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徒花葬送歌〜橘一郎の遺言〜上

 1999年10月21日

とある作家が、110年という長過ぎる生涯に幕を降ろした。


後に彼の遺体を納めた納棺師の話では、作家の体はカタギの人間とは思えないほど傷だらけであったという。


左の指は親指と人差し指が、原型を留めているだけであった。


小指は、根本から根こそぎ失われており、

薬指は第一関節から上がなくなり、中指は薬指より短くなっていた。


腹部から胸にかけては、手術痕が何本も刻まれており、背中は盛り上がったみみず腫れの痕が何本も刻まれており、その作家の人生の凄まじさを物語っていた。


しかし、幾重もの皺と共に額から右頬にかけて、縦に入った傷跡が刻まれた死に顔は、安らぎに満ちたものであったという。


その作家の名は橘一郎といい、自身の戦争体験を綴った著書「僕たちの戦争」や、主従関係にある男女の悲恋を描いた名作「月とスッポン」等の名作を生み出し、数々の文学賞を受賞した偉大な作家であった。


体の傷の数々は、太平洋戦争時に反戦を訴える行いをした事で、旧日本軍の反感を買い折檻を受けた時や、空襲を受けた際に子供を庇って出来たものだと生前の彼は、メディア出演の度に、語っていた。


その代表的な出典元は、1977年に出演した「瑠美子の部屋」である。


彼が一人で銭湯に入っていた際に、ヤクザが大勢入ってきたそうだ。「怖いな」と思いつつ湯船に浸かっていたらなんと、自身の数々の傷跡が刻まれた体をみたヤクザ達に絡まれたのだという。それも、何故か名のある組の大親分に間違われ、背中を洗い流してもらったという。


そのエピソードが話題を呼び、お茶の間を賑やかせた。


1999年の2月に橘氏は、最期の著書「徒花葬送歌〜橘一郎の遺言」にて自身の生涯を赤裸々に綴った。


明治、大正、昭和、平成と四つの時代を駆け抜けた作家の最期の作品は、大ベストセラーとなり1000万部を突破した。


それを最後に橘氏は筆を折り、有終の美を飾った。



橘氏が死んだ同日に、とあるロックバンドの新しいアルバムが、解散前最後のアルバムとして銘打って発売された。


一部の者は、そのロック過ぎる生き様を貫いた作家の生涯をロックバンドの最後のアルバムにあやかって、「生ける伝説」と称し、その死を悼んだ。


以下は徒花葬送歌の本編である。


 



第一章 [白梅香る雪の日のこと]


あれは、雪が降る二月の暮れの事であった。


開花したばかりの梅の花が、雪を被り寒さに晒されながらも慎ましく香っていた。それはまさしく、訪れる者を歓迎している様な、温かな香りであった。


爺様に連れられ、九条邸を訪れたのは私がまだ七つの歳の頃であった。しんしんと雪の降り積もった地面に、白い足跡を刻みながら、ほんのり梅の香りが漂う屋敷の奥へと案内された。


中へ入ると、座布団が四枚敷かれた和室へ通された。

座布団に腰を下ろすと、まばらに開花したばかりの花をつけた白梅の木が雪見障子越しに見えた。


最初にほんのり感じた梅の香りはこの木からだろう。

あらかじめ置かれていた火鉢から、漏れる熱気の為か室内は暖かった。


部屋全体を見回し終えた時点で、上質な着物に身を包み立派な髭を蓄えた男性と、私より少し上くらいの幼い少女が私達のいる和室へ入って来た。


「橘よ。この童がお主の孫の一郎か」


うねりの強い黒髪、顔には困り眉、爺様から与えられた丸眼鏡をかけ、袴を着たいかにも気弱そうな風体の僕を、その声の主は頭から膝まで、時間をかけて見回した。


私は、その眼光に怖気付き思わず爺様の方に駆け寄った。

(あ、これ、一郎その様に怖気付くでない。旦那様の御前であるぞ…。全く…。)

爺様は小さな声で、小言を言った。


「…失敬。この度は、私ごとながら旦那様に大変なご厚意に預かり、恐悦至極にございます。ささ、一郎この方がわしらの仕えるこのお屋敷の主。九条大作様じゃ。お前もご挨拶なさい」


幼い私は目の前に現れた厳格な雰囲気を漂わせる旦那様に畏怖の念を抱き、祖父に頭を下げさせられながらも、視線は正面に座った少女に釘付けになった。視線に気付いたのか少女は、私にニッコリと微笑んだ。

歳の頃は私の少し上程で、ぬばたまのお髪を結い上げ、桃色のお着物に袴をお召しになった美しい少女であった。

「では、橘。早速本題に入ろう」


平民であった両親は、私が3つの時に亡くなりそれからは爺様と二人で暮らしていた。


しかし、九条邸の次男樹男が今年の正月が明けてすぐに流行病で亡くしまった。悲しみに暮れる旦那様に、爺様は亡くなった息子に年が近い私を、奉公人として雇い入れお側に置く事で、旦那様の悲しみを和らげようと提案なさった様である。


爺様は将来、自分が亡くなった後に身寄りのない私が路頭に迷わぬ様に、旦那様のお屋敷に雇い入れて欲しいと何度も畳に額をつけて、懇願していた。それは、一心に父母のいない孫の私を思う故であったのだろう。


「橘。顔を上げよ。そう何度も頭を畳に付けずとも良い」


「橘。一郎を奉公人として招き入れるに至ったのは、一郎にしか頼めぬ奉公をしてもらう為じゃ。」


「左様でございますか旦那様。して、その一郎にしか頼めぬ奉公とは?」


「それは、我が娘沙羅の世話役を務めることじゃ」


旦那様が言うには、姉の沙羅は弟を亡くした悲しみの故に自分以上に深く傷つき元々持っていた明るさも、失ってしまったと言うのだ。


「世話役と言うよりは、世話を焼かれる側にしかならぬと思います…。お嬢様のお側にお付けでもしたら、かえってお嬢様のご迷惑になるのでは?」


「沙羅も、弟の樹男の世話をよく焼いていた。逆に、世話を焼かれるくらいがこの子の為にもなろうて」


「幼い内は奉公人としてよりかは、この子の遊び相手にでもなってくれれば良い」


そう言って、旦那様は沙羅さんの肩に優しく手を置いた。


「へ、へぇ。そう言うことでございましたか。旦那様がそうおっしゃるのであれば、ぜひとも一郎めを九条家において下さいませ」

「紗羅。お前も一郎に、挨拶しなさい。これからは、一郎がいつでもお前の側にいて、支えてくれるであろう」


「はい。お父様。九条沙羅と申します。一郎ちゃん。これからよろしくね」

「…。ぼ、僕橘一郎。よ、よろしく」


お嬢様の朗らかで、明るい挨拶に比べ私のお嬢様へのはじめての挨拶は、非常に辿々しいものであった。


九条家は、薩摩藩出身の軍人一家であり戊辰戦争や明治維新で旧日本軍と対立し、目覚ましい戦績を上げたことでげたことで爵位を与えられた。旦那様は、海軍で指揮を取る現役の海兵であり、その長男喜八郎様も、士官学校を主席卒業され将来を約束されていた。


一方お嬢様は、僅か9つの歳でありながら勉学に限らず、華道、琴、和歌に造詣が深く私は、お嬢様の傍でそれらに勤しむお姿を眺めるのが好きだった。


私の最初のお役目は、お嬢様が習い事に行かれる際の御付きとしてお嬢様についていくことであった。


「一郎ちゃんは、お花が好きなのね」

「ええ。色んな色や、形のが咲いてるのを見るのが好きなんです」


「だから、お嬢様が色んな花を使って花瓶に花を飾るのを見ているだけでも、眼福でございます」


「お嬢様が相手でしたら、私が好き好んで花を摘んだり愛でていても、男の癖にって寺子屋の男児らみたいに馬鹿にされることもないですから」


「あらそんなことがあったのね。それは嫌な気持ちになったでしょう。大丈夫よ。私は、あなたの人の好きな事を馬鹿にしたりなんてしないわ」


「本当ですか?じゃあ、これからはお嬢様のお部屋のお花は僕が飾らしていただいてもよろしいですか」


「もちろんいいわよ。じゃあ、明日から早速お願いね」

お嬢様は、私に亡くなった弟の姿を重ねていたのか、よく自分の部屋へ私を招き入れ西洋の書物や、日本の歴史書などを見せてくださっていた。


しかし、それだけではなくお嬢様と私はなんとなく、趣味嗜好が似ていた。人見知りが激しくその歳の男児には珍しく控えめであった。故に、お転婆であった弟よりも素直で親しみやすいと思われていた様である。



「お嬢様、今日読まれていた玉の緒って恋のお歌でしょう」


「あら、一郎ちゃんよく知ってるわね。百人一首やったことあるの」


「寺子屋で、お正月に先生が古い百人一首を持って来てやったことがあります」


「僕、その時にいっぱい取れる様に色んな歌を覚えました」


「一番最初に覚えたのが今日、読まれていらっしゃった平兼盛の歌でした」


「私は、式子内親王の歌が一番最初に覚えた歌よ。どちらもしのぶ恋の歌ね」


「来年のお正月は、貴方も一緒に九条家のカルタに参加できる様にお父様にお願いしてみるわ。今から来年のお正月が楽しみね」


その瞬間私は、お嬢様と見えない糸でお互いの心が深く繋がれたように感じた。


玉の緒よ絶えなば絶えね

ながらえば忍る心も弱りもそぞる


しのぶれど色に出にけり我が恋は

物や思うと人の問うまで


習い事からの帰り道に何気ない会話の中で出た、思い出の歌が、いずれ私達を苦しめることになろうとはこの時は、知るよしもなかった。これらの歌が持つ本質を理解するには、当時の私たちはあまりにも幼過ぎたのである。




第二章 [虹色に輝く思い出]




 あっという間に2年の月日が経ち、私はもっとお嬢様のお役に立とうと、奉公人の中でも地位を持った古株であるトメさんと、ひでさんに頭を下げお嬢様の身の回りのお世話もさせて頂ける様になった。


九条家の奉公人は、1番の古株である爺様を筆頭に男衆もいたが、四十〜五十代程の高齢の女性が多く、お役目の際に失敗することも多かったが、私はその素直さをかわれ可愛がられていた。

後に知ったことだが、トメさんひでさんをはじめ九条家に奉公する女性達の殆どが、幕末の動乱期に夫や息子を無くした未亡人であった。故に、幼い男児であった私の事を息子達に重ねていたのであろう。


「一郎。今日はもうこれでいいから、お嬢様の所へ行きなさい。これは、ちょっとした褒美だよ」


トメさんと、ひでさんは、私がお嬢様の為に頑張ろうと張り切る姿に心動かされた様で、金平糖やキャラメルなどのお菓子を今週分だよと言いながら、くれるようになった。


 四月の上旬。いつもより一刻ほど早く、和歌の教室が終わる日があり、その前日の夜のことであった。


「一郎ちゃん。明日は、先生のご都合で夕刻前に上がれそうなの。だからね、私と一緒に裏山へ桜を見にいきましょうよ」


「この前お父様に頂いた新しい和歌の本も持っていくから、一緒に読みましょう」


突然の申し出に私は、驚きつつもはじめてのお嬢様とのお花見に胸が躍った。


九条邸の裏に、山があり春に山菜を摘んだり、秋にはキノコや栗などの収穫をしており、四季の移り変わりを様々な形で九条家の者を歓迎してくれるのだ。


 巳の刻に九条邸を出発し、山に入って早々に、一面の桜並木のトンネルが見る訪れた我々を、驚かせた。


花のトンネルを抜けると開けた場所の中央に、聳え立つ大きな桜の木が見えて来た。


私は、屋敷から持って来た蓙を桜の木の下へ敷いた。

お嬢様が先に座られ、私も隣は座った。


「あっ…。」

お嬢様が声を漏らし、目線の先を見やると綿帽子になったたんぽぽが咲いていた。


お嬢様がなにを考えてらっしゃるか、私には手に取るように分かった。


二、三週間程前にある出来事があった。


お嬢様と共に習い事を終えて、帰路に着く道中、翼の折れた雀を見つけ、お嬢様は絹のハンカチが汚れるのも惜しまずその雀を包み九条邸へ連れ帰った。


火鉢を炊いた部屋に雀を安置し、ハンカチの上から更に毛布で包み懸命に看病をされていた。


しかし、3月とはいえ雪深いこの地域では寒さが厳しく、弱りきった雀はその寒さに長いこと晒されていたに違いなかったのだ。


更に、機動力となる翼が折れてしまっていた為、お嬢様がどれだけ心血を注いで看病しようとも、私を含め、誰の目から見ても雀の死は確実であった。


結局、三日後の朝に雀はお嬢様の手の中で息を引き取った。

雛鳥が親に甘える様な表情で彼女の指に擦り寄り、息を引き取る様はありがとうと、感謝の意を示している様だった。


私は、お嬢様の言いつけで庭の白梅の根元に穴を掘り雀の亡骸をお嬢様と共に埋めた。


あの日雀を見つけた道のそばに咲いていたたんぽぽを、手向に。


「一郎ちゃん。あの子は極楽へ行けたかしら」


私はその問いにすぐには答えられなかった。


「…。お嬢様の手の中で、安らかな表情を浮かべ眠りについたのです。きっと安心して極楽へ旅だったと思いますよ」


「…ふふ。一郎ちゃんらしい答えね」


そういうと、お嬢様は手折った綿帽子に息を吹きかけ、種を散らした。


「せっかくのお花見なのに、しんみりさせてしまってごめんなさい。今からは切り替えて楽しみましょうね」


 お嬢様は、沈んだ気分を打ち払う様に明るく言い放った。


私は、ヒデさんトメさんが準備して下さった二人分のお重に包まれたお弁当と、お茶と一緒に、空の茶筒に貯めて来た金平糖やキャラメルを、お嬢様の前に広げた。


「一郎ちゃんコレ、本当にいただいてもいいの?」


遠慮されるお嬢様に、私は首を縦にふった。


「お嬢様が、こういったお菓子は食べたことがないと仰っていたので。旦那様には内緒ですよ」


私はイタズラっぽく笑った。


当時の令嬢が、お菓子を口にする機会は社交界や茶道教室が主であり、口にする物上質な和菓子や洋菓子が主であった為

お嬢様も例外に漏れず、そういった理由でこの歳まで食べたことがなかったのであろう。


「ありがとう。一郎ちゃんが汗水垂らして働いた貴重なお菓子だから、後で大切にいただくわ」


お嬢様は、お重に包まれたお弁当を食された後に、私が献上したお菓子を食された。


私の色とりどりの宝石の様な金平糖や、キャラメルを一口ほうばるとお嬢様の目は年相応の少女の様にキラキラと輝いていた。


「一郎ちゃんご馳走様。今度は私が、いいもの見せてあげる」


そういってお嬢様は、革作りの鞄から少し厚みのある本を一冊取り出した。


広げるとそれは、百人一首や古今和歌集などに代表される和歌を一挙にまとめた本の様だった。


私が知らない歌があると、お嬢様は隣で解説をして下さいました。その様子は、いつもより熱を帯び高揚してる様に見えた。


「一郎ちゃんは、今回はじめて知って気に入った歌はある?」


「ええ。僕は今回、菅原道真公の飛梅伝説の歌が一番印象に残りました」


「僕も道真公と同じ様に、梅の花に思い入れがあるので」

この歌を隣で、お嬢様が解説されているのを聞いていると九条邸にはじめて来た時のことが、ありありと思い出された。


屋敷に入る前から、お庭の梅の花の香りがほんのりかおっており、爺様と共に通された和室の雪見障子越しにみる白梅は、幻想的であった。


「あの白梅は、九条家の者に春の訪れを知らせてくれるとても大切な木なのよ。貴方のお祖父様がもう何年も、剪定をして管理してくれているわ」


「では、あの梅の木が僕達橘家と九条家を繋いでくれたんですね。まるで仲人さんみたいだ」


爺様は九条家の庭師を預かる身である為、私が奉公に出ている時は殆ど顔を合わさないがこの山の管理も任されており、

花見に最適なこの場所を教えてくれたのも爺様でほあった。

そんな場所で、思いもよらない話を聞くことになるとは思いもよらず、私はそんな風に考えた。


「ふふ。梅の木を仲人に例えるなんて、一郎ちゃんも立派な歌人ね」


お嬢様は、目を細め白い歯がみえる程の笑顔を見せた。


あれから、どれ程時が経ったのか。桜が舞い散る中、私達は本の中に取り上げられている歌に対する独自の解釈を、語り尽くした。


顔を上げると、南の空に暗雲が立ち込めているのが見えた。

「お嬢様。雨が降りそうなのでそろそろ帰りましょう」


「あら本当。道中降られないといいけど…。」


お嬢様の言葉通りに、下山中に激しい雨に降られた。

九条邸の門前にたどり着いた時には、二人揃って濡れ鼠であった。


「お嬢様申し訳ありません。私がもっと早くに下山の申し出をしていれば…」


「気にすることないわ。案外雨に降られるのも悪いことばかりじゃないものよ。」


「ほら見てご覧なさい」


お嬢様が指差す方向へ、振り返ると夕焼け空に大きな虹がかかっていた。


沙羅お嬢様と私は、ずぶ濡れであることも忘れてしばらくの間その場から動かなかった。

その瞬間は、永遠にも似た感覚であった。




第3章 [洗礼]


 3年目の夏。その年は6月に入る前から高温多湿で、寝苦しい夜が続いた。


毎年夏の暑さと共にやってくるのが、招かれざる客であった。

「ほら、一郎アンタの方に向かってたよ!!」

台所に響きわたるヒデさんの怒号と共に、一匹の害虫がこちらへ向かって来た。


「ひっ‼︎ヒデさんこっちはやらないでくださいよー‼︎」


「僕には無理ですって‼︎」


「男が虫一匹殺さないでどうすんのさ」


「そんなこと言ったってぇ…」


私が弱音を吐くのもお構いなしに、そいつは体を黒光させ高速で向かってきた。


「ーーーー‼︎」

 僕は情けない悲鳴あげ、台所から逃げ出した。


「ったく、一郎の奴は本当になっさけない野郎だねぇ」


私と入れ違いに台所へやって来たトメさんが、僕を追いかけてきたそいつを右足で捉えた。


クシャッと、音を立ててそいつは息絶えた。


その間僕はトメさんの背中に抱きついて、目をぎゅっと瞑っていた。


「一郎。今日はもういい」


「お嬢様の付き添い時間に遅れてんだ。早く行って詫び入れとけ」

2月に親方様からいただいた金色の懐中時計を見ると、予定の時間を10分もすぎていた。

「ヒデさん。トメさん。本当にごめんなさい」


それだけ言うと、僕は慌てて台所を後にした。


「あんなちっぽけな害虫一匹潰すだけなのに」


「あいつは、人の気持ちに寄り添える奴だが、男としては頼りがなさすぎる…。」


「…ふぅ。」

何を呟いているか分からなかったが、背後から二人分の大きなため息と肩を落とす気配を感じた。


「そのせいで、少し遅れちゃったのね」


「はい。大変申し訳ございません。不徳の致すところにございます…。」


「誰にだって、苦手な物はある物よ」


「私だって、すばしっこく動き回る嫌な見た目の虫がでたら発狂しちゃうわ」

早歩きになりつつ、私達は無邪気におしゃべりをしながら和歌教室への道を急いでいた。


お嬢様は、遅れてしまったことを怒りもせず私の失敗を笑い飛ばして下さった。

「あ、でも私と一郎ちゃんの二人だけの時にそいつが出たらどうしましょう…」


「…。」


「流石にその時は、一郎。倒してくれますね?」


再び訪れる沈黙。


「…まぁ、そんな日が来ないことを祈るしかないわね…」


そんなことを話している内に、いつのまにか和歌教室へ到着していた。

いつも、行ってきますと一声言ってくれるのだが、今日はそのまま門前で止まって振り返ることもなく行ってしまわれた。


「あーあ。先生になんて言い訳をしたら良いかしら…」

「…っ‼︎」

ああ、また一人大切な人に失望されてしまった。


当たり前だ。


自分の不甲斐なさ故にお嬢様は、遅刻という扱いをされてしまうのだ。


しかも先生に自分が原因であるにもかかわらず、理不尽にも叱られるのだ。


「お嬢様…。私のせいで…」


僕は、怒声や罵声を放ってくる奉公人の男衆のしごきにすら、涙を流すことなく耐えてきた。


しかし、今回ばかりは自分の惨めさと、お嬢様への申し訳なさで涙が込み上げて来た…。


ピシンッ‼︎


「痛!?」


「やーい、弱虫今日は一人か」


いきなり後ろから頭に石を投げつけられたと思ったら、罵声まで浴びせられた。


振り返ると、少し趣味の悪い派手な着物の童達が4、5人の集団を作って待ち構えていた。


「付き人のくせに、ご主人様の手を煩わせるなんて使えねー奴だなお前」


「虫一匹殺せないのかよ。弱虫ー‼︎」


どうやら、お嬢様との会話の一部始終を聞いていた様である。


頭であろう日に焼けた浅黒い肌の男は、黒岩金造と言って確か1ヶ月まで通っていた貴族出身の男である。


お嬢様の付き添い以外で、九条邸での御勤めがない日に和歌の先生は、よく僕をお嬢様と一緒に私を教室へ招き入れてくれていた。


そう言った日に、必ず奴が絡んで来て僕をなじったり、やたらお嬢様にしつこく絡もうとしてきた。


故に、早々に出禁となったのである。他の貴族出身の童達は、平民である僕のことをはじめは、ぎこちなく接していたものの、和歌が好きという共通点で、一人また一人と話しかけてくれる様になった。


故に、私にとって奴との出会いが、あからさまな差別を感じる最初の出来事であった。


反撃しようにも体格差がかなりある為、すぐに僕は逃げようとしたが、意外にも素早い小太りの少年二人に羽交締めにされ動きを封じられてしまった。


「俺ら貴族と同じ場所に上がって、沙羅殿と仲良く和歌を詠んだりしてんじゃねーよ。平民風情が‼︎」


奴は、抵抗する私に木刀を振り上げ思いっきり頭から叩きつけてきた。


「があぁっ‼︎」


私の右眉上部から右頬にかけてがぱっくり避ける様な激痛とと、じわじわと血が滲んでくる熱を感じた。


拘束を解かれ、地面に膝をつく私はぼたぼた血が流れ落ちる右の顔半分を押さえて、うずくまった。あまりの痛みに声も出なかった。


「はは‼︎痛くて声も出せないのか。平民風情が‼︎」


「…がっ‼︎」


「金造様‼︎何もそこまでなさらなくても!?」


「流石に、そんなことしたら死んじまうよ‼︎」


「オラ達だけで、人さ呼んでくるだ‼︎」


後に知ったことだが、羽交い締めにしてきた小太りの少年らと違い、他の者らはこの金造という奴に逆らえず日々いじめに加担させられているという、平民の童であった。


「…ち。逃げやがって。追いかけますか」


「構うことわねぇ。ああ言って自分達だけ逃げ様って魂胆さ。」


「どうせ平民なんか、みんな一緒さ。俺ら華族に、媚び諂えて美味い汁を啜ろうと企んでやがんのさ」


「身の程を知れってんだよ。屑め」


あまりにも酷い言い草に、私は今まで生きていた中で一番強烈な怒りを覚えた。


ただ金と権力さえあれば、華族はこんな理不尽が許されるのだろうか。ふざけるな。


胸の奥に爆発しそうな怒りと、反逆の意思が目覚めるも、今度は、頭を思いっきり足で蹴られた。


砂埃をあげ地面に転がり、奴から見て私の体は横に倒れ込んだ。


しかし、奴の攻撃の手は緩むことはなく、今度は私の背中に蹴りを入れてきた。


「…ぐっ…。」


私はあらかじめ奴が、横に倒れ込んだ際に腹に攻撃を仕掛けてくるであろうことを予見し、奴に背中を向け芋虫の様に丸くなった為、腹部への攻撃は免れた。


私の懐には、旦那様が私のこれまでの働きっぷりに、感謝の意を示されその証として送って下さった、金色の懐中時計があった。


それだけではない。習い事の帰路の途中にお嬢様と分ける為、いつも持ち歩いている金平糖が入った小袋もあったのだ。


それだけでも守らねばと、思い立ち自然と守りの体勢に体が動いたのだ。


「はは‼︎弱虫晒した次は、芋虫の様になりやがるとは」


「どこまでも、虫けらのような奴だな」


「…ふふ。お前の様な狼藉者が…お嬢様と同じ、誇り高き貴族なものか…。身の程を知るのはお前の方だ…」


僕は、ひゅうひゅうと荒い呼気を漏らしながら、精一杯の反逆の意思を示した。


しかし、それが奴の琴線に触れたのか奴は、小太りの少年ら二人に私を再び羽交締めする様指示し、激しく抵抗する私の私の懐から懐中時計と金平糖の小袋を抜き取った。


「何かを庇う様な動きをしたと思ったが、こういうことだったのか」


「おい。これ。どっからくすねてきたんだよ」


「返せ‼︎それは、旦那様が私のこれまでの働きっぷりに、感謝の意を表されその証として私に送って下さった物だ‼︎」


「お前の様な、外道が汚い手で触るな‼︎」


名は体を表すというが、見た目も腹の底も真っ黒なこの外道は、私を傷つければ傷つける程に快感を覚える様で、怒りで獣の様に唸り声をあげ抵抗する私をさらに煽った。


「こんなもん。お前に必要ないだろ?数字もよめねーくせしてよ。ハハ‼︎」


「安心しろよ俺らが、有効活用させて貰うからさ」


「懐中時計ってよぉ、高く売れるんだよなぁ。盗人のお前らの間では常識だよなぁ」


「これはなんだ?砂糖の残骸か?貧乏人はこんなもんでも舐めてなきゃ生きていけないほど、惨めな生活なのか?可哀想に。あっはははは‼︎」


奴は、粉々に砕けた金平糖を地面に撒いた。


「ほら。餌だぞ。犬の様に舐めてみろよ。」


「ハハハ‼︎金造様は相変わらずやることがえげつねーや」


「ハハ。この黒岩金造様に生意気な態度を取ったことを、もっと後悔させてやる」


ガチャ。

外道黒岩は、私に近づき歩みを進めた拍子に何かを蹴った。


「お?いいもの発見〜。ん〜これはあんま金にならなそうだな」


奴が蹴ったものは、木刀で殴られた時に割れ落ちた丸眼鏡であった。


「やめろ。これ以上僕の大切な人から頂いた思い出の品を汚すな‼︎」


ただでさえ、硝子のレンズはひび割れ壊れかけているというのに。私は、もはや憎い相手の前で涙を堪えられず泣き叫んでいた。


爺様が、目の悪い僕の為に大金を叩いて与えてくれた僕の一番大切な物を…。これ以上…奪うな…。


私はその瞬間、左目だけで捉えている映像がスローモーションになるのを感じた。


「金造様、そんなボロい眼鏡なんてどうするんですか」


「もう既に壊れたんだ。こいつの心を破壊する最後の一手に、こうしてやるんだよおぉぉ‼︎」


壊れたメガネに、奴の右足が落とされる。


「ーーーーー‼︎」


声にならない叫びをあげ、スローモーションの映像を左目一つで捉える中、私は今朝の失敗を思い出していた。


ああ、今朝トメさんに踏み潰されて死んだあの害虫も、こんな気持ちだったのだろうか。


害虫の視点で見れば、ヒデさんに忌避剤をまかれ弱り切っているのに、しつこく追い回されたりするのだって、理不尽な暴力であるに違いなかったのだ。


そして、極め付けにはトメさんに、踏み潰され命まで奪われた…。


あの害虫は、その黒光する見た目と、すばしっこさと、食糧を食い荒らしたり、疫病を媒介するなどの理由から古くからの人類の敵に違いない。


しかし、人間の圧倒的力で弱体化させ、蹂躙される様は今の黒岩と、何が違うのか。否そこに違いなどない。


黒岩の右足が落とされるまでの間に、私は生まれて初めて晒される人間社会の理不尽さと、弱肉強食の理に打ちのめされた…。


グチャッ…。ジリジリ。

爺様からもらった丸眼鏡は、奴の右足で粉々にくだかれ蹂躙された。


否、私という人間を構築する全てのものがこの男によって、破壊しつくされ蹂躙されたのだ。


私は、放心し頭の中が真っ白になった。


私が命と同じくらい大切にして来たものが、目の前で奪われた現実を受け入れたくなかった。


「あれ〜?さっきの威勢はどうしちゃったのかな〜」

耳から奴の耳障りな煽り声が入ってくる。


「…れ」


「おい。もうちょっと、でかい声で喋れよ。聞こえねーわ」


奴は、私の作戦にまんまと引っかかり近づいてきた。


「…ま…れ」


あと、一尺


「はあぁ〜?」


来た。


「黙れーーーー‼︎」


私は、油断し切って力を抜いた肉塊達のスキをついて、奴を煽り奴が間合いに入って来た瞬間に、膝を曲げてしゃがみ蛙が飛び跳ねる様な形で奴の顔面に、強烈な頭突きをかましてやった。


「グハッ…」


奴は、私の頭突きを鼻頭にくらった為、先程の私の様に地面に砂埃を上げて、無様に倒れ鼻を抑えて悶絶していた。


「金造様‼︎」


「ーークソが‼︎おいお前ら、この懐中時計は、もういいコイツの前で叩き壊してやれ‼︎」


奴は、私から奪った懐中時計を肉塊の一人に手渡し、今まさに石畳の上に叩きつけようと言うその瞬間。


「やめないか。いい加減見苦しいぞ。貴様ら」


声の主は、肉塊の手を掴み捻り上げ懐中時計を奪い返し手刀一つで、外道黒岩一派を粛清した。


頭を殴られた上に、さらに頭突きをかましたせいでさらに、意識が朦朧としていた私には、声の主が若い男性であること以外分からなかった。


「これ、君の大切な物なんだよね。返すよ」


「あ、あの…取り返してくれて、ありがとうございます…。あ、貴方は…?」


「それは、君が回復してから話そうか。今はゆっくりお休みなさい」


その言葉を最後に、目鼻口から溢れるでる血の味と、全身の痛みがとうとう私の左目の瞼をも降ろさせた。


「一郎。よくここまで踏ん張ったね」


「君は弱虫なんかじゃないよ。私達は、君の勇姿をちゃんと見てたから。そうですよね。父上」


青年は一郎を抱き抱えたまま後ろを振り返ると、石畳を挟んだ雑木林の中から九条邸の主。九条大作が姿を表した。


「うむ。一郎は、このわしが九条家の家紋を刻んだ懐中時計を送った男だ。此奴は、もう立派な九条家の男であるぞ」


そう言って、旦那様は気を失った私の頭に手を乗せ優しく撫でてくれたのだと、後日伺いました。




第四章 [優しさに包まれて…]




 私は、閉じた瞼の外側から温かな光に照らされる感覚で目を覚ました。


 光の正体は、暗い部屋の中で煌々と照っている行燈の光であった。


 行燈の傍には、誰かが座っていた。 

血管の浮き出た細い手から、爺様であることはすぐに分かった。


 爺様は、その手を膝の上で組み目を閉じていた。


 幼い時に私が風邪を引いて、寝こんでいる時によくこうやって一晩中私の側でこうして、回復を祈ってくれていたものだ。


 私は、どうかしていたのだろうか。


意識が朦朧としていて今のこの現場がなんなのか全く整理がつかなかった。


ただ感覚として分かるのは、全身の痺れと額から右の顔半分が何かに覆われ目を塞がれていることだけであった。


「…じ…さあ」


私は、痺れた唇からなんとか、声を絞り出した。

「じ…い…さ…あ」


2回目の囁きで、爺様の眉が少し上で吊り上がりゆっくりと、瞼が開いた」


「ああ、一郎。目が覚めたか」


「わしは、いつの間にか眠っていた様じゃな」


「どうじゃ水でも飲むか?」

私は、小さく首を縦に振った。


爺様は、自分の傍に置いていたガラス製の水差しの中の水を、平皿に注ぎいだ。


「少し痛むだろうが、起こすぞ」


枕元へやってくると、私の上体を起こしゆっくりしてくれた。


「コレは痛み止めの薬じゃ。少し苦いかもしれんが我慢して、飲むのじゃ」


そういうと、紙に包まれた粉末を水と共に流し込んでくれた。


薬の苦さに、顔左半分をクシャッと歪めつつも私はそれらを飲み込んだ。


「今は、麻酔が効いとるで喋ることもままならんじゃろう」


「朝までゆっくり体を休めなさい」


そういうと、爺様は私の胸の上までしっかり掛け布団を掛け、優しく微笑んだ。


 その刹那。


「…!?っが…あ…。…ぐっ…じい…俺…えがね」


爺様の微笑みを引き金に、外道黒岩に蹂躙された記憶が一気に想起された。


申し訳なさと、悲しみで私は顔を歪め左目から涙をした。


爺様は、怒りと悲しみに満ち声にならない謝罪を嗚咽に乗せながら、咽び泣く私のことを優しく抱きしめて下さった。


「いいんだよ。一郎。ワシも、ワシの父も、平民という身分の違いだけでお前と同じように、タチの悪い連中に理不尽な目に遭わされとる」


「だから、お前の悔しさ。怒り。悲しみが痛い程分かる」


「よう耐えたな。一郎」


「ただお前は、ワシらとは違う」


「ワシらは涙を飲むことしかできなんだが、お前はあの悪漢に、一泡蒸してやったのだからな」


「一郎。お前はワシらの誇りじゃよ」


「辛かったであろう。今は気の休まるまで泣きなさい」


私は、爺様の着物と右の顔半分を覆う包帯を涙で濡らすものお構いなしに泣いた。


傷だらけの私には、どんな薬や、消毒の痛みより、あの時の爺様の優しさが心に沁みた。




第五章[誇り高き漢達]




 翌日は天気もよく、朝から雀の鳴き声が鳴り響く、雲一つない快晴であった。

私の元には爺様と、旦那様と、意識を失う前に助けてくれた青年が参られた。

「一郎。調子はどうだ」


「今は、体をゆっくり休めなさい」


「沙羅には、一郎に一週間の休みを与えると伝えておる」


「お前の元に、最初に駆けつけてくれたのは旦那様と、長男の喜八郎様なのだよ」


爺様からそう伝えられ、私は麻酔の切れた体でしっかりと旦那様に感謝を伝えた。


「改めてはじめまして一郎。私は、九条喜八郎」


「俺はあの日に海外留学から、数年ぶりに我が家へ戻って来たんだ」


喜八郎様がいうには、その日朝早くから出かけられた旦那様と港で合流し和歌教室の近くを通って、九条邸へ向かう道中に、4、5人の少年達が自分達の所来たのだそうだ。


お二人は、そのただならぬ雰囲気にすぐさま駆けつけてくれたのだそうだ。


 見知らぬ少年たちの悪漢が幼い子供相手に、木刀で殴りつけ殺されそうだと言う知らせを聞き、駆けつけてみると殴られているのは一郎であった。


助けに行こうと、はやる私を父上は右を腕伸ばして静止した。


「父上何故止めるのですがあれではあまりにも一郎が可哀想ではありませんか」


「…コレは、一郎の漢として人として成長する為の試練なのじゃ。手を出すでないぞ喜八郎」


「何を訳のわからないことを。一郎は、あの様に頭から血を流しいるじゃありませんか」


「右目も処置が遅れれば、失明してしまうかもしれないのですよ」


「…あいつは、優しすぎる。そして、あいつを取り囲む者達も優し過ぎるのじゃ」


「…お前も、奴と同じ歳の頃に思い知ったであろう。理不尽に振り回される残酷な現実を」


「父上は、一郎が自分で決着をつける姿を見届けるおつもりなのですね」


父上は、静かに頷かれた。


父上は、私が幼い頃より厳格で己の甘さや軟弱さを許さないお方であった。


私は、酷いいじめに遭っていた。まさに、今の一郎の様に集団で、暴力を振るわれ苦しい状況に置かれ泣き叫ぼうとも、父上は助けてはくれなかった。


いじめが一切なくなったのは、私が自分自身の力でいじめの首謀者を打ち倒した後のことであった。


その夜に、私は父上に呼び出された。


叱られると思った。しかし父上は、私の意に反し目線を私に合わせて、片膝を付き私の頭を撫でた。


「…よく乗り越えたな。喜八郎。それでこそ、我が息子だ」


「…苦しい想いをさせてすまなかった。どうかワシを許しておくれ」


その一言は、今でも私の心に焼き付いてる。


父上は、私を助けなかった理由を次の様に述べ今までのことを謝って下さったのだ。


それは、私がひけらかすつもりもなく、なんとなく父上の名前を口にしていたことで、童達の不満を募らせ虐めに繋がったこと。


九条大作の名がなくとも父上は、私が私自身の力で抗い困難を乗り越え打破することを信じていたからこそ、敢えててを出さなかったこと。



成長し、世間の荒波に揉まれ経験を積んできた今では、父上の言うことがよく分かる。


この世に蔓延る悪意は、いついかなる時でも理不尽に我々の心身を切り裂いてゆく。


何気なく発した言葉や、態度は、その悪意によって歪められ我々若者を痛ぶってゆく。


その時に、我々は自力で争わねばならぬのだ。


父上は、あの夜に漢として人として、時代の波に争う術を示して下さったのだ。



今父上が、一郎を助けないのは一郎自身が、自力でこの現場を打破することを願っていたからであった。


そう。あの時の私の様に。


そして見事に、一郎は悪漢を打ちのめしたのである。


「まあ、詳細はコレで全部かな」

喜八郎様は、駆けつけるまでの詳細を簡潔に話して下さった。

「…一郎。ワシの身勝手な考えの為に、お前の大切な品物を奪ってしまった。許しておくれ」

「…お詫びの印に、このお金で祖父と共に新しい眼鏡を買うと良い」


「本当にすまなかった」


親方様と、喜八郎様は鎮痛な面持ちで頭を深々と下げ額を畳につけた。


「顔を上げてください。お二人とも」


「私は、お二人のことを憎んでなどおりません」


「むしろあの試練は、今の私に必要なことだったと思います」

私は、今まで周りの人の優しさに甘え、嫌なことから逃げ、争うことからも逃げていた。


あの害虫の一件だって、そうだ。私は、逃げ惑つつ誰かが片付けてくれるものだと、頭の隅で思っていた。


もちろん。例えちっぽけな虫であろうと、今でも命を奪うのは心が痛むし、人を殴ったら自分な拳だって痛い。


しこし、あの日のことで一番胸が痛かったのは、あの時の沙羅お嬢様の信頼を失い失望されたことであった。


あの日の教訓として、私は大切な物を守る為には、何かを犠牲にし無ければならないこと。


逃げ続けるだけでは、なんの解決にもならないこと。


放っておけば、いつまでも誰かが解決してくれる訳ではないこと。


自分自身の力で、困難にに争うことを学んだ。




第六章 [すれ違いと後悔]




 包帯が解かれ事件後はじめて自分の顔を、鏡で見させられると、額から頬にかけて縦に大きなミミズが張った様な傷痕が出来ていた。


「一郎ちゃん。ごめんなさい。私のせいで」


お嬢様は、事件以来私の傷の手当てをして下さっていた。


事件直後は、トメさんヒデさんが傷の手当てをしてくれていたそうだが、お嬢様はこの事件が自分をきっかけに起こったことだと考え、罪滅ぼしの為に私の手当てを自ら志願したのだと、トメさん達から聞いた。


お嬢様は、私が事件に巻き込まれたのは自分に原因があると考えていらっしゃったのだ。


「あの日の貴方の仕事は、私を教室へ送り届けることだけだったのだから、一緒に教室へ上がってもらえば良かった。」

「それなのに私ったら…」


お嬢様は、あの時の冷たく突き放した事に後悔の念を抱いていた様だ。


「気にすることないですよ。お嬢様」


「あの日私は、お嬢様にがっかりされるような失態を重ねていたのですから」


「こんなことに巻き込まれるなんて、誰も予想出来なかったことですよ」


私は、そう言ったもののお嬢様の顔は曇ったままであった。


「それよりあの黒岩という男はどうなったのですか」


私はそう尋ねると、お嬢様は詳細に奴の末路を語って下さった。


黒岩金造は、私の頭突きをモロに受け伸びているなか警察の元へ抱えられ、意識を取り戻した所で、今までの悪事を洗いざらい吐かされだのだという。


平民出身の幼い童達やお年寄りへの暴行、および金品の強奪、神社や寺での破壊行為、平民出身の女性への婦女暴行などその悪行は枚挙に暇がなかったという。


今までは、黒岩の父上が警察に財力と、権力を以って息子の悪事をもみ消してもらう様に、仕向けていた。


しかし、奴を連行してきたのが海軍の最高権威である旦那様と、喜八郎様であった為警察も旦那様の前で不正を働く訳にはいかず、今までの黒岩一家の悪行は全て白日の元に晒された。


地元新聞もこのことを大きく取り上げた為、黒岩一家は肩身の狭い思いをして、ろくに外も歩けない状態だという話であった。


「それじゃあ、もう安心ですね。今まで通り、またお嬢様と和歌教室へ通うことができます」


私はお嬢様を気遣ってわざと、明るくいい放った。

しかし、それでもお嬢様の表情は曇ったままであった


「それじゃあ気晴らしに今から、三人で東京へ買い物にでも行こうか」


その声に驚き、声がした方向に私達は視線を向けた。


そこにはいつの間か、洋服に身を包んだ喜八郎様が開ききった障子にもたれかかり、腕を組んで佇んでいた。


「ずっと、部屋に篭りきりだと余計気分も塞いでしまうだろう」


この時のお気遣いを皮切りに、やがて私は喜八郎様のことを本当の兄様の様に慕っていったのである。




第七章「文明開花の足音がする]




私達は喜八郎様に連れられ、巴の刻に九条邸をたち、汽車になった。


黒煙を吐き出し、田畑を走り抜ける鋼鉄の汽車の中で、東京へ着いたのは午の刻を過ぎた頃であった。


赤煉瓦に覆われた東京駅を後にすると、私達は馬車に乗り込み銀座へ向かった。


銀座通りをゆく人々は、洋服や和服で身を包んだ老若男女で溢れていた。


見渡す限りの人の海に揉まれながらも、人々は活気に満ち満ちていた。


その様は、まさに文明開花の足音に心躍らせている様な雰囲気であった。


その道中は、あちこちで洋風の建築物がが立ち並び、そこかしこにガス灯が一定の間隔を保ち立ち並んでいた。


高級品を取り扱う店舗が立ち並ぶ繁華街に入ると、喜八郎様は馬車を停めるよう御者に声をかけた。

馬車から降りて私達は、レンガ作りの建物に囲まれた道を歩いた。


私は、眼鏡がないので遠くの物は、焦点があわず見えづく、お嬢様に手を引かれて歩いていた。


その為周りの景色はぼんやりしていたが、無機質な灰色の建築物に囲まれている事だけは、なんとなく分かった。


なんとなく、当時の私にはレンガ作りの建物は日本家屋の様な木の温かみを感じられず、無機質で冷たい感じが不気味であった。


「一郎ちゃんたら、さっきからキョロキョロして落ち着かない見たいね」


「今まで見たこともない様な、高い建物に囲まれて落ち着かないのだろう。無理もない。この圧迫感は私もいまだに慣れぬ」


「あら、お兄様もソワソワするのね。変なの」


まるで左右から、巨大な石の壁が迫って来て押しつぶされそうな、感覚なのだと喜八郎様は私も同じ様に抱えていた不安を明確に言葉にして下さった。


「あはは‼︎建物が動く訳ないじゃありませんか。お兄様ったら」


お嬢様は兄をからかうように、悪戯っぽく笑った。


しかし後に、私はこの時の体験を思い出した時にこう思ったのだ。


あれは、文明開花の足音にかき消され、明治と言う時代の壁が私達を逃げられない様囲い、じわじわと迫り来る感覚を、本能的に感じ取っていたのだと。



最初に眼鏡屋に立ち寄った。

私は新しい眼鏡をお二人から見繕っていただき、ふちが金色に塗られた丸眼鏡を購入することにした。


「お二人とも、私めの為に素晴らしい物を見繕って下さり本当にありがとうございます。この眼鏡は大切に使用させていただきます」


私はお二人に深々と頭を下げた。


「よく似合ってるわ。一郎ちゃん」


「うむ。男らしい良き顔になったぞ。見違える様だ」


お二人に褒められ、私は困り眉をさらにハの字へ曲げ、顔全体が一気に紅潮していくのを感じた。


「あ、あの…。お二人とも、もう少しお付き合い頂けますか?」


私は恐る恐る尋ねると、お二人は快く承諾して下さった。


次に私達が向かったのは、古い書店であった。

その当時私とお嬢様が夢中になっていたものは、与謝野晶子であった。


女性ながら、大胆かつ情熱的に恋の道を貫く彼女の姿勢は、当時の若者を熱狂させていた。

彼女の書くみだれ髪は、まだ幼い私達には少し刺激が強かったものの、お嬢様も私も胸を熱く焦がす様な恋をすることに、憧れていた。


しかし、当時から何もかも曝け出して、人を愛することの尊さを説いた作品群は、批判が多く物議を醸した。所謂貞操観念という古い考えに囚われた者たちからの反発が大きく、書店でそれを購入する者は白い目で見られることもあったという。


特に、私の様な十代の童には一人で買うことなど到底できなかった。


私は、お嬢様の私物から文献を見せてもらっているばかり、これを機会に自分の私物として彼女の作品を手にしてみようと思い立ったのである。


「ほう。二人は今与謝野晶子に、夢中なのだな」


「ええ。私も、いつかこんな風に熱く激しく誰かを追い求めたいものですわ」



「喜八郎様は、馬鹿にされないのですね」



「お兄様って、昔からそうなのよ。やたら滅多に人の好みを馬鹿にしたりは、しませんわ」



「馬鹿になどするものか。私も、品のない男ばかりの集団の中で彼女の作品を読んでしまった時は、大層馬鹿にされたものだよ」


「しかし、優れた文芸作品や、芸術を愛でることに男だとか女だとか、そんなことは関係ないと思っておる」


「ましてや、人の趣味趣向など十人十色。春画を芸術として愛でる者もおれば、無惨絵を愛でる者だって居ろう」


「人の価値観などを、己の尺定規でしか推しはかれるものではないのだ」


「もちろん簡単に表だって言えることではないがな。」


「一郎、沙羅。お主らは誇るが良い。それらを愛で自分の価値観と照らし合わせるのだ」


「その価値をどう捉えるかは、お前達次第である。

しかし、それらが自分に与えてくれた刺激がお前の人生を彩ってくれるであろう」



「そもそも、優れた芸術作品とはいつも常識では考えられない視点から生まれるのだ。」


「そして、いつの日が常識から外れた価値観が、新しい価値観として根付いていくのだ」


「故に優れた芸術は、広く長く万人に愛されて然るべきなのだ。そうは、思わぬか」


「お兄様ったら、自分の好きな物の話になるとすぐ熱くなっちゃうですから。」


あの春の日のお嬢様と同じ様に、喜八郎様は私の好きな物を馬鹿にせず、それが好きな私を肯定して下った。

なんて温かく素敵な、ご兄弟なのだろうと思った。


喜八郎様が、私達を放って一人熱く語っているのを十分程見ていたが時間を感じさせない程、私達は喜八郎様の目を輝かせながら話に聞き入っていた。


喜八郎様は、まだ十八の歳の頃であったが、その当時の誰よりも大人びていてかっこよく、まさしく私の人生の師であった。

その時の喜八郎様の教えが、私の価値基準の礎となったのである。


 書店を出ると、申の刻を回っていた。


次に訪れたのは、菓子屋であった。

お嬢様は、店頭に飾られた洋菓子や和菓子に目を輝かせていた。

「あんこやお煎餅も、好きだけどやっぱりお菓子の皇様はカステラよね」


お嬢様は、カステラが大好物であった。


食い意地を張って沢山食べるのではなく、私を含めた奉公人の人々や、旦那様、喜八郎様家族と一緒にいただく時間が好きだったのである。


私達は、唐傘の立てられた外の茶席で、カステラを堪能した


旦那様から頂いたお金は、まだたくさんあった為私は、旅の最後に九条家で一緒に働く人々や、爺様、旦那様の為にお土産を買っていきたいと申し訳でた。


「見上げたものだ。一郎は、その年でよくぞ、それほどまでに人を気遣い、思いやる境地に至っているものだ。感心するぞ」


今日一日だけで喜八郎様は、何度も何度も私のことを褒めて下さっていた。少し照れ臭さを覚える程に。


兄弟のいない私には、その日のお嬢様と喜八郎様はまるで本当の兄上や、姉上であるかの様に感じた。


あの時お二人から選んで頂いた、金色縁の眼鏡から見る世界は、今まで以上に色づいて見えた。

あの日思い出は今でも、目を閉じれば色をつけて蘇るほど瞼に焼き付いている。




第八章「まだ見ぬ世界へ」




一年後の春。お嬢様様は、その当時発足したばかりの女学校へと進学なされた。


場所は、東京にありお嬢様は汽車で通うこととなった。

お習い事へ通う道がその年から、駅へ通う道となったのだ。


お嬢様は、その日から袴を着られるようになり、成長とともにその美貌をますます輝かせ、頭脳もさることながら、文字通り秀麗な女性へと変貌されていった。


「同じ学級の清美さんたら面白いのよ。休日にご家族と歌舞伎を見に行った話を、歌舞伎俳優の様に凄まじい顔をして、再現してくれるの」


「あまりにもその顔が面白くて、皆んな笑っちゃって」


「そしたら、清美さん。真面目にやってるんだからーって、顔を真っ赤にして怒るのよ」


お嬢様が、清美様と呼ばれるご友人がやっていたと言われる顔を再現されると、あまりに変なお顔をされるので私も、思わず声を出して笑ってしまっていた。


「ははは‼︎白粉と隈取無しで、あの力強い表情を再現されるとそんな珍妙な顔になるのですね」


誇張も入っているだろうが、隈取なしで歌舞伎の見得を再現するとこんなにも珍妙であることを私達は知らなかった。


その次の日も、その次の日もお嬢様の話はご友人の話が多かった。

「私は、羨ましゅうございます。」


「私は、九条家に参る前までは寺子屋の子らと共に、読み書きや計算などを学んで参りました」


「私は今、沙羅お嬢様。旦那様。喜八郎様。爺様。奉公人の皆様に、囲まれて幸せでございます」


「しかし、唯一心寂しく思い至ることは、お嬢様の様に同級生の友人が居らぬことでございます」


実際、私は九条家へ来る前は寺子屋に通い、勘定や読み書きも出来た。


その上、お嬢様から沢山の本を勧められ、一緒に読み耽っていた。


故に平民ながら、その当時の子供としてはそれなりの教養を身につけていた。


しかしながら、お嬢様との帰りの道中、同じ歳の男児達が学校から帰って行く姿を、すれ違い様に目を追って振り撒くことが何度かあった。


その度に、お嬢様に「一郎。どうかなさったの?」

という問いが返ってきた。

それ程までに、私は友達というものに憧れていた。


「まあ。私ったら、一郎ちゃんが隣でそんな気持ちを抱いていることも知らないで、ベラベラと…。ごめんなさい」


しばし、沈黙。

「…気にしないで下さい。お嬢様様」


「それはきっと、高望みなのです。お気になさらず」


私は、お嬢様に悟られないように、そう言って自分の気持ちを押し殺した。


翌日。爺様から突然のお達しがあった。


「一郎。今まで苦労かけてすまなんだ。昨日お嬢様からワシはお叱りを受けたのだ」


はてなんのことだろう?


「爺様一体なんのことでございましょう?」


お嬢様は昨晩、爺様と旦那様に昨日の帰路での話をお伝えして下さった様である。


故に、旦那様よりお嬢様のお迎えに上がる時間を、ニ時間程繰り上げ私に同世代の子らと遊ぶ時間を設けてくださった。


「ここの九条邸より少し歩いた所に、西運寺という寺がある。ワシはここの住職様と長い付き合いでの」


「住職様は、寺で童を集めて寺子屋をやっておってな。ちょうどお前が通う時間帯は勉強の時間を終えて、童達が遊ぶ時間なのじゃ」


「昨日のうちに住職様に、話はつけてある。だから今日からお嬢様のお迎えの前に、お前は西運時に通いなさい。そして沢山の友を作るが良い」


私は、突然のことに戸惑うも、まだ見ぬ友達の姿を想像して、胸が躍った。


翌日は運良く休日であった為、爺様に連れられて裏山の入り口に至る道から少し離れた場所に西運寺はあった。


裏山に入る際は爺様より、おお花見に向かう経路以外へは、一切立ち寄ることが許されておらず、西運寺があることさえ知らなかった。


西運寺は、様々な年齢の童達が多勢おり、各々かけっこをしたり、コマ回しや、紙飛行機を飛ばすなどして遊んでいた。


住職の大安和尚は、爺様と私を快く歓迎してもてなして下さった。


私は、お茶菓子をいただくと直ぐに、遊びに行ってきなさいと、言われ外へ出た。


幼い童達は、うなりの強いくせ毛に、金縁メガネに傷を負った私に恐れ慄くこともなく、やれコマで遊ぼうだの縄跳びで遊ぼうなどと、両手を左右に引っ張ってきた。


「おい。お前。新入りだろう」


突然声をかけられ、振り返るとそこには同じ歳くらいで坊主頭に恰幅の良いまさに、餓鬼大将の風体の少年が立っていた。


「今から、俺と勝負しろ!!」


突然勝負を仕掛けてきたのだ。


「お前が、俺達の仲間に相応しいか試してやるのさ」


西運寺に来て早々に、とんでも無いことになってしまった…。


私はそう思いつつ、初めて出会う同世代の童の登場に再び胸が高鳴った。


そう、奴こそ私の生涯の競争相手であると、同時に生涯の朋友となる佐々木 熊五郎との出会いであった。


第九章「男の友情」


熊五郎は、メンコ、かけっこ、相撲、コマ、将棋、紙飛行機などあらゆる面で、勝負を仕掛けてきた。


勝敗は最終的に、三対三の引き分けであった。


全ての勝負が終わった時は、もう子の刻を過ぎていた。

私達は、大安和尚と子供達が作って下さった昼食を食べ終えると、ゴロンと畳の上に寝転がりお互いの健闘を讃えた。

「お前なかなかやるな。こんなに楽しいのは久しぶりだ」


「お前名は?」


「私は、橘一郎。君は?」


「俺は、佐々木 熊五郎」


聞けば熊五郎は、私と同じ様に両親を幼い時に亡くし両親が生前世話になっていたこの西運寺に預けられ、大安和尚と他の身寄りのない子供達とともに、暮らしているのだという。


「俺は最初にお前がここに来た時、嬉しかったんだ。同じ歳で俺と同じくらいで、話の合う友達がずっと欲しかったから」


「お前が作った紙飛行機、あれが一番俺との勝負に圧倒的な差をつけて飛んでたな。アレどうやって作るんだ?」


「作り方を教えてくれよ」


「君の寄り切りだって、強烈だったさ。紙飛行機の作り方はまた明日教えてあげるよ」


私は初日から、西運寺の者たちに歓迎され、熊五郎との勝負の甲斐あって、直ぐに童達にも受け入れられた。


私は、どこまでも長く飛ぶ紙飛行機を作るのが得意だった為、男児たちからいつも紙飛行機をせがまれた。


女児たちからは、裁縫が得意だった為破れたお手玉を直したり、していた。


熊五郎と共にその年の夏には、魚や虫を採りにいったり川で遊んだりなど、その年の子どもらしい遊びをして過ごした。


秋は裏山に自生するキノコや、栗、あけびなどの木の実を採りにいった。


九条邸に、採れたての松茸などを持っていくと屋敷中の人から喜ばれた。


大安和尚が管理している寺の畑で、とうもろこしやさつまいもなどを掘って、焼いて食べたりなどもした。

爺様が管理している九条邸の畑で、作物などの収穫や管理もしたことはあるが、その場で落ち葉や枯れ木を集めて焼いて食べた事など、一度もなかった。



童達は、熊五郎のことを熊親分と言って慕っていた。

弱い者いじめは許さず、運寺の労力としてよく働き、幼い童達の頭領として圧倒的権威を纏っていた。


この場合権威を振るうといった表現が正しいかもしれないが、奴は決して横暴に振る舞うことはなかったのだ。


男児らの喧嘩がはじまれば止めるどころか、一緒になって楽しみ負けた者には優しく接し、勝った者にはこれで決着とし2度と同じことで争うなと諭す様な、根っからなの親分肌な男であった。


そしていつしか私のことも、一郎の兄貴として慕ってくれる様になった。


師走の暮れ、雪が降り積もるなか西運寺の雪下ろしを終え、寺の外ではしゃぐ童達の声を聴きながら、私達は囲炉裏で暖を取っていた。


「あの子らは、一。お前を兄貴と呼ぶ様になったみたいだな」


「ははは。なんだか、私はお前の舎弟になった様な気分だよ」


「俺は、あまり頭は良くないからよ。お前みたいに頭のキレる舎弟がいると、心強いんだぜ。」


「これからも俺のずっと隣で、西運寺のシマを守ってくれよな」


「馬鹿言うな。元々この山含めてここら一帯、全て九条大作様のシマだ」


「俺は、そんなことたぁ知らねえ。そいつはお前の生きる世界での話だ。俺に取っては、この西運寺での世界が全てなのさ」


「熊、私もお前に出会う前は、九条邸での世界が全てだと思っていたさ。働く事しか知らない世界の住人として」


「私にとっては、この八ヶ月間は本当に色鮮やかな日々だったのだ。あの時、私を迎え入れてくれてありがとう」


「んだよ改まって、気持ち悪りぃな…。お前は、頭の回転が早いから、直ぐそう言った正直な気持ちを表に出しやがる」


「素直な気持ちを言葉にしては、ダメなのか」


「ダメじゃねーよ。ただなんとなくこそばゆいんだよ」


「ははは。熊の癖に、恥を知って照れる様になったのか」

 

「いちぃぃ…。テメー覚悟しとけ?表に出ろい」


熊は苦笑いしつつ顔を真っ赤にして、怒った。

しかし、本気で怒ってあるのではなく、これこそが熊五郎の照れ隠しなのだ。


外へ出ると、私達は雪の上で取っ組み合いになった。


熊五郎は、私の煽りに対して文字通りクマの様に襲いかかってきたのである。


私にとっては、いつものじゃれあいであった。普段親分。兄貴と慕っている私達が幼い童の様にじゃれあっている為、外でじゃれあっているた童達も、呆れていた。


「あーあ。熊親分達またやってるよぉ…」

「あーやってる時の兄貴達って、私達より小童に見えるわ」


そんな声は私達には届かず、私達じゃれあいの喧嘩すらも楽しんだ。


その様子を、爺様と大安和尚は遠くから見守ってくれていた。

 



第十章「サロンドルージュ」


お嬢様は、翌年より少しずつお一人で学校へ通われる様になった。

駅へ向かう道中に、顔馴染みのご婦人より、今だに私と一緒に学舎への道を行き来しているのを、珍しがられた為であった。


「一郎ちゃん。私と貴方がこうして一緒に行動することって、そんなに変なことかしら」


そのご婦人の言葉に全く悪気はなかったのであろうが、その出来事をきっかけにお嬢様は旦那様より、新しい自転車を買い与えられそれに乗って駅まで一人で通われる様になった。


そして、週に一度御学友と共に駅前の「サロンドルージュ」集い、お喋りや勉強会に勤しまれていた。


お嬢様はその日は必ず、私を駅まで迎えに来る様におっしゃられ、私にもその集いに参加される様に促されてた。


はじめて訪れる、珈琲館サロンドルージュはおしゃれな洋装で、お嬢様からはお学友の里子様の親戚が趣味で開店されたのだと言われた。


店名は、学生や若者が集うサロンの様になって欲しいと言う願いが込められているるそうだ。


その名の通り通り、私達以外にも大勢の女学生や男子学生達が、所狭しと集い談笑や勉強会をしていた。


しかし、私は名だたる華族お嬢様達の集まりに、緊張していた。

「沙羅さん。そちら方は?」


「‥わ、私、沙羅お嬢様のお付きをしております。橘一郎と申します」


「この子は、幼い頃から和歌に造詣が深くて、文学にも詳しいのよ」


「まあ、そうなの。では、今1番お好きな作家はどなた?」


「は、恥ずかしながら、今1番の作家は与謝野晶子でございます」


すると、彼女達の目の色が一瞬にしてキラキラと輝き出した。


「まあ、男子でありながら、与謝野晶子を愛読なされているなんて、珍しいですわ」


その時、お嬢様が、ここへ私をお連れになった理由が分かった。

私をお連れになることで、この集いの賑わいがさらに増すのを、分かっていらっしゃったのであろう。


彼女達は、まさに今をときめく乙女達であった。

彼女らは、淑女という足枷から解き放たれ、「源氏物語」「古今和歌集」「百人一首」や「乱れ髪」などの作品を、熱烈に語った。


「一郎ちゃんって、本当に私たちの好きな物に詳しいのね」


「なんなら、私達よりも詳しいくらいだわ」


そう言いながら、御学友の里子様と清美様は、私の知識を何度も褒め称えて下さいました。

里子様は、崇徳院の和歌を気に入っておられ、

清美様は、藤原義孝の歌を1番気に入っておられるとのことであった。


「私もいつか、私の為には命すら惜しくないと言って下さる素敵な殿方に出会ってみたいものですわ」


「川の流れが、分たれても、いずれ巡り巡って一つの流れに合流する。それを、男女の恋愛に結びつけているのが、秀逸よね」


お二人は、いつかの春の日のお嬢様の様にはしゃいでいらっしゃった。


三十分程経過し、私達は話し疲れてカルピスや、紅茶などを頼んだ。


「そういえば、よね子先輩のお姉さん。旦那の暴力に耐えかねて、逃げ帰ってきたらしいですわ」


「あらやだ、たしかよね子先輩って来月お見合いだって言ってなかったかしら」

お嬢様も思い出した様に呟いた。


「そんなタイミングで、帰ってくるなんて酷いお姉様ですわね」


私は、少し居心地が悪くなった。 


「私達もいずれ、お嫁に行く時が来るのでしょうけれど…」


「それが全ての女にとって、幸せと言えるかは疑問ですわ」


清美様は、怪訝そうな顔で言った。


「よね子先輩言ってらしたわ。自分は嫁になど行かずに、医者になるのが夢だって。でも、家族が私の子を見たいと、望むならば諦めるしかないって」


「女には、夢を見ることさえ許されないのかしら」


お嬢様も、暗い表情でそう呟いた。


「まさしく、今はただ思ひ絶えなむとばかりをですわね…」


「そんな話を聞くと、平安から明治になっても、ずっと女はお家のために子を産み育むだけの機械の様ですわ…」


先程までの賑やかな雰囲気とは、真反対のどんよりした重苦しい空気が流れた。


「女にとって1番の幸せって、なんなのかしらね」


「それはやっぱり、心から愛する人と夫婦になることでしょう」


「そうよね。やっぱり今のうちに、たくさん夢見て沢山恋をするしかないわね」


先程のニ、三分程流れた重苦しい空気はなんだったのだろうか…。


結婚が全てではないと言いつつ、やはり女にとっては恋をする事と、夢を見ることが1番だと一瞬の内に切り替えられる精神性は、一体なんなんだろう。


私には、それこそが女性というものの強さなのだと思えた。


お嬢様もいずれ、よね子先輩という令嬢の様に、お見合いをし、みそめられやがて結婚されるのだろう。


その頃には、私がお嬢様の隣にいることはないだろうが…。


そんなことを考えると胸が少し痛んだ。


「清美さん。里子さん。私お手洗いへ行ってきますわ。少し待ってて下さいまし」


そう言ってお嬢様は、少し席を外された。


お嬢様の立ち去られた方向に、私は視線を外さずにいた。


「かくとだに えやはいぶきのさしも草」


「さしも知らじな燃ゆる思ひを」


「という所でしょうか?」


里子様と清美様の二人の声に私は、びっくりして振り向いた。


「一郎ちゃんったら、沙羅さんに恋しちゃってるのね」

その時、私はまた自分すら自覚していなかった恋心を、見透かされ顔が真っ赤になって、黙してしまった。

お二人は、そんな私を母親の様な眼差しで微笑まれた。


第十一章「北方より立ち込めし暗雲」 




19世紀末頃より、日本の状勢はアジア諸国の植民地化を進める列強に挟まれ、戦々恐々としていた。


当時の日本にとって1番の脅威であったのが、満州を支配し今や朝鮮半島まで手を伸ばし、軍事基地拡大を目論むロシアであった。


日本政府は当時説得によって、粘り強くロシアと交渉し、その進行を食い止めようとしていた。

しかし、1900年代に入ると最早ロシアが日本列島へ侵攻してくるのは、時間の問題であった。


1902年に日本は英国と同盟を結び、最早戦争は回避できぬものとなった。

その頃から、旦那様は海軍本部の仕事が忙しくなり、長らく九条邸へ帰って来られぬ日も多くなっていった。

喜八郎様も、成人式を終えられると旦那様が指揮する海軍の部隊に配属され、軍人として出社する様になっていた。


「お父様。今日も帰られないのですね…」


「ああ。今宵も屋敷を開けることになる。ワシらが居ない時は、沙羅お主が九条家の当主としてこの家をしっかり守るのだぞ。分かったな」


「はい。心得ておりますわ」


「うむ。では行って来る。一郎沙羅を頼む」


「はい。行ってらっしゃいませ。旦那様」


お嬢様は隣で左手で袂を抑え、私達は旦那様の背中が見えなくなるまで、見送った。


その日は朝からずっと、しとしとと嫌な雨が降り続いていた。


西運寺の藤の花も長雨の為に、例年に比べて色褪せるのが早く、先週見頃を迎えてから直ぐに散ってしまった。


「一郎。今日から私。完全に一人で学校へ参ります。家の事は、頼みましたよ」


「お嬢様一体どうしたというのです?」


「お父様が言われた様に、私もいつまでも一郎の世話になっているばかりじゃダメだと思うの」


「その為には、お父様や世間が求める淑女らしく振る舞わなければなりません」


「一郎。私が、今日お前に求める事は一つ。私が学校へ行っている間に、九条家のことは頼みましたよ」


今年最初の白梅が咲く頃に、爺様は八十四年の生涯に幕を閉じ、その直前に奉公人の頭領としての地位を13歳の僕に譲って逝かれた。


故に、私の仕事は今まで以上に増え、トメさんとヒデさんのお二人に手伝って頂きつつ、早朝以外は一日中働き回っていることが常であった。

お嬢様の提案は私を気遣ってのことなのだと、のちにトメさん達から聞いた。


また、この頃お嬢様は、十五という思春期真っ只中におられ、何をするにつけても「淑女たるもの〜でなくてはならない」というのが、口癖になっておられた。


彼女なりに九条家の者として自立しようと、あの頃を必死でおられたのである。


「じゃあ、行ってきますわ」

お嬢様は、いつのまにか草履から、真新しいブーツに履き替えられ藤の絵が描かれた和傘をさされ、辰の刻には屋敷を立たれた。


お嬢様も辰の刻には屋敷を立たれた。


「…」


私もお嬢様の背中が見えなくなるまで、静かに見送っていた。まるで、お嬢様は、一人で大人の階段を登って行かれる様で、私は少年の日のまま一人取り残されていく様な気がした。


「一郎。今日は沙羅と、一緒ではないのだな」


後ろから喜八郎様が、声をかけて来られた。


「ええ。今日から、学校へは一人で行かれたいと。

私には、自分がいない間の九条家の管理を全て任されております」


「なるほど。あいつも、背伸びをしたがる年頃になったという訳だ。私も十五の時はあの様に、人の手を借りずなんでも自分一人で解決しようと、躍起になって空回りすることが何度かあったものだ」


「まあ、直ぐに落ち着くだろう。それより、一郎沙羅の送り迎えがなくなったのだ。昼の仕事の前に私に付き合え」


喜八郎様は、そうおっしゃると私を道場へ案内し、道着を着させ剣道に付き合うようにと、おっしゃられた。


「…喜八郎様、私剣道なんてやったことありませんし、相手にもならないと思います…」


「そんな事はいい。私がお前に、剣道を教えたくなったのだ。さあ、どこからでもいい打ち込んで来てみなさい」


喜八郎様の言うとおりに、私は適当に面や胴を狙って打ち込んだ。

「ほう。一郎は、意外と筋がいいかもしれぬぞ」


機嫌を良くした喜八郎様は、私との打ち合いを楽しみつつ、優しく剣道の技術と精神を叩き込んで下さる様になった。


毎朝ではないが、喜八郎様はそれからずっと私と剣道の稽古をつけてくれる様になった。

その日からずっと雨の日が多く続いた為、早朝の時間は喜八郎様に剣道の稽古をつけてもらっていた。

「喜八郎様、一体何故私に今更剣道など教えるつもりになられたのですか?」


私は思わず尋ねてみた。

喜八郎様は少し考えた様な顔をされ、ゆっくりと口を開いて下さった。


「一郎。今から、私の言うことをよく聞きなさい」


「この国はもう直ぐ、ロシアと戦争になる」


「海軍所属の父と、私は恐らく戦場の第一線に立たざるを得なくなるだろう」


「生きて再び、帰って来れる保証もない。だからこそ、私は私の持つ全てをお前に託し、お前に九条家と沙羅のことを任せたいのだ」


「分かってくれるな?一郎」


突然の告白に、私は何も考えられずただただ黙した。

いや、そんな告白をされたら誰だって黙してしまっただろう。


「否。いくら軍人として、責務を全うして帰ってきたとしても、私の手は最早綺麗ではなくなっているだろう。そして、その罪を一生抱えて生きて行かねばならぬ」


「敵といえども、住む国が違えども、私達が打ち破らねばならぬ敵は、赤き血潮流るる人なのだ」


「私は、まだ人を殺したことなど一度もない。だから、この手を汚し罪を背負って生きていくのが恐ろしい」


「そして、なによりもこの世に何も残せず死んで誰の心からも、私と言う存在が忘れ去られてしまうことが最も恐ろしい」


喜八郎様は、みたこともない程取り乱していた。

顔を両手で覆い、髪をかき乱し、感情のままにその心情を吐き出していた。


道場に入る時は、精神を乱すことなく礼節を重んじることが大切だと、説かれてきた喜八郎様がである。


ずっと兄として、慕ってきた喜八郎様が感情を昂らせ、顔を手で覆い、髪をかき乱し独白される弱々しいお姿は、私には強烈に映った。


まるで時が止まったかの様に、しんと静まり返った道場には、夏だと言うのに冷たい空気が流れはじめた。


「……喜八郎様。貴方は、その気持ちを誰にも打ち明けられず、一人抱え込まれていたのですね」


「私は、この道場で父に剣道は、相手から一本取ることが目的ではない。自分自身に打ち勝つことこそが、真髄なのだと教わった」


「しかし、同時に人の命を摘み取る恐怖というものを教わった。父の祖父は、侍であった為幼き日に人を切る恐ろしさを父に叩き込んだと言う」


「きっと父も、はじめて敵の船を墜としたときその恐怖を、味わったことだろう」


「私は、留学していた頃に海外で、異邦人の友も多くいた。その中に、ロシア人もいた」


「私が奪うのは、あの者たちの兄弟や友人かもしれないのだ」


「だからこそ、私はこの手を汚すのが怖い。怖くてたまらないのだ」


「父上がこの様に、私がこの様に取り乱すお姿をみたら、叩きのめされるであろうが。お前にだけは、打ち明けたかったのだ…。軟弱で情けない私の姿を…」


今まさに、喜八郎様は当時幼かった彼自身が旦那様に、教えられた様に、私に命を奪うことの恐怖を解いていらっしゃるのだろう。こんなに、取り乱してはいなかったであろうが。


恐らく喜八郎さまにはその当時より、親子三代にわたる教えの重みは、計り知れないものであったであろう。


「…。分かりましたとは、簡単には言えませんが。喜八郎様は、質実剛健の精神逞しく、いつも私の憧れでした」




「しかし、本心を打ち明け優しく慈しみに溢れた一面だって、九条喜八郎様と言う方の一部だと思います」


「恥を知って勇を知ると言う言葉がありますよね。喜八郎様はまさに、今私にあえて恥を晒すことで勇ましき男として、新たに生まれ変わろうとしているのではございませんか」


「だから、私は喜八郎様の勇ましき精神を、技と共に受け継いでいこうと思います」


今思えば、彼にとって本当の弟の様に可愛がって下さった私と剣道をする時間は、出陣前最後の癒しの時間であったのだろうと思う。


私は、そう言うと膝を曲げ、頭を抱ええたまま顔を上げられた喜八郎様に微笑みかけ、手を差し伸べた。


その時はじめて喜八郎様の目から、一筋の涙が溢れた。


「…一郎。お前は、本当に優し過ぎる」


その夜は、4日ぶりに雨があがり満月が出ていた。私達は、一か月ほど前に剪定を終えた白梅の木の前で、満月を肴に兄弟盃を交わした。


その後も喜八郎様との稽古は、彼が旦那様と共に戦場へ向かわれる日の早朝まで続いた。稽古を積み重ねていく程に、兄様の曇った表情は、元のキリッとした顔に戻っていった。


出陣の朝、九条家は奉公人や領民達が一同に集い、お二人の見送りに駆けつけた。

早咲きの白梅の香りが、屋敷の外まで香っていた。


「では、行って参るぞ」


「ぼっちゃま。ご武運を」


「立派にお勤めを果たされるのですよ」


「旦那様、ぼっちゃまどうかご無事で」


日本国旗を振り、各々激励の言葉をかけていく中、喜八郎様と私は目と目で通じあい、あの満月の夜に交わした約束を再確認した。


(一郎。沙羅を、九条家を頼んだぞ)


(お任せください。橘一郎、命に変えてもお嬢様と、このお屋敷をお守り致します)


喜八郎様は、視線を交わすと小さく頷いた。


第十ニ章「恋は白梅の香り」


その日の夜お嬢様は、家に帰られるとずっとお部屋に篭りきりになられた。


私は、お嬢様にお茶をもって、お嬢様のお部屋へ訪れた。


「お嬢様。お茶をお持ち致しました」


障子を、開け入るとお嬢様は髪を下ろし、行燈もつけず月明かりが差し込む部屋の中で、背中を向けて横になっていらっしゃった。


私は、まず行燈に火をつけた。


次に、今朝は忙しく取り替えられなかった花を、お茶と共に持って来た白梅の枝に変えた。昨日取り替えたばかりの花は、見る影もなく枯れていた。


「お嬢様様、もうお眠りになってしまわれたのですか?」

私がそう言うと、お嬢様は寝返りを打たれ目を覚まされた。


「うーん。…いつの間にか夜になっていたのですね」


お嬢様は体をおこし敷布団に膝を曲げて座ると、も。お茶を啜ると、落ち着かれた様子だった。


「一郎。貴方のお茶は、いつでも私を落ち着かせて下さいますわね」


行燈に照らされたお嬢様の顔は、涙の跡が何本も刻まれていた。


「お嬢様。ずっと泣いておられたのですか」


「…」


旦那様も、喜八郎様もいない今九条家の当主としての責任を任され、今まで以上にお嬢様の背中には重責が背負わされたのだ。無理もない。


そのことに対しお嬢様は、私にだけ弱音を吐露されていた。


海戦になれば、もし敵艦隊の砲撃を受ければ逃げ道はなく、海に沈む他なく、艦隊に乗る軍人はほとんどが海に沈むのだと聞かされた。


そんな物に搭乗し指揮をふり、敵軍と命のやり取りをしなければならない旦那様と、兄様のことを沙羅お嬢様はずっと、心配されていた。血の繋がった家族が、無事に帰ってくるともしれない状況に置かれているのだ無理もない。


そんな父や、兄を思いお嬢様は涙を流されていたのだろう。


「一郎。もっと近くへ来なさい」


お嬢様は、自分の隣に座る様に促した。


私が敷布団に腰をかけようとした瞬間、お嬢様は私に抱きつく様にして押し倒した。


「!?お嬢様、一体何を?」


動転する私に構わず、お嬢様はずっと抱え込んでいたであろう苦しみを吐露した。


「お父様も、お兄様もいつも私を一人残して遠くへ行かれてしまいます。それがどれ程、孤独で恐ろしいことかも知らずに」


「私は九条家の当主なんて、とても務まりません。私は九条家の当主である前に、ただの非力な女でしかないのですから…」


「…お願いです。一郎。…貴方だけは私を置いて遠い所になんて、行かないで下さい…」


「…貴方すら、いなくなってしまったら、私はもう誰にも自分の弱さを曝け出すことができません。…そうなったら、私は本当に壊れてしまいそうです…」


「…お願い…ですから…」


押し倒した私の胸の中で、彼女の声はだんだん泣き声に変わっていた。その声は、外の者に聴かれない様に押し殺した様な悲痛な声だった。


その悲痛な叫びに呼応する様に、行燈の火に羽虫が入り込みじじじっと音を立てた。


「嗚呼、お嬢様私の前でその様にか弱気お姿を晒されないで下さい」


「私は、今まで九条家の為に忠誠を誓い、貴方の為にこの年まで全てを捧げて来たのです」


「貴方の髪が長くなるほどに、胸が徐々に膨らんで行く程に、身に纏う香りが鼻先をくすぐる度に、私は貴方へ抱く感情を押し殺して来たのです」


「貴方が私の本能を刺激する度に、私はこの手で今まで大切にして来た物を破壊してしまいそうになる」


「そんな姿を晒されこんなことをされたら、私は貴方のことを愛してしまいそうになる…」


その言葉に、お嬢様は驚いて顔を上げた。


「私と貴方は平民と華族。結ばれることはなくとも、貴方が命を終えるその時まで、ずっとそばにおりますから…」


「どうか、私の身勝手な愛をお許しください…」


そういうと、私は目を閉じお嬢様の唇にそっと口付けた。

お嬢様は、拒絶することなく私を受け入れてくれた。

私を抱く腕の力が、若干強くなった気がしたが気のせいだと、言い聞かせた。


例え彼女が、私の思いを受け入れてくれていたとしても、私達が結ばれることなどあり得ないのだから。


先程変えたばかりの白梅の香りが、強く香って来た。


「このことは、どうか二人だけの秘密にしてください。屋敷の者に知られれば、私はここにいられなくなりますから」


彼女はゆっくりと頷き、私から離れた。

彼女が離れると同時に、私は茶道具と枯れた花を乗せた盆を持って急いで、お嬢様の部屋を出ていった。


台所へそれらを置き、自室へ戻ると布団にくるまった。


私の胸は、早鐘をうち、全身の血は沸き立つ様にざわつき、この状況に混乱の意を示していた。そして、熱を帯びた下腹部に手拭いを当てた。


私は、取り返しのつかない状況になる前に、自らお嬢様に禁断の愛の告白をした。


例え結ばれなくても、このまま一生貴方に添い遂げることはできるのだと。


押し倒された時は、どうしようと思ったが私はあの時、ずっと抱え込んで来た苦しみをお嬢様と共有できたことは、心の底から良かったと思う。お嬢様に拒絶され、九条家を追放されようとも、私はあの時あの様にせずにはいられなかったのだ。


しばらくすると下腹部に籠った熱は冷め、落ち着いた。



あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々しき夜を


一人かも寝む


この歌を読んだ、柿本人麻呂も今の私様な気持ちでこの歌を読んだのだろうか。


そんなことをぼんやりと考えながら、私も一人眠りについた。


人生初の恋愛小説に挑戦。

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