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徒花葬送歌〜橘一郎の遺言〜中

煮詰まってたら、年明けた。

第一章「戦艦三笠の悲劇」


1905年9月約一年半程の時を経て日露先祖は終結した。


東郷平八郎率いる大日本帝国軍はロシアのバルチック艦隊を、撃破し圧倒したという。


この勝利は、列強国に大日本帝国軍の強さを見せつけることとなり、のちにインドの首相となるネルー氏は列強国にアジアの国々が支配される中、唯一日本だけが争い強さを示す姿勢に感銘を受けたという。


しかし、その年の9月に3つの事件が起こった。それは、当時の日本をさらなる混沌へと導くこととなった。


9月5日

アメリカ大統領の介入により、ポーツマス条約が締結され事実上日本の勝利となった。


しかし当時は戦争による増税や物価高騰により、国民の不満は最高潮に達していた。


当然、誰もが敗戦国であるロシアからの賠償金が支払われるものと思っていた。


しかし、ロシア国内でも革命が発生しており、内外問わず発生していた戦いにより国力は失われ、ロシアには戦争を続ける力も賠償金を支払う余裕ももはやなかったのである。



同日、日比谷公園で行われていた国民大会にて、ついに国民の不満は爆発し、暴動が起こったのである。


暴徒と化した国民は、警察と対峙し内務大臣官邸や新聞者などを襲撃し火を放ったのである。


これが、かの有名な日比谷焼き打ち事件である。


さらに悲劇はそれだけに止まらなかった。


9月11日

この戦争で、大きな戦績を上げた戦艦三笠が停泊していた佐世保港で、突如爆発事故をおこし沈没するという悲劇に見舞われた。


死者は339名にもおよび、その中には九条喜八郎様も含まれていたのである。


旦那様も同じ艦内にいたが、甲板にて作業をしていた所爆風に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ腕の骨折と全身打撲で済んだという。


全身を叩きつけられた痛みで、体中が痺れる中旦那様は、沈みゆく船に向かって喜八郎様の名を叫ばれたと言う。


自分も、燃え盛る船に向かい息子と命を共にしようとしたものの、駆けつけた部下達に引き戻され、自分だけ醜く生き延びてしまったと涙ながらに語って下さった。


そんな話を聞かされても、お嬢様と私はやはり兄様の死を受け入れることはできず、お嬢様に至っては、「お兄様は、きっと早くに脱出され今にも帰って来られるるはずだわ」と、おっしゃり毎日毎日学校へ行かれる前に私と、自分自身にいい聞かせていらっしゃった。


しかし、ついに喜八郎様が九条邸に帰っくることはなかったのである。


兄様の遺体はなく、棺の中には生前身につけておられた着物や遺品が納められた。兄様の葬儀は屋敷の者達だけで、ひっそりと執り行われた。


戦艦三笠の事故で家族を失った者たちは、きっと私達と同じことを思ったことだろう。


これが日本の為に戦った若者に対する神や仏の仕打ちだというのか。


敵国の者達でさえ、同じ血の流れる人間だ。

殺したくないと言っていた兄様に対する罰だと言うのか。


私は屋敷から運ばれて行く棺を見送りながら静かに拳を握りしめた。


第二章 [哀絶と鎮魂の日々]


それからお嬢様は、すっかり元気をなくされ、部屋に籠もられ一人で過ごされることが多くなった。


旦那様は、負傷したのが左腕だった為怪我が治るまでは九条邸で書類整理などの事務仕事をされており、お嬢様と同じ様に籠もられていた。


私は、そんな二人にかける言葉がなく、ただ今まで通りに、接するしかなかった。


そんな現状を見兼ねたご学友の里子様と仁美様は、お嬢様を気遣頻繁にサロンドルージュへお連れして下さった。


しかし、私には席を外す様に命じられ、私は一刻程経ったら戻ってくるように言われ、同席するのは許されなかった。


里子様と仁美様曰く、本音を言い過ぎると、一郎に今まで以上に苦労をかけて更に気を使わせてしまうからというのが、お嬢様の本心なのだとのことであった。


お嬢様はやはり同世代の女性達との交流では、素の自分を出して心の中を曝け出せるのだそうで、お嬢様が席を外された瞬間を見計らって、里子様や仁美様はやんわりと、お嬢様との話の内容をやんわり濁して私に伝えて下さった。


喜八郎様の葬儀から一ヶ月が経った頃。

お嬢様の口から突然。


「お兄様の墓参りへ行きたい」と提案された。


私は、思いもよらない言葉に私は驚いた。


九条家の墓は、熊五郎達が住まいとしている西運寺の奥にあった。


今年は残暑が厳しく、10月の中頃だというのに墓石を囲む土手に、彼岸花が赤々と咲いていた。


その様はまるで、土手から血が溢れている様であった。


お嬢様は、自ら屋敷の庭から摘まれた百日草や鶏頭の花を新聞紙に包み持ってこられた。


私は、寺の水場で桶に水を汲み、柄杓を桶に差し込んで墓へ向かった。


九条家之墓と書かれた墓石は、その権力を示す様に大きく立派なものであった。

私は柄杓で墓石に水をかけ、たわしで磨いた。


お嬢様は、私に袂を背中に紐で結んでずり落ちてこない様にしなさいと、指示を下された。


私が指示通りに、結ぶとお嬢様は周辺の落ち葉を箒で履き、自ら墓石の周辺を綺麗にされた。


ひと段落すると枯れた花を花瓶から抜き取り、水を入れ替え自ら摘んでこられた百日草と鶏頭を生けられた。


当時のお嬢様であったら、そんなことは奉公人にさせる様なことであったらしいが、お嬢様のその姿は、痛々しくもとても大人びて見えた。


蝋燭に火をつけ私達はそれぞれ2本ずつ線香を上げた。


私達は同時に手を合わせ、目を閉じた。


「なんとなくですが、こうして手を合わせるとお兄様は本当にいなくなってしまったのだという実感が沸いてきますわね」


「…ええ。そうですね」


「一郎。貴方はお兄様が極楽へ行けたと思う?」


私は、言葉に詰まった。


葬式の後、トメさんやヒデさんが奉公人が休憩場として使っている部屋で、こんなことを話していたことを思い出した。


「自分らの息子も戊辰戦争の最中、命を落としなんとか遺体は戻ってきたからまだいいけど、遺体すらなく戦場で命を落とし、遠い国の海底に沈んでしまった喜八郎様は、なんとお可哀想なことだろう」


彼女らは乳母として、関わりのあった喜八郎様の死を、誰よりも嘆いておられた。

彼女らは2度も息子を失ったも同然だったのだ。

無理もない。


私は、葬儀の直後でなんてことをおっしゃるのだろうと思ったが、それはあの葬儀に参加した全員が口に出さずとも、心の底で思っていたことである。


「…それは、私達が喜八郎様を弔う心次第だと思います」


お嬢様は、墓石を見つめたまま沈黙されている。


「…上手く言えないですけど、私達が墓に参り続け、喜八郎様を想う心を忘れなければ、その魂はいずれ極楽へと導かれるでしょう」

 

「そして、私達が今を慎ましく生きる姿を天へ届けることが、精一杯の供養だと思います…」


「そう…信じるしか無いと思います…」


私は、お嬢様に背中を向け、あの日喜八郎様とお嬢様に選んでいただいた思い出の眼鏡を外し、着物の袖で埃を拭き取った。


「…そうね。私達がお兄様の死を受け入れなければ、お兄様もきっと報われないわね…」


お嬢様の力のない声が、後ろから帰ってきた。


「では、行きましょうか」


それから私達は、交わす言葉も少なくその場から離れた。




第三章 [もう一人の兄弟]


西運寺の本堂に戻ってきたところで、久しぶりに熊五郎に顔を見せに行った。


お嬢様は、私に気遣って下さり積もる話もあるだろうからと言って、一人で屋敷へ帰られた。


「一郎。帰りは遅くなっても構いません。ゆっくりしてきなさい」


「熊五郎さん。一郎を頼みますよ」


「へえ。任せて下さい沙羅お嬢様」


熊五郎にそういうと、お嬢様は一人で屋敷へ帰られた。


「イチ。九条家の兄さんの葬式以来だな」


「ああ。こっちも色々と大変だったからな。顔もろくに見せないで悪かった」


「他の皆んなは?」


「いまは、和尚と共にきのこ狩りに行ってる」


いつもは、西運寺に訪れると聞こえていた子供達の声が今日は聞こえないと思ったら、そういうことだったのか。


「どうだイチ。今日は久しぶりに俺と手合わせをしてくれないか?」


私が兄様に剣道の稽古をつけてもらう様になって一ヶ月後に、自分にも同じ様に稽古をつけてほしいと熊五郎にせがまれ、私達は稽古に打ち込む様になったのだ。


「そうだな。私もちょうどお前と手合わせしたいと思っていた所だ」


熊五郎は、本堂から竹刀を二本持って来て、神棚の代わりに仏様に祈りを捧げた。


西運寺の広い庭に出て、私は東に熊五郎は西に分かれた。


お互いに向き合い、礼をすると私達は竹刀を構えた。


打ち込む、瞬間風が止まった。


「ーー‼︎」


バチンッ‼︎バチンッ‼︎


竹刀がぶつかり合う音と、互いの張り上げた声だけが、秋晴れの空に響いた。


互いに剣道をはじめた年数は、一年と数ヶ月に過ぎなかったが、兄様が月に一度西運寺へ訪れ私達二人に稽古をつけて下さっていたこともあり、私達の実力は互角であった。


熊五郎の剣は、奴の体格の良さと力の強さもあり一撃一撃が重く、道着を着ていないと、竹刀から伝わる衝撃で腕がしびれてきた。


その隙をつかれ、私は熊五郎に胴を打ち込まれてしまった。


「よし‼︎一本もらったぞイチ」


「っっつうぅ…流石は熊五郎だ。胴着越しで感じるより強烈だ…」


私は、竹刀で打ち込まれた脇腹を抱え、地面に膝をつき悶絶しながらそういった。


しかしその後は、私が先に二本取った。

私の体が細く軽いことを活かした速さで、奴との力不足部分を補うことができた。


故に、奴の攻撃を受け流すと、反撃に移るよりも速く、私は奴の面に竹刀を打ち込んだ。


面を取られた熊五郎は、額を抱え地面に座り込んみ、先程の私と同じように悶絶していた。面をつけずに面を取られたのだ。無理もないだろう。


「熊大丈夫か?手加減したつもりだったんだが…」


「痛かったよな。すまない…」


「…やっぱ、イチは強いな」


熊五郎は、体を大の字にして横たわると曇天の空を見上げて何気なく呟いた。


「そんなことはない。元に私は最初の一本はお前に負けているのだから」


「俺が言ってんのは、剣道の強さじゃねえ。ここの強さよ」


熊五郎は、自らの胸を親指で示して上下に振った。


「お前は、最初あんまり集中できてなかった様だが、二本目ですぐに、本来の強さを発揮できるんだからよ。なかなか出来ることじゃねぇ」


「…熊。お前には、なんでもお見通しみたいだな」


私も同じ様に熊五郎の隣に、大の字に横たわって、空を見上げた。


「一本目の勝負の時に、私はお前の言う通り集中できてなかったんだよ。ここにお前がいて、喜八郎様と共に稽古をつけてもらっていた頃のことを、思い出していてな…」


「…俺も、同じだよお前と打ち合いながら、ここに喜八郎様がいたら、どんなにいいかってな」


熊五郎がこう言った後に、私達は少し沈黙した。


「だが、今喜八郎様が私たちに求めることはなんだろうと、考え直したら今この瞬間に集中することだと思っただけさ」


「嗚呼。あの方はきっとそう言うだろうな」


今この瞬間に、集中し己の弱さに打ち勝つこと。


剣道の真髄は、そこにあるのだと喜八郎様が私達に稽古をつけて下さる度に、ずっと説かれてきたことである。


「イチ。お前は師匠の教えを立派に受け継いでると思うぜ」


「そう言ってもらえると嬉しいよ。お前の気遣いにはいつも感謝してる」


熊五郎の言葉で、私は少し胸の奥が軽くなった気がした。


「俺達は、血は繋がってなくても同じ師をもち、同じ教えを受け継ぐ兄弟の様なものだからな。お前が表立って自分の弱さを曝け出すことが出来ないのは知ってるから、気晴らしに稽古をつけてやろうと思ったのさ」


こう言う時の熊五郎は、いつも心強い。


「熊。本当にありがとう。また、忙しいだろうが月一くらいは顔出すよ」


「イチ。しんどくなったら、いつでも来いよ。俺はいつでも、待ってるからよ」


「嗚呼。また来るよ。絶対に」


私達は体を起こすと、互いの右手を合わせた。


本堂で、休んでいるときのこ狩りから和尚と子供達が帰ってきた。


「おや、一郎。久しぶりだな」


「大安和尚。ご無沙汰してます」


「イチ兄ずっと会いたかったよ‼︎」


「イチ兄今日は、きのこ祭りだから食べて行きなよ」


子供達は、自分達の採ってきたきのこを私の目の前に出して見せた。

寺の外で火を焚き、寺の畑で採れたさつまいもと共に焼くのだと言った。


「沙羅お嬢様も、ゆっくりしてけっておっしゃられてたんだ。お前も、食べてけよ」


私は、子供達に申し訳なく思ったが大安和尚や熊五郎に、促されありがたく頂くことにした。


焚き火と、食材の準備は和尚や熊五郎がやり、私は子供達の遊び相手を任された。


「イチ兄みてみて、俺の紙飛行機イチ兄と同じくらいよく飛ぶ様になったんだよ」


「それはいいな。久しぶりに私と競ってみるか?」


「もちろん。絶対勝つからね‼︎」



「私のお手玉、破けちゃったのイチ兄から教わった抜い方で直したんだよ」



「おお‼︎綺麗に縫えてるな。いつのまにこんなに出来る様になったんだすごいぞ‼︎」


幼い子供達と、一緒に過ごしているのは熊五郎とはまた違う意味で、自分の心が洗われるようであった。


いつのまにか、幼かった子供達が自分が知らないうちに、私が教えた技を習得し成長している姿は本当に感慨深く心に沁みたのである。


愛情を注いで育てた花や野菜が、成長してようやく花を咲かせた時の様に自然と笑みが溢れた。


「イチ。お前、最初に顔見せた時よりいい顔になったな」


焼きたての松茸を口に入れながら、熊五郎は私の隣でそんなことを言った。


「ああ。そうかもな。私もお前や、あの子達と触れ合って久しぶりに心から笑えた気がするよ」


「嗚呼そうだぜ。イチは今、1番いい顔してるぜ。生きた人間の血の通ったいい顔だ」



熊五郎のその言葉に、私はにっこりと微笑んで同じ様に焼きたての松茸をほうばった。


そうだ。枯れゆく命もあればこの子達の様に、日々成長し蕾をつけていく命もあるのだと。


私も、私の人生に集中し今日という日を自分に負けない様に、生きねばと思った。それが、亡き師であり、兄弟である兄様への精一杯の手向けになると信じて。





第四章 [明日なき花]


それは、十一月が明けてすぐのことであった。

いつもの様に、サロンドルージュで里子様、清美様と共にお嬢様が談笑していた時のことであった。

お嬢様達はやはりいつもの様に、百人一首の恋の歌について語っていた。


ちょうど話がひと段落した後に、清美様がお手洗いに立たれ、お嬢様と里子様と私がその場に残っていた。


「里子さん。私が思うに、清美様今思い人がいるんじゃないかしら」


突然、お嬢様がその様なことをおっしゃられた。


「沙羅さんどうしてそう思われるの?」


里子様は、驚いた様子で目を丸くされた。


「なんとなくですわ。」


「清美さん、私達とおしゃべりしてても気持ちがお留守になってることが、最近多いじゃない。さっきも話の途中で、なんの話してたっけって、おっしゃられる場面がありましたし」


「ああ、確かにそうですわね」


私は、側で頷きつつ平兼盛の歌の様な状況が今まさに、再現されようとしている雰囲気に、高揚感を感じたがすぐに、それはすぐに嫌な予感に変わった


しのぶれど色にでにけり我が恋は


物や思ふと人の問ふまで


この歌は、意中の人がいる男が想い人のことを考えていると、それが顔に出てしまい「誰か好きな人でも出来たのか?」と茶化される様な状況を歌にしたものである。


私も子供の頃に1番最初に覚えた、思い入れのある歌だが成長した今では、意地悪な奴に「お前アイツのことが好きなのか?」と馬鹿にされている状況が真っ先に思い浮かんでしまう。


そんなことをしたら、人間関係にひびが入り最悪、崩壊してしまうだろう。


故に、現実では誰が相手であろうとそう言った繊細なことは、軽はずみに言わない方が花であろうことは、明白であった。


「戻って来たら、清美さんに直接聞いてみましょうよ」


「…あ、それは…」


やめた方がいいんじゃないかしらという言葉は、紡がれることはなかった。

しかし、里子様は眉毛を私に似たハの字の困り眉に歪め、目線で私に訴えて来られた。



私は、里子様の視線に頷きお嬢様を静止しようと、声をかけようとしたものの一足遅かった。


「ただ今戻りま…」


「あ、清美さん。もしかして、貴方好きな人がいたりします?よければどんな方か教えてくださらない?」


お嬢様は、清美様が戻ってくるなり彼女の言葉を遮り、無遠慮な言葉を浴びせてしまった。


清美様は、一瞬動揺を見せるも明らかに気分を害された様子であった。


「最近、一緒におしゃべりしてても、上の空なことが多いじゃない?だから、好きな人でも出来たのかなぁって」


「…それを聞いてどうするというのですか。私、気分が悪くなったので、今日はこれでお暇させていただきますわ。ご機嫌様」


「…あ、ごめんなさい。私、無遠慮なこと聞いちゃって…」


お嬢様は、清美様の態度をみてはじめて自分の無神経さに気付いた様だったが、時すでに遅く清美様はお嬢様の言葉を無視し、お釣りも受け取らずにサロンドルージュを出て行かれてしまった。


「沙羅さん、流石に今のはちょっと…」

里子さんも、清美様と同じ様に気分を害された表情で、お嬢様をたしなめられた。


「…あ、あ、…私。彼女に謝らなければ…」


「お嬢様申し訳ありません。私が、もう少し早く一言かけられれば、こんなことには…」


各々が蟠りを抱えたまま、その日は早々に解散した。


お嬢様は、明日には必ず清美様に謝らねばならないが、彼女がすんなり許してくれるか分からず、不安を吐露しながら九条家へ戻られた。


しかし、時の悪戯かお嬢様は翌日から風邪を患ってしまい発熱や、咳の症状が現れた為大事を取って一週間程お休みを取られた。


お嬢様は、一週間ずっと清美様に対する自分の無神経さを後悔されてした。

しかし、私がお身体に触りますから気にされぬ様にと、申してみても彼女の曇った表情は変わらずであった。


「一郎。今日こそは絶対、清美様に謝罪してくるわ。サロンドルージュにも参りますから、貴方も一緒に着いて下さい」


「ええ。もちろんですお嬢様」


お嬢様は、そう言われると自転車で駅へと向かわれた。


私は、時間になると駅へ向かいお嬢様と待ち合わせ、サロンドルージュへ向かった。


いつも一緒に着いて来てくださる清美様と、里子様が今日は一緒ではなく、私は少し不安になった。


聞けばお嬢様は、学校についてすぐに里子様を介して清美様に謝罪をされたのだそうだ。


しかしながら、清美様の表情は晴れることはなく、里子様も同様に暗い表情をされ全ては学校が終わった後、サロンドルージュで話しましょうと言われたっきりだとおっしゃられた。


お嬢様は自分が許されているのかどうかも分からずずっと不安で、お二人に先にサロンドルージュでお待ちいただく様に里子様へ言い置き、一人で私の元へお迎えに来られたのだと言われた。


それを聞いて、お嬢様と清美様達との関係が悪い方向にいってしまうのではないかと、思ったがお嬢様にその気持ちを悟られない様に、私は励ましの言葉をかけて、いつも通りを装った。


サロンドルージュに入ると、お二人は暗い表情で、私達を出迎えて下さった。


里子様によると、事情を知った店主が今日は午後から貸切という形を取って下さり、店内は私達しかいなかった。


店内は、いつもの賑やかさがなく蓄音機から静かなクラシック音楽だけが流れていた。


「お待ちどうさん。ミルクティー二つと、ホットミルク二つ。それじゃあ、里子ワシらは席を外しておくから、ゆっくり話し合いなさい」


「うん。ありがとうおじさん。無理言ってごめんね」


里子様がそういうと、店主は厨房の方へと姿を消した。


「では、本題に入りましょうか。まず沙羅さんからはじめて」


「清美さん。本当にごめんなさい。親しき中にも礼儀ありと言う言葉を忘れて、私貴方を傷つけてしまって…」


お嬢様は、朝一番に謝罪したと言われたが、改めて誠心誠意謝罪し、元の関係に戻れる様に懇願されていた。


しかし、里子様によってお嬢様の謝罪の言葉を遮り話を切り出した。


「沙羅さん。清美さんはもう、それは気にしてないそうよ。ただね、今彼女がやりきれない気持ちでいるのは、別の問題なの」


「…清美さん。嫌だろうけど、このままじゃずっと沙羅さんと一郎ちゃんとの関係は拗れたままよ」


里子様の言葉に促され、清美様は今まで一度も見たこともない辛そうな表情で、口を開かれた。


「…あのね。心して聞いて欲しいの沙羅さん。一郎ちゃん。…私…」


「…私来月結婚するの。」


あまりに突然の告白に私も、お嬢様も沈黙してしまった。


清美様は、去年の三月ごろより家の方針でお見合いを重ねられ、その中でも由緒正しく裕福な家柄の男性にみそめられ、縁談がまとまったのだと言われた。それが、お嬢様と一悶着あった日の直前だったのだと。


「まさかずっと、思い悩まれてた原因はそのことですの?」


「いきなりで、驚きますわよねこんな話」


里子さんが俯き、今にも泣き出しそうな清美様の背中を摩りながら、そう呟いた。


「だから、私と、沙羅さんと、一郎ちゃんに改めて話を聞いてほしいんですって」


「清美さん。私の知らない内に色々なことを抱えていたのね。今度は余計なことは言わずにちゃんと聞くから、どうか全部話してくださらない?」


お嬢様が尋ねると、清美様は既に涙を流されゆっくりと口を開いて下さった。


「…縁談は断りたかったですわよ。もちろん」


「その方の一族が私に求めることはお世継ぎを産むこと。ただそれだけですもの」


「…一族の方はともかく、相手の方は、病を患っておりまして、それはまだ治療が見つかっておらず、自分がいつ死ぬかもわからない状況に、日々怯え決心の末に、私との縁談を申し込んでこられましたの」


初めのうちは、清美様のことをなんだと思っているのだと、怒りが込み上げて来たが中々複雑な事情であることを説明され、私達は何も言えずただ清美様の言葉を受け止めるしかなかった。


「ただ、私の家は兄弟が居ませんし、我が早川家は分家の為、お立場があるお方のもとへ嫁がなければならないのだと、幼い頃より言い聞かせられておりましたの。だから…」


仕方のないことだと言う言葉を紡がれることはなく、清美様はレースのハンカチを顔に当て声を押し殺して涙を流された。


蓄音機から絶えずクラシック音楽が流れているものの、清美様の啜り泣く声は店内によく響いた。


「はじめてこの知らせをお父様が私に伝えて下さった時、お父様は跪き、私を抱きしめて泣きながら許しを請うておりましたわ」


あんな、自分達にちょうど都合が良い家柄というだけで、お前を見定める卑しい一族の為に、お前を嫁がせるのが悔しくて、たまらない。


自分が無能で、分家という弱い立場でなければ、まだ年若いお前を手放したくなどない…。

…しかし、私達はこの縁談を断れる立場にないのだ。


お前に夢を持たせることも、叶えてやることも出来ない父を許しておくれと。


「…お父様のあんな姿を見てしまっては、私はただ首を縦に振ることしかできませんでしたわ」


私達は彼女にどう言う言葉をかけて良いのか分からず、三人とも押し黙ってしまった。



清美様の隣に座る里子様だけが、彼女のことを静かに抱きしめて差し上げていた。


お嬢様は、清美様が抱えていた悩みを知らずに自分が軽はずみでかけた言葉が、どれ程彼女にとって残酷だったのかを思い知り、静かに涙を流されていた。


「…私、何が貴方をそこまで怒らせ傷つけたのかも知らずに、ただ自分のためだけに謝罪してましたわ…。本当に、本当にごめんなさい」


「…私の方こそ、ごめんなさい。あの時、取り乱して。華族に生まれた令嬢ですものいずれこの時が来ることは、分かっていましたが、あまりにも突然過ぎて…」


「…縁談が決まった直後は、考えたくもないのにそのことばかり、頭に浮かんできてしまって…」


「なるほど。だから談笑中に、何を言っても上の空だった理由ですね」


「せっかく、仲直りが出来てもあと一ヶ月程しか、私はあなた方と一緒にいることは出来ません…」


「せめて、卒業するまではあなた方と一緒に過ごしたかった…」


私は、あまりの気まずさにホットミルクを、一気に飲み干した。


「ほらほら。泣いてないで、清美さん。貴方、もう一つお二人に打ち明けたいことがあったのでしょう」


里子様に促されると、清美様は覚悟を決めた様な表情で、胸の内に秘めたもう一つの気持ちを吐露された。


「沙羅さん。一郎ちゃん。私は、貴方達にもう一つ謝らなければならないことがあるの」


「私、一郎ちゃんと、沙羅さんの気持ちをを知っていたのに、一郎ちゃんのことを好きになってしまったの」


突然の告白に、私とお嬢様は動揺しお互いに顔を見合わせた。


「…私、今の女学校に入学して、はじめて出来た女性のお友達が沙羅さんと里子さん。そして、はじめて出来た男性のお友達が一郎ちゃんでしたわ」


「私、皆んなでこのサロンドルージュで、大好きな和歌を語り合えるこの時間が何よりも好きでしたわ」


「ただ、いつしか私が一郎ちゃんに向ける感情は友情と言える代物では無くなってしまったの」


「一郎ちゃんは、覚えてる?里子さんと二人で藤原実方の歌を読んで貴方をからかったときのことを」


「まさか、清美様はあの時点で私のことをそういうふうに思われていたのですか?」


清美様は痛々しい微笑みを向け、静かに頷かれた。


「…あの時は、里子さんと一緒に貴方をからかっていただけでしたわ。貴方があまりに可愛らしいから。でもね、あの時でしたわ。確かに私の恋心に火がついてしまったのは」


「貴方は、男女の壁や身分の差に関係なく、誰にでも平等に接し、知的で礼儀正しくて。人の気持ちの機微に敏感で、よく気が利いて。ただ一人の主人に忠実で一途な愛を、注ぐ姿は、私には眩しすぎたのです」


お嬢様は、私との禁断の関係を清美様に悟られていることに、動揺の表情を見せられ平常心を保つ為か、ミルクティーを啜られた。


「…清美さんも、里子さんも私達の関係性を見抜いておいででしたのね…」


「ふふ。それこそ、しのぶれど色にでにけり我が恋はでしたわ」


まるでバレていないとでもお思いで?とでも言いたげな明るい口調で、里子様そう言われ微笑まれた。


「…ええ。だからこそ私は、あなた方と談笑する裏側で、醜く激しく嫉妬に駆られてましたの。談笑中に、上の空だったのはそう言った気持ちをおさえていたことも一因でしたわ…」


「朗らかに笑われる沙羅さんをみて、はじめて憎しみの感情を抱きましたの」


私は、目を見開き思わずお嬢様の方へ顔を向けた。


お嬢様も、その言葉に衝撃を受け自らの口元に手を当て、はじめて一筋の涙を流された。



「私が貴方に対して、こんな醜い感情を抱いているとも知らずに、沙羅さんはいつも通り変わらず、私に優しく接して下さるんですもの…」


「そしてなにより、私に無い物を全てお持ちでいらっしゃるんですもの…」


清美様は、再び嗚咽を漏らされ泣き出してしまった。


「清美さんもうお辛いでしょう。ここからは代わりに私がお二人に、語っていきますから…。


そういうと、里子様は清美様に代わり、彼女の抱えて来られた苦しみについて語ってくださった。


自分の感情を押し殺し、私とお嬢様を傷つけないように、振る舞うことは想像を絶する葛藤であったこと。


お嬢様に憎しみを抱きつつも、いずれ嫁がなければならない運命から目を背ける為に、清美様は私達との友人関係に縋るしかなかったこと。


友人関係を自ら破壊し、とりつく島をを全て失うことへの恐怖と一人で戦っていたこと


そして何よりも、はじめてできた友人に対して、段々と憎しみを募らせる醜い自分自身を一番許せなかったこと。



「清美さんは、本音を隠すのがお上手な方だから、沙羅さんたちは気づかなかったでしょうが、私は薄々清美様の居心地の悪さは勘づいていましたわ…」


「ですから、ときどき清美様と二人だけで相談をしていましたの…。でもこんなことになってしまって、私何のお力添えもできなくて本当にごめんなさい…」


里子さんは、ずっとその場の空気が悪くならない様に、朗らかに話されていたが徐々に表情が曇っていき、二人に謝罪をすると堰を切ったように泣き出してしまった。


お嬢様も、泣いている里子様にかけより、床に膝をつき彼女を抱きしめ、静かに涙を流された。


「…清子さんも、里子さんも誰も、何も悪くないのですわ…」


清美様も隣に座る里子様の背中に、覆い被さるようにして抱きしめ、ごめんなさいと力なく囁いた。


「いいえ‼︎いいえ‼︎私が、鈍感すぎたのが悪いのです。お二人の苦しみを知らずに、呆けてばかりの沙羅が1番悪いのです‼︎」


三人の娘達は、塊となって各々の傷を舐め合う様にして泣いていた。


全員が全員、無力で何もできず無自覚に朋友を傷つけてしまったことへの罪悪感に打ちひしがれていた。


その様はあまりにも痛々しく、私自身も彼女達に投げかける言葉を紡げない自分の無力さを呪った。


私もお嬢様の傍へ駆け寄り、床へ膝を着くと震える彼女の肩に片手をを置き目を涙を流した。



「沙羅さんが好きな歌は、式子内親王の歌でしたわよね?」


「貴方達に愛憎入り乱れる激情を、押さえ込むことは本当に心苦しくて、だんだん平常心を保つことが出来なくなって、いっそ死んでしまいたいとも思ったものですわ。その歌の通りに」


「…!?」


あまりの衝撃の告白に、その場にいた全員が清美様の方へ視線を向けた。


そして私は、九条邸にやってきた頃のことを思い出した。


あれは、お嬢様の和歌教室の帰り道のことであった。


私達は、お互いに熱く燃え上がる様な恋をしのぶ歌が好きだと言っていた。


あの時は、まだ幼過ぎて歌がもつ本質を理解出来ていなかったが。


「お嬢様覚えておいでですか?幼き頃私達は、しのぶ恋の歌が好きだと語らったあの日のことを」


「私は、今やっとその本質を理解しましたよ」


「愛してはいけない方に恋心を抱いてしまった、今だからこそ…。清美様の気持ちが痛い程よく分かる…」


私はいつしか清美様を、お嬢様に重ねていたのだ。お嬢様も、いずれ彼女の様に名家へ嫁がれる

尊きお方なのだ。


最初から私は、お嬢様に対して愛する気持ちはあれども、結ばれることがないことは承知の上なのだ。


だからこそ、あの白梅の香る冬の夜、お嬢様と接吻を交わし、奉公人として一生添い遂げると誓ったのだ。


ならば、同じ様に恋の炎に身をこがし、苦しまれておられる清美様にも、私自らケジメをつけなければならないだろう。


それが、橘一郎という男を愛してくれた、女性に対する最大限の礼儀であろう。


「お嬢様、里子様少しだけ私を清美様と二人きりにしていただけませんか」


「沙羅さん。私からもどうかお願い」


里子様も、お嬢様に同じように懇願された。


お嬢様は、何も言わずにただ首を縦に振られた。

私は、清美様の手を引き二人で店内から外へ出た。


少し歩いて、風と人目を避けられる裏路地へ入った。


「清美様、私の様な人間を愛してくださってありがとうございます。お嬢様と同じくらい、聡明で高貴な貴方に好きになっていただけるなんて、有り難き幸せにございます。でも、それ故に貴方を苦しませてしまって申し訳ありません」


私は、まず清美様に深々と頭を下げた。


「…一郎ちゃんが頭を下げることありませんわ。貴方は何も、いえ、沙羅さんのいう様に誰も何も悪くはないのです…」


「ただ、私が嫉妬深く大人になりきれない子供だからいけないのですわ…」


ただでさえ自分を押し殺し、我慢を重ねられていた所へ、更に自分を卑下して傷つける清美に、私はこれ以上ない程胸が痛んだ。


「いいえ。もうそんなに、自分で自分を傷つけるのはおやめ下さい。今から私は、できる範囲で貴方の言うことを三つだけなんでも叶えて差し上げますから。どうかお願いです」


「お嬢様にお暇をいたいて、二人でお出かけしたり何か贈り物を差し上げるとか、簡単なものしかできませんが…!?…き、清美…様?」


内容を説明するよりも前に、彼女が私にの体に腕を回し抱きついて来た。


「…抱きしめて欲しい…ですわ」


彼女は私の耳元で、そう囁いた。

私は、彼女の背中に腕を回し優しく抱きしめて差し上げた。


「一郎ちゃん。私の本性を知って幻滅したでしょう」


私は、首を縦には振れなかった。


「確かに。いつも私たちに優しく、聡明で穏やかな淑女であらせられる清美様から、あの様な苛烈な感情をぶつけられるなんて、思ってもいませんでした…」



「ですが、私にはあの様に潔く自ら痴態を曝け出し、苦しい胸の内を素直に告白される貴方は、とても美しく見えました」


私は腕を解くことなく、彼女を抱きしめたまま淡々と本音を語った。


「どこが美しいものかと、思われるかもしれません。ですが、私にはあの時のお姿も清美様という方を形作る人間らしい部分だと。そう思ったのです」


ただ、容姿の美しいだけではない。世間に、こうあるべきと求められ、取り繕った偶像ではない。

ありのままの姿を曝け出される彼女は、真っ直ぐに生きる人間そのものであった。


やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしから

ずや 道を説く君


「それは、与謝野晶子ですわね」


「この歌のように、貴方は自分の本心に蓋をして、自らに道徳を説き、誰も傷つけない様に振る舞う代わりに自分を傷つけていたでしょう?」


一人孤独に葛藤されるのは、どれほど辛く寂しかったことだろう。


「どうか私に触れている今この瞬間に、全ての罪悪感から解放されて下さい」


そういうと、私を抱く彼女の腕の力が先ほどより少し強くなった。


「…お次は?」


「…優しく、髪を撫でて…」


私は彼女の背中から、右手を後頭部へと移し、お嬢様と同じくらいの艶と毛量を誇るぬばたまの御髪を撫でた。


「ふふふ。くすぐったいですわ」


彼女の笑い声は甘く、蠱惑的な魔性が宿り、私の心をかき乱し、呼吸が荒くしてゆく。


「…最後は?」


「口付け…して…欲しいですわ」


彼女は腕を解き、顔を上げると少し照れた様子で頬を赤らめ、視線を脇へ逸らされつつも、涙を流して潤み赤くなった目を、真っ直ぐ私に向け懇願してきた。


私はその時はじめて、お嬢様以外の女性に対して愛しいという感情を抱いた。


「…清美様、今この一瞬に、私と言う男をその身に焼き付けて下さいませ。さすれば私の愛は、貴方の中で永遠となることでしょう。」


「私も、今この瞬間に貴方と言う女性をこの身に刻み永遠の物としましょう」


彼女は、再び目に涙を流した。


道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ

恋ふ 君と我と見る


「ですわね。一郎様」


そう言って微笑まれる彼女に応える様に、私達は再び抱き合い、優しく口付けた。



その瞬間、閉じた瞼の裏に清美様達との思い出が蘇った。


そうだ。彼女の中にも、私と同じ様にサロンドルージュでの素晴らしき思い出が沢山詰まっている に違いない。


お嬢様と、一悶着あったことだって大人になったら、良き思い出となるだろう。どうか見知らぬ世界へ旅立つ彼女の旅路が、素敵なものである様に。彼女の今後の人生が笑顔溢れるものであるように。


私は、そんなことを願いながら、長い時間清美様と唇を重ねていた。


そう。それは永遠にも似たひとときであった。


「では、皆様ご機嫌様」


「…沙羅さん。里子さん。残りの一カ月間どうか仲良くして下さいませ」


「…ええもちろんですわ。では、また明日」


清美様の突然の告白に、衝撃を受けつつもお嬢様達の絆はより深く強固なものとなり、各々憑き物が落ちたかのような清々しい表情でサロンドルージュを後にした。


外は、木枯らしが吹き荒れ、街路樹の枯葉が落ち葉となって、渦を巻いていた。


汽車に揺られ、最寄駅に着く頃には雪がちらついてきた。


「あら、雪。ねえ、一郎」


「もし、私が他の殿方と結ばれることになったとしても、貴方は生涯をかけて私に尽くしてくださいますか?」


「私のそばを片時も離れることなく、愛を注いで下さいますか?」


お嬢様は、一歩後を歩く私に振り返ることもなく、そう聞いた。


「愚問ですよお嬢様。前にも申した通り、私は奉公人として生涯をかけて貴方に尽くしますと」


「…ふふ。そう…でしたわね…」


お嬢様が、そんな話を私の方を振り向かずに淡々と愛情を確認される様な言葉に、若干の違和感を感じつつ、私は安心して九条邸へもどった。


それから、三週間程お嬢様と清美様、里子様は元通り仲良く過ごされ、清美様も元の明るさを取り戻した様子で、笑顔を見せられていた。

もはや、何も恐れるものはないという様な力強い表情で日々を過ごされていた。


私たちの絆は、あの騒動をきっかけにより強固なものに進化した様な気すらしていた。



しかし、九条邸に雪が降り積もった、12月上旬の寒い日の朝のことであった。


とある手紙が、お嬢様宛に届いた。

それは、清美様が自ら命を絶たれたと言う訃報の知らせであった…。




第五章 [冬の稲妻]


知らせを受け、私達は手紙に記されている住所を頼りに、早川邸へ向かった。



早川邸へ到着すると、家人の女性が出迎えて下さり、主人である早川敬三氏の元へ案内された。


その場には、先に来ていたであろう里子様の後姿もあった。


彼女の傍には、面布をかけられた清美様の遺体が横たわっていた。


「…九条殿。橘殿。まずは、娘に挨拶をしてくれたまえ」


早川氏は、顔色一つ変えずにそうおっしゃったが、その目は赤く腫れ、鼻を啜られていた。


私達は、里子様の隣に座り彼女に声を掛けた。

しかし、俯かれ背中を丸めた彼女が顔を上げると、何も言えなくなってしまった…。


彼女は、悲しみに顔を歪め泣いていた。


「…沙羅さん。一郎ちゃん。…清美さん。何度呼びかけても、目を覚まさないの…」


その一言をきっかけに、お嬢様も涙を流された。


「…嘘…ですわ。だって清美さんあれからずっと、笑って過ごしていたじゃありませんか…。なのに何故…」


お嬢様が言う様に、私も目の前に横たわる女性の遺体が清美様だなんて信じられなかった。


すると早川氏が遺体の元へ歩み寄り、顔にかかった綿布を外された。


「…」

「…」


信じたくなかったが遺体の顔は、まさしく清美様のものであった。



その瞬間、私達の目からは音もなく涙が溢れてきた。


正気の感じられない肌とは裏腹に、表情は安らぎに満ち、微笑まれたままの穏やかな死に顔だった。


「諸君ら三人を呼んだのは、娘の最期の言葉を受け取って欲しかったからなのだ」


そういうと、早川氏は生前に清美様が残されたと言う遺書を私達の目の前に置かれた。


そして、早川氏は淡々と彼女の死について語り始めた。


本日未明、家人がお嬢様をお越しに部屋へ入るも、お嬢様の姿はどこにもなく、彼女の作業机に敬三氏、里子様、沙羅様、私宛の四人分の遺書が置いてあり、騒ぎになったと言う。


しかしすぐに、警察より清美様が近くの崖から海へと身を投げ、入水自殺を図ったと言う知らせを受け駆けつけた頃にはもう手遅れであったと言う。


幸いにも、彼女が飛び込む瞬間を目撃した漁船の漁師がすぐに駆けつけ、引き上げて下さったが為、清美さまの遺体は綺麗なままの状態を保ったまま早川邸へ戻って来たたという。


「私宛の遺書には、こんなことが書かれていた…」


お父様へ


お父様より早くお母様の元へ旅立つ親不孝者の私を、どうかお許しください。


私は、お父様の元へ生まれて来て本当に幸せでした。


お父様が私へ注いで下さった愛情が、私早川清美という人間の基礎を形造って下さったのです。


私は、今年に入ってからなんとなく、お父様の事業が傾きつつあることを、親しかった奉公人達が一人また一人と屋敷へ来なくなっていったことから勘づいておりました。


そしてそれを、私に悟らせまいとしておられたことも。


しかし、徐々にお見合いなどの回数が増え、今年の霜月に綾小路家との縁談が決まり、お父様が涙ながらに私の前で跪き、額をつけて謝罪されるなんてこともございましたわね。


私は、今までずっとお父様の為を想い、ひいてはこの早川家の為にと思って、自分の気持ちに蓋をして自らを押し殺して生きて参りました。


ただ私は、段々と自分の気持ちに嘘がつけなくなって行ったのです。


学友であり、親友である里子さん。沙羅さん。

そして、私が生涯はじめて好きになった一郎様。


彼らとの出会いが、抑圧されていた私自身を変えたのです。


彼らと過ごしている時は、大好きな与謝野晶子や百人一首を語ることができ、本当に幸せでした。


各々が色々な角度から、愛について研究し何時間も語り合う関係性は、長年憧れ続けた友人関係そのものでした。


しかし、ただ一人私の中で関係性が一度変わってしまった方がいらっしゃいます。


沙羅さんの付き人である、橘一郎様です。


彼は、平民出身の男性でありながら、私達と対等に文学作品や、百人一首に造詣が深くそんな彼にだんだんと、私は心惹かれて参りました。


もちろん最初の内は、彼を男性としてではなく年下の可愛いらしい男の子だと思っておりました。


しかし、いつのまにか私は沙羅さんに、一途な愛情を向けられる一郎様を本当に愛してしまったのです。


綾小路家との縁談が決まった直後から、私の心は抑圧された本心と、理性の狭間で徐々に磨耗して参りました。


そしてある時、沙羅様のたわいのない一言で私の膨れ上がった不満は遂に破裂してしまったのです。


里子様に、時々助言をいただきながら、自分の理性で本能を抑えていたのに、彼女の努力も虚しく私は大切な友人達を傷つけてしまったのです。


しかし、彼女達はそれでもなお、私のことを責め立てることもなく、むしろ私の痛みや苦しみに気付けず、何の力添えにもなれたかったとおっしゃり、私のために涙を流して下さったのです。


そして、最後は最愛の一郎様から、人前で醜い感情さえありのままを曝け出す姿も、私の人間らしい一部分だとおっしゃって下さったのです。


そして一郎様は、私に本当の意味で人を愛する心を与えてくれたのです。


彼は、最後に自分ができる最低限のことを三つ叶えてくれるとおっしゃいました。


私は彼に、抱きしめること。頭を撫でること。口付けを交わすことを条件にだし、彼は動揺することなく私の望みを叶えて下さいました。


彼自身には、すでに意中の女性がいるにも関わらず、私の意地悪なお願いを全て叶えて下さったのです。


私は、綾小路家の人々に、生涯ずっと愛されることも、愛することなく子を産み育て、綾小路家の為に死ぬものとばかり、思っていました。


しかし、一郎様はあの一瞬で私という人間の心を救い上げ空っぽの心に愛を注いで下さったのです。


その後は、沙羅さんや里子さんとも更に絆が深まり、一郎様とも元の友人同士という関係に戻り穏やで楽しい日常を過ごすことができました。


故に、私は自分の人生に、大いに満足し思い残すことが何もなくなってしまったのです。


綾小路家殿人々には、恥をかかせる形になってしまい、大変申し訳なく思います。


しかし、私が無常の愛を注げる殿方は一郎様だけなのです。


こんな気持ちのままご子息の元へ嫁ぐわけにもいかず、こんな形になってしまい本当にごめんなさい。


最後になりますが、私の生涯最期の我儘をお許し下さい。


清美は、この短い人生の中で自分の運命を怨んだことは数あれども、お父様のことを怨んだことは一度もございません。


私の死はお父様を愛すればこそ、選択せざるを得なかったことなのです。


最初に述べたように、私はお父様の事業が傾きつつあることを悟り、今年の皐月頃に家人の一人に早川家がどれ程厳しい状況にあるのかを問いただしました。


私はその答えに、言葉を失う程驚愕致しました。


家計を圧迫しているのは、他でもない私の女学校への教育費でした。


家人には、お父様が私の為を思って女学校へ入れたのだから、間違っても退学して働くなんて言わないようにと、釘を刺されました。


しかしながら、私はずっと自分の為にお父様が働き詰めであることが心苦しかったのです。


養わなければならない家族がいるのに、早川家を出て行かざるを得ない奉公人達を見るのが心苦しかったです。


だから私は、私自身を生贄に神様に願掛けをしたのです。


私の命を犠牲にどうか、早川家をお救い下さいと。


きっとお父様も、家人や奉公人達も私が命を捨てたことに嘆き悲しみ、怒り振り上げた拳のやりどころに困っていることでしょう。


なにより私の為に、全てを捧げて生きてこられたお父様に対する最大の親不孝に違いありません。


ですが、私の行いは全て早川家の為、ひいては自分自身の為なのです。


私の人生は家族、友人、愛する人に恵まれ、華族でありながら裕福とは言えない環境であっても、決して不幸などではありませんでした。


お父様は常々、私の幸せを願っているとおっしゃられていました。


しかし、私はもうすでにこれ以上の幸せを想像することが出来ませんでした。


身も心も満足し切ってしまった今、私が望むのはただ一つお父様の幸せと、家人奉公人達の幸せです。


もう私に、何も与えなくて良いのです。

私はもうこれ以上幸せな自分を想像出来ない程に、満足した人生を送ることができました。私の為に嘆くな、とは言いません。 


しかし、どうか自分自身を責めることなく、現世で幸せに生きる姿をあの世へ届けて下さい。


そして、将来お父様が天寿をまっとうした後に迎えに行きます。


それまでに、私は自らが背負った親不孝者の業を地獄で精算出来るように努めようと思います。



そして、いつかまた再びお父様の娘として生まれてきます。何度生まれ変わろうとも、私は必ずお父様の元へ生まれてきます。


19年間私を立派に育て上げて下さり、本当にありがとうございました。

そして、今までもこれからも、私を愛してくださることに感謝致します。



清美様の遺書は、自殺した者の遺書とは思えない程まっすぐで無邪気な文面であった。


彼女は、抑圧から解き放たれた末に、死という道を選んでしまった。


私達はこんなにも、悲壮感に打ちひしがれているというのに。


遺体となって帰ってきた清美様は、本当に穏やかな顔をされていたのである。


早川氏曰く、清美は、自分の知らぬ所でいつの間にか成長しており、聞き分けも良く手を煩わせた事など一度もない様な、大人びた子であったと言う。


それは正しく、私達がよく知っている清美様のお姿であった。


しかしながらそれは、清美様が自身の感情を押し殺し続け理想の自分を演じていた、偽りの姿に他ならなかった。


「…生きて再び顔を合わせ、なんと馬鹿な真似をと、叱りつけてやりたかった所だが…。女の身で有りながら、かつての武士の切腹の如き覚悟…。

こんなにも、潔くまっすぐな気持ちで往生を遂げられてしまったら、儂は父として何もお前に説教することも、後を追うことすら出来ぬではないか…」


「生涯一度の我儘と、言わず出来ることなら生きているうちに沢山我儘を言って欲しかったものよ」


そう言うと、早川氏は安らかに眠る清美様のお顔を優しく撫でた。そして早川家の再興為に、自ら命を絶たせてしまったことへの謝罪を彼女に述べた。すでに泣き腫らした目から、涙を流された。


「君達には、本当に感謝している。君達の存在が唯一、清美の人生において充実感と幸せを与えてくれる心の拠り所であったのだろう」


「どうか、娘の望む通りに笑顔で見送って欲しい」


そう言うと早川氏は、私達にそれぞれ宛てられた遺書を読む様に促された。


読み終えたお嬢様や里子様と、内容を照らし合わせて見ても、それぞれ彼女と過ごした思い出のエピソードが挟まれていること以外は、父である早川氏に宛てられた遺書とほぼ同じであった。


彼女は、ただひたすらまっすぐに自らの命を神に捧げ、早川家の再興を願ったこと。私達との出会いと、思い出に感謝をなられられていたこと。


この日を迎えるまでの三週間は、人生で一番幸せで充実していたこと。


私の死を自分のせいだと、自分の事を攻めないで欲しいこと。


何度生まれ変わろうと、私達のご学友として寄り添い今度は卒業するまで絶対に添い遂げること。


最後に、早川清美という人間のことを忘れないでいて欲しいこと。


「…清美様は、ずるいですよ。私たちの知らない所で、一足先に大人になってしまわれる…」


「…置いて行かれる私達の気持ちも知らずに、最期は一人で遠いところへ行ってしまわれた…」


どうしようもなく、悲しくてやるせ無いのに一片の悔いもなく逝かれた清美様に、芯を持った人間としての強烈な生き様、死に様を見せつけられ私達は早川氏と同じ様に何も言えなかった。


ただ静かに泣きながら、お互いに抱き合い傷を舐め合うことしかできなかった。


里子様と早川氏に別れを告げ、早川邸を出る時には、灰色の空が広がり雨が降っていた。


今朝、九条家邸出ていく時には、空へと旅立たれた清美様を迎え入れるが如く、澄み切った青い空であった。


しかし、帰り際には分厚い雪雲が覆い尽くし、冷たい雨が降っていた。まるで、空も私達の気持ちに呼応し泣いている様な気がした。


私達が駅に到着する直前に雨は雪に変わっていた。


故に、私は今夜は吹雪になりそうだと思い、帰路を急いだ。


「お嬢様、今夜は吹雪になりそうなので、少し急ぎましょう」


しかし、私の悪い予感は、別方向に的中したのである。


私に、手を引かれ私の後ろをついて来られるお嬢様が、急に立ち止まられ膝を地面について激しく咳き込まれた。


私は、お嬢様と同様に傍にしゃがみ込み、背中をさすった。


咳が落ち着き、お嬢様が口を塞いでいた手を離すと、掌には赤い血が付着していた。


私達が動揺している数秒の間に、お嬢様の手から血の雫が一滴、二滴と流れ落ち、既に地面を覆っていた白雪を赤く染めた。


「お、お嬢様これは一体…」


「…一郎お願いだから。…お父様にも、他の奉公人さん達にも、誰にもこの事を伝えないでちょうだい」


口元から血を流し眉間に皺を寄せ、苦しそうな笑顔を私に向け懇願されるお嬢様を前に、私はただ静かに頷くことしかできなかった。


その日の夜は、激しい吹雪に見舞われた。

翌日の朝には、庭の白梅の木が雪化粧をまとっていた。



第六章 [嵐の予感]


あれから私達は、清美様の通夜、葬式を経てもなお変わらぬ日常を過ごし、新年を迎えた。


私にとって、唯一救いだったのは里子様やお嬢様が

変わらぬ友人関係を保たれ、少しずつ元の明るい少女達に戻られていったことで合った。


しかし、私にはずっと清美様が亡くなられた日の夜のことが、頭の中に残り続け誰にも打ち明けられず、罪悪感と焦燥感に支配されていた。


お嬢様自身も、11月に風邪をひいたあたりから、度々咳に悩まされて、あの夜にはじめて自分の肺が病に侵されているのだと、確信したのだと言われた。


「一郎ちゃんは、どうしてお父様にさえ打ち明けず、治療に移らないのか疑問に思うでしょう」


「それは、私の病気は、母と同じ結核に違いないからですわ」


私は過去の記憶を回想した。

九条邸へ来てすぐの頃に、お嬢様の母にあたる奥様がいないことに疑問を持ち、まだ存命であった爺様に聞いたことがあった。


爺様からは、私が九条邸に来るきっかけになった今は亡き、次男樹男を産んで奥様はすぐに結核に罹患し他界されてしまっていたのだと。


「母だけでなく、既に息子達にも先立たれ、その上私まで先に逝く運命にあるだなんて、とても言えませんわ…」


私はお嬢様の言葉を聞いて、旦那様とお嬢様があまりにも不憫で何も言い返すことができず、お嬢様のお部屋を後にした。


奉公人専用の舎宅にある自室で、暗い部屋を照らす為に蝋燭に火をつけた。


机に蝋燭を置き、座布団に座るとゆらゆらと揺れる蝋燭の炎をしばらく眺めていた。


外は、雪は止んでいるものの強風が吹き荒れ、どこからか窓にに木の枝が叩きつけられる音がしていた。


身寄りのない私の為に、仕事と住まいを与えて下さり、悪漢に一矢報いた私に褒美を下さったり、まるで本当の父の様に接してくださる旦那様に、どうしてこの様な仕打ちを神や仏はお与えになるのだろう。


本当の兄の様に、私を一人前の男として育てて下さり、お嬢様と共に、この金縁眼鏡を一緒に選んで下さった喜八郎様を。


私、橘一郎という男の在り方を否定せず、ありのままを受け止めて下さった喜八郎様を。


敵国の兵士にすら、情けをかけられて葛藤しながらも日露戦争を生き延びられた、喜八郎様を。


あの様な不慮の事故で命を奪ったのは何故か。


さらに、我が主人である沙羅お嬢様の命を奪おうと、なさるのは何故か。


お優しく、お美しく、清らかな御心で、学問にも熱心に勤しまれ、まだまだお転婆な所もありつつようやく、一人前の淑女に御成遊ばさんとされるお嬢様になんと酷な運命を課されたまうのか。


そして、何故に私を愛して下さる女性の命を再び奪うと言うのか。


眼前に組んだ両手を握り締め、俯いていた。

しかし、沸々と湧き上がる怒りに段々と顔を歪め、ゆらめく蝋燭の炎を睨みつけた。


蝋燭の炎は、涙に濡れボヤけて見えた。


怒りと悲しみのあまり、なんとなく右目の古傷が、長年の眠りから覚めた様に疼くのを感じた。


私は、涙に濡れた眼鏡と目を着物の袖で拭き取ると、蝋燭を吹き消し床に着いた。


その日以来、私は神仏に対する信仰心の一切捨て去った。


そして、これから先もずっと神仏が与えた刑罰の如き、我が運命を呪い続けることとなるのだった。




第七章 [愛故に、誰が為に]


2月になり、今年も庭の白梅の木に白い花が咲き乱れ屋敷中を甘い香りに包み、客間に訪れた訪問者達を、雪見障子越しに楽しませていた。


「いやぁ、まことにこれは見事な白梅ですなぁ」


九条邸に参られた御客人は、旦那様と同じ様に立派な髭を蓄え、大久保利通を思わせる様な風貌の豪快な方であった。


私は、直接お会いすることはなく、その方が客間へ入られる所を見ただけであったが、障子越しにわずかに声が聞こえていた。


旦那様と御客人は、長い時間対談されており客間から出られる頃には、一刻半ほど経っていた。


「では、失礼致します。九条殿いいお返事が聞けることを、願っておりますよ」


そう言って、御付きの方と共に九条邸を後にされた。

外は、客人が九条邸へ来られる前は止んでいた雪が、再び降り出していた。


ちょうど、お嬢様の学校が終わる時間だった為、私もその方が出て行かれたすぐ後に、最寄駅へと出発した。



次の日も、その次の日も、それぞれ顔の違う華族らしき人物が九条邸を訪れていた。


なんとなく、将来お嬢様の結婚相手となる殿方の父親であろうことを、薄々感じていた。


それが確実となったのは、つい昨日のことで合った。


「紗羅お嬢様も、あと少しでご卒業されると言うのに。旦那様は、喜八郎坊ちゃっんが亡くなってからというもの、すっかり心に余裕がなくなってしまった様だ」


「お嬢様のお友達が、結婚を気に海へ身投げして亡くなられてしまったことも、旦那様にとっては不安を掻き立てられる出来事だったやろうね」


「だからって、まだ友人を亡くされてから数ヶ月しか経っておられないのに。お見合いだなんてお嬢様がご不憫でならないよ」


「おら達から言わせれば、お見合い相手が一郎のこともお嬢様のお側付きとして、向かい入れてもらいてぇモンだな。」


「貴族の傲慢チキなボンボン共が、平民の側使いなんて受け入れてくれるもんか。受け入れてもらえたところで、一郎が窮屈な思いをするだけさね」


私が、いつもより早く仕事を切り上げ奉公人専用の舎宅へ戻ってくると、トメさんやヒデさんが複数人の奉公人と共にそんな話をしているのを不幸にも耳にしてしまった。



吉右衛門の爺さんは、長年お嬢様と連れ添ったわたしを思って、そんなことを言っているんだということは分かっていた。



お嬢様の側にいられることになったとしても、お嬢様は別の男と幸せを育み、やがては子供ももうけるであろう。


結核にかかり、やがては若くしてその命を散らす運命にあるお嬢様を思えば、受け入れざるを得ない現実であった。


しかし私はいざ、お嬢様の結婚話が舞い込むと、自分で一生涯添い遂げると誓ったにも関わらず、激しい嫉妬と焦燥感に駆られた。

だが臆病な私には、自らお嬢様に旦那様のお考えを伝えることは出来なかった。


浅はかな性分故に、大恩ある旦那様に歪んだ感情を抱くも、旦那様が直接お嬢様にお伝えするまで私から告げ口する様なことは出来なかったのである。

しかしながら、私を亡くなった樹男様の様に接するのではなく、身分に関係なく本当の家族の様に接してくれた御恩。

右目に傷を負った際に逃げずに立ち向かった私を本当の父の様に、讃えて下さった思い出が僅かながらに残った忠誠心を、捨て去ることもできなかったのである。


長年私は、この日が来ることを頭では分かっていた。分かっていたはずなのだ。


だがしかし、少年から青年に移ろうという多感な時期であった事も災いし、私の心はやるせなさと悔しさで徐々に荒れていった。

が、


そんな私の心情をおかまいなしに、ついに旦那様がお嬢様へお見合いの話を直接される日がやってきた。


驚いたことに、旦那様はお嬢様と一緒に私も話し合いの場に来なさいと申された。


旦那様が、客人を招いていた客間の雪見障子から見える白梅の花は、既に散っていた。



「沙羅、一郎。ワシは、お前達二人に言わねばならぬことがある」


「ワシはこの度、名だたる名門華族の御子息達と、沙羅をお見合いさせることにした」


私は、眉間に皺を寄せ少し俯いた。

隣では、お嬢様が息を飲まれる気配がした。

「沙羅。今回の面々が気に入らなければワシは、また別の者達を集めるつもりだ。」


お嬢様の表情は、みるみるうちに曇っていき、まるで全てに絶望してしまったかの様な虚な目をしていた。


旦那様の話が終わりしばらくの沈黙の末、お嬢様が口を開いた。


「…お父様、去年の夏に交わしたお約束をお忘れですか?」


「…何故、何故今。私の友人が、お見合いをきっかけに非業な死を遂げたことを、お父様も知っておいででしょう?」


お嬢様は、普段ほとんど見せることのない剣呑な表情で旦那様を睨みつけ、直接訴えた。

旦那様は、何も答えなかった。


「…確かに友人の死も、お父様をそんな風に掻き立ててしまう様な不安な出来事だったでしょう」


「ですが、私も。私も生きている人間です。心がある血の通った人間なのです」

「ですからどうか、お考え直して下さい。お願いですから」


去年の夏頃に、卒業後は習い事に通いつつ徐々にお見合いを重ねていくという話が、旦那様とお嬢様との間で交わされた約束であった。


しかし、その約束が果たされぬまま、結婚を急ごうとなさる旦那様にお嬢様は、ご立腹であったのだ。


いつもお淑やかに、旦那様のいうことに素直に従っていたお嬢様が、怒りを露わにして旦那様に食ってかかる様ははじめて見る光景であった。


「…沙羅。お前との約束を果たさず、自分の我儘を押し通そうとしていることは重々承知の上だ」


「お前には、本当にすまないと思っている…」


「しかし、これはお前を思う故なのだ。分かっておくれ…。この通りだ」


旦那様は、お嬢様を押さえつけるわけでもなく淡々と自らの横暴を謝罪し、お嬢様に頭を下げていた。

私は、その様を見て旦那様に少し申し訳なく思った。


「お兄様が亡くなられた今、お父様も、私を九条家を存続させる為の道具として、私を差し出すのですか」


「お父様は、最低です‼︎私の気持ちを何も知らない最低の人間です」


ーーーーー刹那、私は信じられない光景を目にした。


目を見開き驚愕と怒りと、悲哀に満ちた表情を浮かべた旦那様が、お嬢様の顔を平手打ちで思いっきり殴ったのだ。


一瞬の出来事であったが、その様は私の瞼の裏で今なおスローモーションで再生される程、瞼に焼きついている。


私は、はじめて見せる旦那様の態度にに動揺し、お嬢様と旦那様を交互に見やり、「旦那様…」と一言呟くことしかできなかった。



お嬢様は、顔を下に向けたまた畳に横たわり啜り泣いていた。

そのまま立ち上がると、顔を覆ったまま私達を置いて部屋を出て行かれた。


ふと、我に帰った旦那様は娘を殴った手を見つめ、握りしめると悲痛な表情で眉間に皺を寄せていた。


「旦那様…」


「一郎…。もう何が正しくて、何が悪いことなのか分からぬ…。我が子らを想ってやってきたことが、結果として息子を死なすことになり、さらに娘を苦しませることになった…」


旦那様は、私に背を向け穏やかな声で衝撃の告白をされた。


「一郎、もう隠さずとも良い。ワシはお主らが、秘密にしていることを既に知っておる」


私は目を見開き、全身の毛穴から汗が吹き出す感覚を覚えた。


「一郎、彼奴は。…沙羅はお前を愛しておるのだろう?そして、母と同じ病を患っておるのだろう?」


「…!?旦那様どうしてそれを…」


「…あの日…お前達が早川邸から帰ってきた時、ワシも同じ頃合に帰ってきていたのだ」

旦那様は、あの夜の一部始終を草木の影から見ていたのだと、告白された。


「紗羅は、母に似て気丈に振る舞うのが上手い」


「あれなりに、私に心配をかけまいと自身を押し殺し、今までずっと無理をしておったのだろう」


旦那様の髭に覆われた顔は、悲哀に満ちていた。


「ならば、今回旦那様は何故にお嬢様に試練をお与えなさる様なことをされるのですか‼︎」


私は、怒りに支配されもはや理性が利かす主従の関係を忘れ、旦那様を怒鳴りつけた。


旦那様は、私の無礼に憤慨することもなく淡々と呟いた。


私は、旦那様の悲哀に満ちた表情から発される、冷静な言葉に戸惑いを隠せなかった。


「…あれの母親が健在であったらなら、今とは違う状況になっていたやもしれぬ」



「あれの母親も、肺を患っていることをひた隠し、樹男を産んで早々にこの世を去った。娘もまた母に似て、病をひた隠し二十歳にもみたぬ若さで同じ病に侵されておる。この状況で、このような判断をせねばならぬワシの気持ちが、お前に分かるか」




「数十年の時をかけて、手塩にかけて育てた子を再びを奪われようとしているワシの気持ちがお前に分かるか」


私は旦那様の言葉に返す言葉もなく、押し黙った。


旦那様は、怒りを露わにすることもなく淡々と気持ちを吐露された。

先程までの悲哀はなく、なんとも言えない虚な表情を浮かべ、吐き出される言葉もどことなく空虚な感じがした。


ああ、きっとあの日サロンドルージュで苦しい胸の内を吐露した清美様は、こんな気持ちを抱き続けていたのだろう。


そう。今の私と、お嬢様の様に。


しかし彼女と私とでは、雲泥の差である。


清美様は、あの時私達に覚悟を決めて、私達の前で自らの恥部晒け出された後に、私を生涯で唯一の想い人として愛の告白をして下さった。


そして彼女は、後ろめたさを感じつつ自らの人生に終止符を打ったのだ。


命を粗末にする事への叱責を、誰も口に出来ない程に自らの生き様を貫いた彼女の最後は、時代の渦の前に散っていた武士や侍のような潔さであった。


対して私は、どうだろうか若気の至りとは言え身分の垣根を越え、身勝手な愛の告白をし接吻をした。


自分の欲望をすべて曝け出すまでには至らなかったものの、あの一夜の過ちが私を。


否、お嬢様自身を傷つけてしまったのではないのか。


私は、私の一番大切にしたかった主人を取り返しのつかない所まで追い詰めてしまったのではないか。



頭の中では、九条邸で過ごした長年の記憶が、鮮やかな色彩で甦り、幸せだった日々の思い出と醜い現実との格差に、もう長らく痛むことのなかった右目の傷跡に熱を感じ、頭を抱えた。


否、自らが犯した罪の重さに気づくのが遅過ぎた事への後悔が、瞼の下から溢れそうなのを旦那様に悟られたくなかったのだ。

もう何もかも遅いというのに。


しばらく何も言えず立ち尽くしていると、私を置いて旦那様は出て行かれた。


思えば旦那様がお嬢様と交わした約束を、違えることは一度もなかった。しかし、明治時代では結核は不治の病であり、罹患してしまうと数年は生存できるもののやがては死に至る恐ろしい病であった。


妻も亡くし、息子も亡くし、娘も同じ病に侵されその約束を違えざるを得ないほど、旦那様にはもう余裕がなかったのだろう。


旦那様の行動は、お嬢様を想う故の行動ではあるのだが、何も知らぬお嬢様から放たれた言葉に我慢の限界が来てしまったのだろう。


去り際の旦那様からは、どことなくわびしさが漂い、幼い頃から見ていた背中も小さくみえた。


雪見障子越しの風景は、雪が再び降り始めていた。

朝方に降った雪の上には、散った白梅の脇に植えられた椿の花が、赤々と美しい姿のまま散らばっていた。


年明けに色々な、幸せなことも不幸なことも経験しまして、再び筆を取ることに相成りました。

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