第一部 誕生 第一章 ユキ——産声の前に
陣痛が始まったのは、夜明け前だった。
ユキは一人で医療センターに向かった。タクシーを呼ぶ持ち点の余裕はなかったから、路線バスで三つ先の停留所まで行き、そこから歩いた。腹が張るたびに立ち止まり、電柱に手をついた。夜明け前の道は誰もいなかった。
医療センターの受付で、端末をかざした。
「妊婦登録番号、確認します」
「はい」
登録は、妊娠がわかった翌週にしていた。出産に関わる医療費は、最低保障の範囲内で全額カバーされる。それだけは、この都市国家の制度が保証していることだ。
処置室に通され、ベッドに横になった。担当の医療スタッフが来て、いくつかの確認をした。父親は、という問いに「いません」と答えた。スタッフは何も言わなかった。記録に入力するだけだった。
陣痛の波が、また来た。
ユキは天井を見た。白い。どこまでも白い。
この子は、どんな数字を持って生まれてくるんだろう。
それが、その夜最初に思ったことだった。
---
産声は、夜明けとほぼ同時だった。
スタッフが言った。「男の子です」
ユキは腕に受け取った。小さかった。想像より、ずっと小さかった。目が少し開いていて、光に戸惑うように顔を歪めていた。泣いていた。大きな声で。
ユキは何も言えなかった。
この子に何を言えばいい。おめでとう、の相手は自分ではない。ありがとう、というには早すぎる。よく来たね、というには——この世界に来ることが、いいことかどうか、まだわからない。
だから黙っていた。ただ、抱いていた。
「計測を行います」スタッフが言った。「少しの間、お預かりします」
子どもが腕から離れた。
ユキは空になった腕を、しばらく見ていた。
---
計測には三十分ほどかかった。
結果は端末に送られてきた。
ユキはそれを開いた。
脳の発達可能性の欄に、数字が並んでいた。言語・論理野の伸び代、というところに、見慣れないマークがついていた。端末の説明を開くと、「上位二パーセント以内の値」とあった。
ユキはその数字を、しばらく見ていた。
上位二パーセント。
すごい数字だ、と思った。しかしすぐに、別の計算が頭の中で動き始めた。
上位二パーセントの素体スコアを持つ子どもは、それを実績に変えるためのカリキュラムが必要だ。カリキュラムは豊富に揃っている——制度がそう謳っている。自由に選択できる。しかし豊富なカリキュラムの多くは、有料枠の中にある。
ユキの持ち点は、都市国家の下から三十パーセントあたりだ。
有料枠のカリキュラムは、持ち点に応じたクレジットで購入する。ユキには、買える枠が少ない。
上位二パーセントの可能性が、この子にある。
しかしその可能性を育てるための土壌が、ユキにはない。
端末の画面が、暗くなった。
ユキはもう一度、画面を点けた。
数字を見た。
この子に、名前をつけなければいけない。
蓮、とユキは決めていた。泥の中から咲く花だから。どんな環境でも、ちゃんと咲く花だから。
それは祈りだった。




