゼ・オルバンです」


 彼の手が一度止まった。


「オルバン伯爵家の?」

「長女です」


 彼は、私の名を書いた。


「ご家族に、こちらへ保護されたと知らせます。知らせて困る事情はありますか」


 私は、毛布の端を握った。

 すぐに答えられなかった。


「……生きていることは、知らせてください」


 家政婦が、私を見た。


「ただ、今は、迎えに来てほしくありません」


 騎士は、私の言葉を書き足した。


「面会の希望が来たら、先にあなたへ確認します」


 私は頷いた。


「お名前を、伺っても?」

「ヴァレール・セランジュ。ここの救援隊の副隊長です」


 彼は紙を閉じ、すぐに次の寝床へ向かった。

 私はその背中が見えなくなるまで見ていた。


     ◇


 家族から便りが来たのは、三日後だった。

 騎士団の連絡所から渡された紙には、母の筆跡があった。


『心配しました。無事でよかったわ。お父様も、あなたを案じていました。東の伯父様のお屋敷へ来なさい。家族は一緒にいるべきです』


 私は二度読んだ。

 次の馬車のことは、書いていなかった。


 家政婦が、足を引きずって隣へ来た。


「行かれるのですか」


 私は首を振った。

 その動きが、自分でも意外なほど早かった。


「あの馬車が、まだ目の前にあるんです」


 家政婦は黙って座った。


「父が扉を閉めるところが。妹が箱を、抱えているところが」


 声が続かなくなった。

 家政婦は私の背へ手を置いた。


「私が、もっと早く下りていれば」

「違います」


 強く言いすぎて、家政婦が目を上げた。


「あなたは、どの馬車にも乗れなかった。私が先に乗っても、あなたたちは残ったのでしょう」


 彼女の口が震えた。

 私は、その手へ自分の手を重ねた。


「あなたのせいでは、ありません」


 言いながら、自分にもそう言い聞かせていた。


     ◇


 翌日、避難の経緯を聞き取る役人が来た。

 伯爵家の娘だけではなく、ここへ逃げてきた全員が順に話をすることになっていた。


 私は家族の馬車のことを話した。

 役人は、次の馬車へ乗るよう言われた時刻と、父が最後に言った言葉を尋ねた。


「『すぐだ。道を塞ぐな』と」


 書き取る音が、止まった。


「実際には、次の馬車はなかったのですね」

「厩番から、そう聞きました。厩に馬がいなかったのも、見ています」


 自分が見たことと、人から聞いたことを分けた。

 厩番も庭師も、別の場所で聞き取りを受けた。


 私は水車小屋の村人が言ったことも伝えた。

 役人は頷き、そちらも本人に聞くと答えた。


「お父上には、避難車を用意する義務があります。北の村からも、約束の馬が届かなかったと報告が来ています」


 私は、膝の上で手を握った。


「父は、私が馬車に乗り遅れたと説明するかもしれません」


 役人は顔を上げた。


「そう説明されたら、こちらで双方を確かめます」


 父が何と言うかを、私が先回りして説明しなくてよかった。

 私は、次の質問を待った。


     ◇


 北の群れが退けられるまでに、八日かかった。

 その後も、焼けた柵の修繕や、道の安全確認が続いた。

 屋敷は裏棟の一部を壊されていたが、正面の建物は残っていた。


 帰れると聞いたとき、私は戻ると言えなかった。

 避難者向けの宿泊を、いつまでも使うこともできない。


 修道院長に相談し、この町に母方の叔母がいることを話すと、手紙を出してはどうかと言われた。

 叔母は二年前に夫を亡くし、この町へ移っていた。幼い頃に何度か会ったが、母は叔母とあまり付き合っていなかった。


 私から使いを頼むと、その日のうちに叔母が来た。

 保護名簿を見られる立場にはなく、私もこちらにいるとは知らなかったという。


「手紙が来て、驚いたわ」


 叔母は私の顔を見て、それから短くなった裾へ目を落とした。


「まず、着替えましょう」


 私は泣きそうになった。

 叔母は迎えの馬車の扉を開け、自分が先に乗った。


「荷物は、そちらへ置けばいいわ。あなたは、こっち」


 空いた席を、手で叩く。

 私は、その席へ座った。


     ◇


 家族が会いに来たいと言ってきたのは、その二日後だった。

 叔母は私に聞き、私が会いたくないと答えると、そう返事をした。


 翌日、父と母は予告なく玄関へ来た。

 叔母は屋内へ通さなかった。

 私は奥の部屋にいたが、父の声は聞こえた。


「娘を返してくれ」

「本人は、ここにいると決めています」

「妹が心配している。こんなときに、家族がばらばらになってどうする」


 叔母は、少しの間、答えなかった。


「ばらばらになったのは、あなたが馬車を出したときでしょう」


 私は両手で耳を塞いだ。

 言ってもらって嬉しいのに、父の返事を聞くのが怖かった。


 やがて扉が閉まり、叔母が戻ってきた。

 私は手を下ろした。


「帰られましたか」

「ええ」


 叔母は、私の向かいへ座った。


「次は、役人立ち会いで話したいそうよ。避難の調査のこともあるのでしょう」


 私は、机の木目を見た。

 父が私に会いたくなった理由を、初めて疑った。


     ◇


 ヴァレール様が叔母の家へ来たのは、その午後だった。

 私が修道院へ忘れていた鞄を、返しに来たのだ。

 救援が落ち着き、荷物の持ち主を探す作業が始まったという。


「中身を確認してください」


 叔母が見守る前で、私は鞄を開いた。

 薄い財布と、ハンカチと、小さな裁縫道具。

 避難のとき、自分のために持ち出せたものだった。


「あります。全部」


 鞄を閉めると、彼が息を吐いた。


「よかった。小屋からこちらへ来るまでに、誰のものか分からなくなった荷物が多くて」


 私は彼の手を見た。

 指に、細い傷があった。


「お怪我は、大丈夫ですか」

「これは、壊れた荷車を片づけたときのものです。もう塞がっています」


 私は鞄からハンカチを出しかけた。彼の手はもう血が出ていない。気づいて手を止めると、彼が少し笑った。


「ありがとうございます。洗って、薬も塗ってもらいました」


 私は頷き、ハンカチを鞄へ戻した。


 彼は、帰り際に言った。


「修道院の家政婦さんから、よろしくと。足は、少しずつよくなっているそうです」


 私は頷き、何度も礼を言った。

 彼が帰ってから、鞄を抱えたまま椅子に座った。


 あの晩、私の名前を確かめた人が、今も私のことを覚えていた。


     ◇


 父と会う日は、一週間後に決まった。

 場所は救援隊の詰所ではなく、町の公会堂だった。

 王都から派遣された調査官が、父の報告と私たちの証言を照合していた。


 叔母が付き添い、私の隣へ座った。

 父と母、妹が向かいにいた。


 妹は、あの箱を持っていなかった。

 けれど髪には、あの晩に膝へ抱えていた小箱の、銀の飾りがついていた。


「ティルゼ。よく無事で」


 母が立ち上がろうとした。

 調査官が先に、着席を求めた。


「まず、避難時の行動について確認します」


 父は、私へ微笑みかけた。


「お前が後から来ると思っていた。混乱の中で、行き違いがあったようだ」


 私は、膝の上で手を握った。

 叔母が私を見たが、代わりには答えなかった。


「後から、何で行くと思っていたのですか」

「使用人たちにも、避難するよう言ってあった」

「馬車は、ありませんでした」

「お前は歩けただろう」


 父は、言ってから口を閉じた。

 調査官が紙へ何かを書いた。


「次の馬車へ乗るよう、命じたのですか」


 父は、調査官へ向き直った。


「安全な場所へ行かせるつもりでした。馬車という言い方をしたかどうかは、よく覚えておりません」


 階段を下りていた家政婦も、次の馬車で来るようにという言葉を聞いていた。

 御者は父が扉を閉じたことを認め、護衛も、私が扉の前にいたと答えていたという。

 調査官はその内容を父へ確かめた。


 母が、私へ言った。


「メイラは怖がっていたの。あなたまで同時に乗ろうとしたら、馬車が出せなかったでしょう」

「箱を下ろせば、座れました」


 妹が顔を上げた。


「あれは、婚礼に使うものだったのよ」


 私は、妹の髪を見た。


「まだ、使えているのね」


 妹が飾りへ手をやった。

 私が責めたのは、飾りを持ち出したことだけではなかった。

 あのときの箱より、私が軽かったことだった。


「お姉様は、助かったでしょう」


 私は返事をしなかった。


「なのに、いつまで怒っているの。私が箱を捨てたら、全部よかったことになるの?」


 机の端を見た。

 水車小屋で、靴を片方だけ持っていた女の子を思い出した。


「あの晩、私は、馬が来るのを待っていた人に会ったわ」


 妹が眉を寄せた。


「あなたの箱を捨てても、あの人たちが待たされたことは変わらない。私を乗せても、ほかの人を残したままではいけなかったの」


 父が、私の名を呼んだ。

 私は父を見た。


「北の村へ出す馬を、どうして連れていったのですか」

「道が悪かった。家族を確実に逃がすために、替え馬は必要だった」


 調査官が問いを重ねた。


「変更を北の集会所へ知らせましたか」

「知らせる余裕はなかった」


 父は、今度ははっきり答えた。

 調査官は、時刻を確かめる紙を出した。


 厩へ命令を変えた時点では、門の前の使いを北へ返すこともできた。

 護衛の一人を、集会所へ行かせることもできた。

 父は全員を馬車の護衛にした。


 私は、父の顔を見ていた。

 家族を逃がすため、考える時間がなかったのではない。

 私も、村の人も、あとから何とかすればよいほうへ分けられていた。


     ◇


 確認が一区切りつくと、調査官は私へ、家族と暮らす意思を尋ねた。

 私は、叔母の家にいたいと答えた。


「帰らないのか」


 父が聞いた。


「屋敷は直している。お前の部屋も、残っているぞ」


 私は、あの部屋の窓を思い出した。

 庭が見えた。

 妹の衣装を詰めた日、窓辺には洗ったリボンを干していた。


「部屋は、ありました」


 声が掠れた。


「でも、あの馬車には、私の席がありませんでした」


 母が、肩を落とした。


「そんなふうに言わないで。私たちだって、あなたが帰ってこなくて、どれほど――」

「助けを、頼みましたか」


 母の声が止まった。


「避難先で、私が屋敷に残っていると、救援の方に伝えてくださいましたか」


 父が答えた。


「使用人たちと出たと考えていた」


 東の関所で、父は屋敷の者も後続で退避中だと話していた。

 長女の救出を頼んだ記録はなかったと、すでに調査官から聞いていた。


「心配していたと、手紙にはありました」


 私は母を見た。


「私は、待っていたんです。次の馬車を」


 母は、何も言わなかった。


「今も、私が帰らないと困るのは、どうしてですか」


 父の指が、机を叩いた。


「娘に帰ってきてほしいと思うのが、おかしいか」


 私は息を吸った。


「私は、帰りたくありません」


 今度は掠れなかった。


「置き去りにした私に、もう帰ってこいと言わないでください」


 父は叔母を見た。

 叔母は、私の言葉を変えなかった。


「本人の意思は、お聞きになったでしょう」


 調査官が面会を終えると告げた。

 私は自分で立ち上がった。

 足は震えていたが、座り直さずに歩けた。


     ◇


 玄関の前に、二台の馬車が止まっていた。

 片方は家族のものだった。

 塗り直した車体に、川の泥が乾いて残っている。


 私は、足を止めた。


「ティルゼ嬢」


 階段の下に、ヴァレール様がいた。

 公会堂へ救援物資の受領報告を届けに来たところだった。

 叔母と会釈を交わし、私を見た。


「お帰りですか」


 私は、頷けなかった。

 目の前の扉から、父の手が伸びてくるような気がした。


 叔母が私の腕へ触れた。


「こちらよ」


 自分の馬車を示してくれた。

 分かっている。

 それなのに、足が動かなかった。


 ヴァレール様は、私の見ているものへ目を向けた。


「少し歩きますか」


 私は、彼を見た。


「広場に、腰を下ろせるところがあります」


 叔母が、御者へ待つよう言った。

 三人で、広場の端まで歩いた。

 ベンチへ座ると、私は両手で顔を覆った。


「乗れると、思うんです」


 指の間から、声が漏れた。


「叔母様の馬車なら。来るときも、乗れたのに」


 ヴァレール様は、少し離れて立っていた。


「急がなくて大丈夫です。ここを閉める時間でもありませんから」


 私は、深く息をした。

 叔母が、水を持たせてくれた。

 飲んでいる間に、家族の馬車が公会堂から出ていった。


 その姿が見えなくなってから、私は立ち上がれた。


     ◇


 それからしばらく、私は叔母の家で暮らした。

 家政婦は弟夫婦の家へ移り、ほかの使用人たちも、それぞれ働き先を探し始めた。

 私は彼らへ手紙を書いた。

 返ってくる手紙には、家の修繕や、新しい職場の話があった。


 叔母の家では、来客へお茶を出し、庭の豆を摘んだ。

 何もかも避難の前と同じようにできるわけではなかった。

 大きな鐘が鳴ると手が止まり、馬の蹄の音で窓を見た。

 夜中に扉が閉まる音を聞いて、寝床から起き上がったこともある。


 叔母は修道院の治療師へ相談するのに付き添ってくれた。

 眠れなかった日は、昼間に少し横になった。


 ヴァレール様は、ときどき叔母を訪ねてきた。

 家政婦の足がよくなったと知らせに来た後は、帰り道に近くを通るのでと、茶の誘いを受けるようになった。

 叔母は、若い人もいたほうが話が増えると言った。


 ある日、私が庭から豆を運んでいると、彼が来た。


「手伝います」


 籠を受け取ってもらい、私は摘み残したところへ戻った。

 彼も隣へ屈んだ。


「こちらも?」

「それは、まだ小さいです」


 彼は手を止め、私の指した莢と見比べた。


「同じに見えました」

「少し、薄いでしょう」


 教えると、次は自分で選んだ。

 私はその隣で豆を摘んだ。


 彼は、摘むより茹でた豆を食べるほうが早いと言った。

 私は、厨房へ全部届くか見張らなければと返した。

 叔母が窓から二人を呼ぶまで、籠はなかなかいっぱいにならなかった。


     ◇


 父への裁定が出たのは、夏の終わりだった。

 王室の命を受けた調査で、領民の避難に使う馬を自家の予備へ回したこと、変更の連絡を怠ったこと、護衛をすべて自分につけたことが認められた。


 避難のための馬は、王国から維持費を受けて預かっていたものだった。

 単に私を馬車へ乗せなかったという、家の中だけの問題では済まなかった。


 父は領地の行政と防備を指揮する権限を停止され、代わりに王室が任じた管理官が入ることになった。

 爵位そのものは残ったが、これまでのように領主として命令することはできない。

 新たな当主へ引き継ぐか、いつ誰へ権限を戻せるかは、再建の経過を見て決めるという。


 避難の遅れによって増えた救援の費用と、待機中に失われた家畜などの損失についても、父の責任が認められた分を伯爵家が負担することになった。

 母は王都の屋敷を閉め、妹とともに領地へ戻った。


 妹の縁談は、秋になる前に終わった。

 相手家は、父の責任について確認する中で、妹本人にも避難時の行動を尋ねた。


 叔母が窓口となっている私への連絡には、縁談相手の母君からの書状もあった。

 叔母は、私が知りたいと答えてから、その内容を教えてくれた。


 妹は、私がしっかりしているから後に残っても平気だと思った、と答えたという。

 その後で、髪飾りは婚礼に必要だったと付け足した。


 先方は、家族を見捨てた判断を改めて考える意思が見えないと、話を終わらせた。

 父が権限を失ったからだけではなかった。


 私は、手紙を叔母へ返した。

 あの銀の飾りが妹の髪を飾る式へ、出席する日は来なくなった。


     ◇


 家族から、もう一度だけ、面会の申し入れがあった。

 私は叔母の家で、会うことにした。

 叔母が同席し、時間を決めた。


 父は以前より痩せていた。

 母は、私が元気そうだと言った。

 妹は、膝に置いた小さな鞄から手を離さなかった。


「屋敷へ戻れば、お前にも役目がある」


 父が言った。


「今は、皆で支え合わなくてはならない」


 私は、叔母の庭が見える窓を見た。

 豆の季節は終わり、次の苗を植える準備が始まっていた。


「戻りません」


 母が、手を伸ばした。


「あのときのことなら、悪かったと思っているわ。だから、いつまでも」


 その先は、私が聞かなかったことにすれば、母も言わずに済むのだろう。

 私は、母の手を取らなかった。


「私がここで暮らすことを、認めてください」


 父が、叔母を見た。


「ずっと、世話になるつもりか」


 私は、叔母と相談したことを話した。

 近くの学校で、子供たちへ読み書きを教える手伝いを始める。

 最初は週に二度、先生について覚える。叔母の家のことも手伝い、これからの暮らしを考える。


 すぐに一人で生きていけるわけではない。

 それでも、私を置いていく家へ帰るしかないとは、もう思わなかった。


「私の結婚まで、駄目になったのよ」


 妹が言った。


「お姉様が、そんなふうに話すから」


 私は妹を見た。


「私が話さなければ、なかったことになった?」


 妹は答えなかった。


「次の馬車は、なかったのよ。あの晩、私たちは歩いて逃げたの」


 妹の指が、鞄をつかんだ。

 母は、もう帰りましょうと言った。


 私は玄関まで見送らなかった。

 叔母が戻ってきてから、二人で冷めたお茶を飲んだ。


     ◇


 秋、ヴァレール様に、収穫祭へ誘われた。

 叔母も来るつもりだったが、午前中に近所の友人と会場へ行ってしまった。

 私は家の女中と一緒に、彼を待った。


「馬車を、手配しましょうか」


 前日に聞かれたとき、私は歩きたいと答えていた。

 広場までは、ゆっくり歩いても半刻ほどだった。


 彼は家の門の前で、私の服を見た。

 妹のお下がりではない、叔母と選んだ赤茶色の服だった。


「お似合いです」


 私は礼を言った。

 彼の隣を歩くと、裾が靴に触れた。


「今日は、切らなくても歩けます」


 つい言ってしまった。

 彼が少しだけ私を見た。


「道も、ぬかるんでいません」


 私は笑った。

 あの道の話をしても、今日は足が止まらなかった。


 収穫祭では、焼いた木の実を買った。

 彼は一袋を私へ渡し、自分も別の袋を持った。

 市場を抜けるまでに、彼の袋が先に空になった。


「豆も、そうやって食べてしまうんですね」

「あの日の豆は、すべて厨房へ渡しました」

「数えました?」

「数えてはいませんが」


 彼が真面目に答えるので、私は笑い、袋を少し傾けた。


「どうぞ」


 彼は一つだけ受け取った。

 次の角で、また食べ物を売る屋台があった。

 私はそちらを指した。


 帰り道には、女中が買った菓子を叔母の家へ先に届けてくれた。私たちは、家から見える小さな橋の欄干で足を止めた。

 橋のたもとには人通りがあり、遠くに叔母の姿も見えた。


「今日、来てくださって、嬉しかった」


 ヴァレール様が言った。


「私も、楽しかったです」


 返すと、彼は手に持った空の袋を畳んだ。


「また、お誘いしても?」

「はい」


 彼が、私へ向き直った。


「あなたに会う日を、楽しみにしています。学校で何があったかも、次に何を食べたいかも、聞きたくなる」


 私は、欄干から手を離した。


「ティルゼ嬢。私は、あなたが好きです」


 返事をしようとすると、喉が詰まった。

 彼は空の袋を握ったまま、私を待っていた。


「私、あなたがいらっしゃる日は、庭にいることが多いでしょう」


 彼が頷いた。


「ええ。豆の季節が終わっても」

「門が開くと、すぐ分かるからです」


 言ってから、顔が熱くなった。

 彼は袋を畳み直しかけて、手を止めた。


「今日も、朝から何度も時計を見ました。出かける支度なんて、とっくに終わっていたのに」


 橋の下で、水が小さく音を立てた。

 私は、彼の袖へ手を添えた。


「私も、好きです」


 ヴァレール様は私を見て、それから門のほうへ目を向けた。

 家はここからでも見えた。


「次に伺う日を、今、決めても?」

「はい」

「五日後の午後は、いかがでしょう」

「学校から戻るのが、お昼過ぎになります」

「では、お茶の時間に」


 私は頷いた。もう、その日が待ち遠しかった。

 袖から手を離すと、彼の指がそっと触れた。

 私はその手を握り、二人で叔母の家へ向かった。


     ◇


 冬に、家政婦を訪ねた。

 足はまだ寒い日に痛むが、家の中なら杖をつかずに歩けるという。

 庭師も厩番も、それぞれの職場で冬を迎えていた。


 私は学校で、子供の字を直すより先に、最後まで読むことを覚えた。

 ヴァレールは、その話を聞いて、自分の字も読めるかと手紙を寄越した。

 読むことはできたが、返事には、もう少し大きく書いてほしいと添えた。


 彼は、次の手紙を本当に大きな字で書いてきた。

 便箋が一枚増えていた。


 春になる頃には、叔母の馬車へ迷わず乗れる日が増えた。

 戸を閉める前に、御者が行き先を確かめてくれる。

 その声を聞き、自分で頷いてから扉を閉めてもらった。


     ◇


 正式な求婚を受けたのは、それから半年後だった。

 彼は男爵家の長男で、両親は領地に健在だった。

 今は騎士団の仕事を続け、城塞町で暮らす予定だと、前から聞いていた。


 彼の家族にも会い、私が学校へ通うことも話した。

 休みの日に一緒に帰省するなら、馬車のほかに川舟でも行けると、母君が教えてくれた。


 結婚しても、働きたい。

 叔母や家政婦とも、会いたい。

 怖い日は、馬車へ乗れないこともある。


 一つずつ話すと、ヴァレールも自分の仕事のことを話した。

 夜に呼び出される日がある。救援に出れば、帰りが遅れることもある。

 そのときは、分かる範囲で知らせる。だが、連絡が届くまでに時間がかかることもある。


「待つのは、怖いです」


 私が言うと、彼は頷いた。


「はい」


 絶対に心配させないとは、言わなかった。

 だから、私も考えたことを話せた。


「叔母様のところへ行っていても、いいですか。家で一人で待っているのがつらい日は」

「もちろん。戻ったら、そちらへ会いに行きます」


 私は笑った。

 彼と暮らしたかった。


     ◇


 婚礼は、その翌春に挙げた。

 父には、王室の管理官と叔母を通して、婚姻の話を伝えた。

 父の同意は得たが、実家へ戻ることも、家のための口添えも約束しなかった。

 式へは招かなかった。


 母から、いつか話せる日を待つと手紙があった。

 妹からは、来なかった。

 私は返事を急がなかった。


 式には叔母と、避難の夜を一緒に歩いた人たちが来た。

 家政婦は杖をついていたが、自分で礼拝堂の席へ座った。

 厩番だった少年は、今の職場から休みをもらってきたと、少し大きくなった手を見せた。


 ヴァレールと誓いを述べた。

 指輪をはめてもらうとき、彼が私の手の甲へ目を落とした。

 枝で切った傷は、もう薄い線になっていた。


 彼はその手を、そっと握った。


     ◇


 礼拝堂の外に、馬車が待っていた。

 小さな、二人で使う馬車だった。

 叔母の家の庭で食事をするため、これから町を横切っていく。


 ヴァレールが扉を開けた。

 私は中を見た。


 座席には、何も載っていなかった。

 祝いにいただいた花は、足元の籠に入っている。

 広場で買った菓子の箱も、その隣に置かれていた。


 私は彼の手を借りて、乗り込んだ。

 自分の席へ座り、衣装の裾を整える。

 彼も乗ってきた。


「窓は、開けておきますか」

「少しだけ」


 彼が窓を動かし、扉を閉めた。

 音がした。

 私は、自分の指にある輪を見た。


 怖くない、とまでは言えなかった。

 それでも、降りたいとは思わなかった。


「出していただいて、大丈夫です」


 自分で御者へ告げた。

 車輪が動き出す。


 私は窓の外へ手を振った。

 家政婦が、庭師が、声を上げた。


 隣から、手が伸びてきた。

 私はその手を取り、膝の上へ置いた。


 馬車は、二人を乗せて走り出した。


~完~

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。