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第七章 見えざる帝国


腐敗の海に、一石を投じる。


その一石が、さざ波で終わるか、全てを飲み込む津波となるか。ルキウスは、その賭けに打って出ることを決めていた。彼の武器は、剣でも軍隊でもない。ただ一枚の羊皮紙に記された、この世界ではまだ誰も理解できない概念――「信用創造」という名の、見えざる帝国だった。


数日後、ラティアリアの商人ギルドの会合は、不穏な空気と、値の張る香油の匂いに満ちていた。属州の経済を牛耳る、肥え太った商人たちが、若き新総督のお手並みを拝見しようと、値踏みするような視線を向けている。彼らの中心にいるのは、言うまでもなく財務官クラッススだ。


ルキウスは、その視線を意にも介さず、静かに口を開いた。


「皆に集まってもらったのは他でもない。この属州の経済を立て直すための、新しい政策について話すためだ」


彼の言葉に、商人たちは鼻で笑う。どうせ若様の理想論だろう、と。


ルキウスは、一枚の羊皮紙を掲げて見せた。そこには、彼のサインと、総督府の印章が押されている。


「これより、総督府は独自の『領地手形』を発行する。この手形一枚につき、総督府が備蓄する良質な小麦十キロとの交換を、私が保証する」


広間が、一瞬、静まり返った。


そして次の瞬間、爆笑が弾けた。


「はっはっは!手形だと?紙切れでパンが買えるとでも言うのか!」


「総督閣下は、詩人か何かでいらっしゃるらしい!我々は商人ですぞ、お伽話を聞きに来たのではない!」


嘲笑と怒号が、波のようにルキウスに打ち寄せる。クラッススは、腹を抱えて笑いながら、侮蔑の視線を投げかけた。


「総督閣下、素晴らしいご冗談ですな。ですが、我々が欲しいのは、確かな価値を持つ銀貨だけです。あなたのサインが押された紙切れなど、便所の紙にもなりゃしませんよ」


(――だろうな。お前たちには、理解できまい)


ルキウスは、内心で冷ややかに呟いた。彼らは、価値とは金や銀という「モノ」に宿るものだと信じて疑わない。その価値が、人々の「信用」という、目に見えない合意の上に成り立つ砂上の楼閣であることに、気づいていない。


「これは冗談ではない。決定だ」


ルキウスは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。


「この手形は、属州内での納税にも使用を認める。逆らう者は、属州総督への反逆と見なす」


その言葉に、嘲笑がぴたりと止んだ。商人たちは、目の前の若者が、ただの愚か者ではない可能性に、ようやく気づき始めた。だが、彼らの不信と敵意は、より深く、粘着質なものへと変わっていった。彼らは、この若き総督を、自分たちの利権を脅かす明確な「敵」と認識したのだ。


会合は、物別れに終わった。ルキウスは、自分がこの都で完全に孤立したことを、はっきりと自覚した。計画を実行するには、この腐りきったギルドの外に、信頼できる協力者を見つける必要があった。


その日の午後、ルキウスは質素な服に着替え、ガイウスだけを連れて、再び市場の喧騒の中にいた。彼は、あの解放奴隷の商人、シラスの店を探していた。


シラスの店は、以前と同じ場所で、相変わらず閑散としていた。彼は、客もいないのに、商品を磨いたり、並べ直したりと、黙々と手を動かしている。その姿には、卑屈さも諦めもない。ただ、自分の仕事に対する、静かな誇りのようなものが感じられた。


「少し、話を聞かせてもらえないだろうか」


ルキウスが声をかけると、シラスは驚いたように顔を上げた。目の前に立つのが、この属州の新しい支配者であることに気づき、その目に鋭い警戒の色が宿る。彼は、貴族という人種が、自分たちのような者から何を奪い、どう利用するかを、骨の髄まで知っていた。


「……総督閣下が、私のような者に、何かご用でしょうか」


「君の商才を見込んで、仕事の依頼に来た」


ルキウスは、単刀直入に言った。


「仕事、ですか」


「ああ。俺は、この属州に新しい金を作ろうと思っている。そのための、最高のパートナーを探しているんだ」


ルキウスは、周囲を警戒しながら、領地手形の計画の核心を、シラスにだけ語り始めた。それは、商人ギルドの連中には決して見せなかった、彼の思考の最も深い部分だった。悪貨が経済を破壊するメカニズム。信用の重要性。手形が、単なる代替貨幣ではなく、経済活動そのものを活性化させる起爆剤となりうること。


シラスは、最初は疑念に満ちた目で聞いていた。だが、話が進むにつれて、その瞳から警戒の色が消え、代わりに、商売人が獲物を見つけた時のような、鋭い輝きが宿り始めた。彼の頭脳は、ルキウスの言葉の裏にある、壮大な可能性を正確に理解しつつあった。


「……面白い。実に、面白い計画だ」


シラスは、初めて感情のこもった声で言った。


「だが、なぜ私なのですか?閣下が声をかければ、協力する大商人はいくらでもいるでしょう」


「彼らは、自分の利益しか見えていない。俺が欲しいのは、金儲けのパートナーではない。新しい秩序を、共に創る同志だ」


ルキウスは、シラスの目をまっすぐに見つめた。


「俺は、身分や出自で人を判断しない。評価するのは、その人間の能力だけだ。君の店に並んでいる品物は、どれも一級品だ。仕入れの目も、品質管理も、この市場の誰よりも優れている。だが、君は出自のせいで、正当な評価を得られずにいる。俺は、君に相応しい舞台を用意できる」


その言葉は、シラスの心の、最も柔らかい部分に突き刺さった。彼は、奴隷として生まれ、才覚一つで自由を勝ち取った。だが、この社会は、決して彼を対等な人間として扱ってはくれなかった。その悔しさと渇望を、目の前の若い貴族は、完全に見抜いていた。


「……もし、私が協力すれば、何を得られますか」


「富と名声。そして何より、君の能力を、誰にも縛られずに振るうことができる自由だ」


シラスは、長い間、黙ってルキウスの顔を見つめていた。彼の頭の中では、凄まじい速さで損得の計算が繰り返されている。この話に乗るリスクと、リターン。そして、目の前の男が、本当に信用に値する人間なのかどうか。


やがて、彼は決意したように、深く、深く頭を下げた。


「……お受けいたします、ルキウス様。このシラス、あなた様の『帝国』の、最初の臣民となりましょう」


その瞬間、ルキウスの「見えざる帝国」は、最初の、そして最も重要な版図を手に入れたのだった。


計画は、そこから驚くべき速さで進展した。


シラスの協力は、ルキウスの計画に、決定的に欠けていた実行力と現実性をもたらした。


「手形の素材は、普通の羊皮紙ではすぐに摩耗し、偽造も容易です。エジプトから輸入される、最高級のパピルスを使いましょう。費用はかかりますが、信用のためには必要な投資です」


「偽造防止策として、閣下のサインだけでは弱い。私に伝手のある、特殊なインクを使いましょう。特定の薬草を混ぜたもので、光の角度によって、わずかに色が変わって見えます。素人目には、まず見分けがつきません」


シラスの専門的な助言に基づき、精巧な領地手形が、秘密裏に印刷されていった。それは、ただの紙切れではなく、二人の知恵と決意が込められた、芸術品のような風格さえ漂わせていた。


そして、発行初日。


ラティアリアの中央広場に、総督府の布告板が立てられ、領地手形の発行が正式に宣言された。広場の隅には、山のような小麦の袋を背景に、簡素な交換所が設置された。


人々は、遠巻きにその様子を眺めているだけだった。誰もが、総督の奇妙な政策を訝しみ、最初の犠牲者になることを恐れていた。市場は、不気味なほど閑散としていた。


「……誰も、来ませんな」


ガイウスが、心配そうに呟く。


「最初はこんなものだ」


ルキウスは、落ち着き払っていた。彼は、自ら交換所のカウンターに立った。総督が、直々に両替商のような真似をすることなど、前代未聞だった。


その時、一人の老婆が、おずおずとカウンターに近づいてきた。その手には、汚れた布に包まれた、数枚の粗悪な銅貨が握られている。


「あの……総督様。本当に、この石ころみたいな銭でも、麦に換えてくださるんで?」


「もちろんだ、お母さん」


ルキウスは、優しく微笑んだ。彼は、老婆の銅貨を受け取ると、その価値に相当する領地手形を数枚、丁寧に手渡した。


「これが、新しいお金だ。これを持っていれば、いつでもあそこの小麦と交換できる。俺が、この首にかけて保証する」


老婆は、半信半疑で手形を受け取ると、恐る恐る小麦の交換所へ向かった。そして、本当に手形が山のような小麦の袋に変わるのを見て、腰を抜かさんばかりに驚き、涙を流してルキウスに感謝した。


その光景が、凍りついた空気を溶かす、最初のきっかけとなった。


一人、また一人と、人々が列をなし始める。シラスが事前に手配していたサクラも効果を発揮し、交換は順調に進んでいった。噂は、熱病のように街を駆け巡った。


「総督様が、石ころ同然の銅貨を、本物の小麦に換えてくれるぞ!」


「あの手形は、聖人ルキウス様の印が押された、魔法の紙切れだ!」


数週間後。


ラティアリアの市場は、かつてない活気を取り戻していた。


あれほど人々を苦しめていた悪貨は姿を消し、代わりに、ルキウスの領地手形が、当たり前のように流通していた。人々は、安心して買い物をし、商人たちは、価値の安定した通貨で商売ができる喜びに沸いていた。経済は、奇跡的な速さで正常化への道を歩み始めていたのだ。


だが、その成功は、ルキウスの計算すら、わずかに超えるものだった。


「ルキウス様、奇妙な報告が」


執務室で、シラスが少し困惑した表情で言った。


「あれほど偽造を警戒しておりましたが、偽の手形が、一枚も発見されておりません」


「ほう?それは、我々の偽造防止策が、見事に機能したということだろう」


「いえ……それだけではないのです。人々は、この手形を、まるで……そう、まるで『護符』のように扱っているのです。決して汚したり、折り曲げたりせず、家の神棚に飾る者さえいると。彼らは、この手形に、閣下の力が宿っていると、本気で信じているようなのです」


その言葉に、ルキウスは、かつて自分の領地で疫病を収束させた時と同じ、微かな、しかし無視できない違和感を覚えた。


人々の「信仰」や「信用」が、自分の予想を遥かに超える力を持って、現実を動かしている。まるで、自分の計画が、何か目に見えない巨大な力の「触媒」になっているかのような……。


(いや、考えすぎだ。人心を掴んだ結果、当然の帰結だろう)


彼は、再びその違和感を、合理的な思考の蓋で無理やり押さえつけた。


経済改革の成功。それは、腐敗官僚たちとの戦いにおいて、強力な武器を手に入れたことを意味する。ルキウスは、次の一手を思考し始めていた。


その、静かな執務室の扉が、尊大な音を立ててノックされた。


入ってきたのは、財務官クラッススだった。その顔には、以前の侮りの色はなく、代わりに、蛇のような粘り気のある笑みが浮かんでいた。


「総督閣下、素晴らしいお手腕ですな。このクラッスス、感服いたしました」


彼は、わざとらしく手を叩いた。


「つきましては、この手形の発行によって得られた、莫大な利益の一部を、我々にも『寄付』していただけませんか?属州の円滑な運営のため、ですぞ」


それは、腐敗の王からの、宣戦布告だった。ルキウスの「見えざる帝国」は、今、その存在を脅かす、最初の侵略者を迎え撃つことになったのだ。

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