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第六章 腐敗の都


皇帝からの勅令は、秋風が最後の木の葉を運び去ろうとする、穏やかな午後に届いた。


帝国の紋章を掲げた一騎の伝令使が、辺境の領地には不釣り合いなほどの土煙を上げて現れた時、ルキウスはガイウスと共に、元蛮族たちの村の様子を見回っているところだった。かつて敵として対峙した首領ダグが、今では村の長として、ローマ式の農具の使い方を同胞に教えている。その光景は、ルキウスがこの世界に来てから成し遂げた、最も奇妙で、そして最も価値のある成果だった。


「ルキウス・ウァレリウス・コルウス様に、皇帝陛下よりの勅書にございます!」


伝令使の張り上げた声に、畑仕事に勤しんでいた者たちが、畏敬と好奇の入り混じった視線を向ける。ルキウスは、恭しく差し出された羊皮紙の巻物を受け取り、その封蝋を解いた。


そこに記されていたのは、彼の運命を、そして帝国の運命をも大きく変えることになる、簡潔にして重い命令だった。


『モエシア属州総督に任ずる。即刻、任地へ赴き、かの地の混乱を収拾せよ』


「……属州総督」


隣で内容を覗き込んだガイウスが、かすれた声を漏らした。一介の地方貴族の三男坊が、いきなり属州一つを統べる総督に任命されるなど、前代未聞の人事だ。それは、ルキウスの功績が、帝国の中心にまで確かに届いた証だった。


「若様……やりましたな」


ガイウスの声は、喜びよりも戸惑いの色を強く滲ませていた。


噂は、瞬く間に領地全体に広がった。領民たちは、自分たちの主君が帝国の高官になるのだと、手を取り合って喜んだ。疫病を払い、飢えを退け、蛮族さえも手なずけた聖人ルキウスならば、きっと帝国の混乱さえも鎮めてくれるだろうと、誰もが信じて疑わなかった。


旅立ちの日、屋敷の前には、領地の全ての民が集まっていた。ローマ人の農民も、元蛮族の戦士たちも、皆が等しく、寂しさと誇りの入り混じった顔で彼を見送っている。


「若様、お達者で」


「聖人ルキウス様に、神のご加護を!」


その声援の中、ルキウスは馬上の人となった。彼の隣には、当然のように、忠実なる腹心ガイウスが控えている。彼は、ルキウスの護衛役として、帝都行きを自ら願い出たのだ。


「ルキウス様」


人垣をかき分けるようにして、熊のような大男が進み出てきた。ダグだった。彼は、ルキウスの馬前で、無骨な片膝をついた。それは、彼らの流儀における、最大の敬意を示す作法だった。


「あんたには、命と、俺たち一族の未来を救われた。この御恩は、決して忘れん。この土地は、俺たちが命に代えても守り抜くと、祖霊に誓おう」


「頼んだぞ、ダグ。ここはもう、お前たちの故郷なのだからな」


ルキウスは、馬上から静かに頷き返した。この男との間に生まれた奇妙な信頼関係は、彼がこの世界で築いた、最も重要なものの一つだった。


名残は尽きない。だが、行かねばならない。


ルキウスは、集まった人々に一度だけ深く頭を下げると、馬の腹を軽く蹴った。新たな任地、モエシア属州の州都、ラティアリアを目指して。


帝国の街道は、驚くほど整備されていた。石畳の道はどこまでも続き、数日間の旅路は、予想以上に快適だった。辺境の成功体験と、これから始まる新しい任務への期待感が、ルキウスの心を軽くしていた。自分の知識は、この帝国を救うためにある。その確信が、彼を奮い立たせていた。


しかし、州都ラティアリアの城門をくぐった瞬間、その高揚感は、冷たい違和感へと変わった。


街は、活気に満ちていた。少なくとも、表面上は。大理石で造られた壮麗な神殿や列柱回廊が立ち並び、道行く人々は、辺境では見ることのない、色鮮やかな衣をまとっている。だが、その華やかさの裏側に、何か澱んだ、不健康な空気がまとわりついているのを、ルキウスは敏感に感じ取っていた。


「……妙ですな」


隣を歩くガイウスが、眉をひそめる。


「街はこれほど豊かに見えるのに、人々の顔に生気がない。まるで、熱に浮かされた病人のようだ」


その通りだった。人々は何かを恐れ、何かを渇望するように、落ち着きなく視線を彷徨わせている。市場を通りかかると、その原因の一端が垣間見えた。


パン屋の店先で、一人の女が、店主と口論をしていた。


「どうして昨日より値段が上がるんだい!これじゃ、銅貨を袋で持ってきたって、パン一つ買えやしないよ!」


「文句なら皇帝陛下に言え!俺だって、明日にはこの銅貨がただの石ころになってるかもしれんのだ。銀貨以外は信用できねえ!」


店主が吐き捨てるように言う。その手元にある銅貨は、赤黒くくすみ、明らかに鉛が多く混じった粗悪なものだった。悪貨が、経済を蝕んでいるのだ。人々は貨幣を信用せず、物価だけが狂ったように上がり続けている。その結果、誰もが明日の見えない不安の中で、刹那的な享楽や、他人を蹴落とすことに走っている。これが、この街の病の正体だった。


その時、ルキウスの目に、市場の隅で小さく店を広げる一人の男の姿が映った。男は、解放奴隷であることを示す、簡素な服を身に着けていた。彼の店には、東方から運ばれてきたのであろう、質の良い香辛料や織物が並べられている。しかし、その前に客の姿はなかった。


そこへ、見るからに悪徳商人と分かる、肥え太った男が、数人の用心棒を連れてやってきた。


「おい、シラス。またこんなガラクタを並べているのか。場所代は払えるんだろうな?」


「……先日、お支払いしたはずですが」


シラスと呼ばれた男は、静かに答えた。その瞳には、諦めと、しかし消えることのない理知の光が宿っていた。


「ああ?聞こえねえな。俺の帳簿には、まだお前から金をもらった記録はねえぞ。払えないなら、その品物を全部置いていってもらおうか!」


悪徳商人が、下品な笑みを浮かべて手を伸ばす。典型的な、弱者からの搾取の構図。この街では、こんなことが日常的にまかり通っているのだろう。


ルキウスは、思わず前に出ようとしたガイウスの腕を、そっと制した。今はまだ、その時ではない。彼は、シラスという男の名前と、その理知的な瞳を、記憶に深く刻み込んだ。


総督府は、街の中心に聳え立つ、壮麗な宮殿だった。


新総督の到着を歓迎する宴が、その夜、盛大に開かれた。大広間には、属州の主だった役人や、有力な商人たちがずらりと顔を揃えている。誰もがルキウスに卑屈なまでの笑顔を向け、賞賛の言葉を並べ立てた。


「おお、これがかの有名なルキウス総督閣下か!その若さで、蛮族を手なずけたという武勇伝、帝都でも評判でございますぞ!」


「辺境でのご活躍、我らの誇りであります!このラティアリアも、閣下のご着任で、ますます繁栄することでしょう!」


だが、その言葉とは裏腹に、彼らの目は笑っていなかった。値踏みするように、探るように、ねっとりとした視線が、ルキウスの全身に絡みついてくる。彼らは、この若き新総督が、自分たちの「やり方」を邪魔する存在なのか、それとも、自分たちの仲間になる、新しい「強欲な支配者」なのかを、必死に見極めようとしていた。


特に、上座近くに座る一人の男の視線は、粘着質で不快だった。年の頃は五十代。美食で肥え太った体に、紫の縁取りがされた、高価なトーガをまとっている。属州の財務官、マルクス・リキニウス・クラッスス。この属州の腐敗の、まさに中心にいる男だと、ルキウスは直感した。


「総督閣下」


クラッススが、ワイングラスを片手に、ゆっくりと立ち上がった。


「この度は、ようこそお越しくださいました。我々一同、心より歓迎いたします。閣下は、さぞお疲れでしょう。政治の難しい話は、また後日といたしましょう。今宵は、我らが用意した最高の料理と、踊り子たちを、存分にお楽しみくだされ」


その言葉は、丁寧なようでいて、暗に「余計な口出しはするな」と告げていた。彼は、ルキウスを骨のない若者と侮り、酒と女で懐柔しようとしているのだ。


(――なるほど、分かりやすい)


ルキウスは、内心で冷たく笑った。敵の正体が見えなければ戦いようもないが、これほど分かりやすい悪党ならば、対処はむしろ容易い。


「これは、ご丁寧にどうも。財務官殿」


ルキウスは、人の良さそうな笑みを浮かべて立ち上がった。彼は、無能で、世間知らずで、政治に興味のない若者を完璧に演じきった。


「長旅で疲れ果てておりました。皆様の温かいお心遣い、感謝いたします。いやあ、それにしても、この都の素晴らしいこと!私のいた辺境とは、大違いですな。政治のことは、皆様のようなベテランにお任せするのが一番です。私は、しばらくこの都の美しさを楽しませていただくことにしますよ」


その言葉に、クラッススをはじめ、役人たちの顔に、あからさまな安堵と侮りの色が浮かんだ。彼らの目に、ルキウスはもはや、ただの「お飾りの総督」としか映っていなかった。


宴は、深夜まで続いた。ルキウスは、勧められるままに酒を飲み、踊り子を褒めそやし、愚かな若様を演じきった。その裏で、彼は一人一人の役人の顔と名前、そして彼らの力関係を、冷静に観察し、分析していた。


宴が終わり、豪華だがどこか居心地の悪い総督の私室に戻ったルキウスは、付き人として控えていたガイウスに、短く告げた。


「総督府の書庫の鍵を手に入れてくれ。過去十年分の、この属州の会計記録を、全てだ」


「承知いたしました。ですが若様、あの者たち、完全に若様を舐めきっておりますな」


ガイウスが、悔しそうに言う。


「それでいい。油断している者ほど、扱いやすいものはない」


ルキウスの瞳から、人の良い若者の表情が消えていた。そこにあったのは、獲物を見定めた、冷徹な狩人の光だった。


「彼らは、俺が数字に強いことを知らない。そして、数字は、決して嘘をつかないということも」


翌日から、ルキウスは総督の執務室にはほとんど顔を出さず、宣言通り、街の視察と称して遊び歩いているかのように見せかけた。その実、彼は夜ごと、鍵のかかった書庫に籠もり、山のように積まれた会計帳簿の羊皮紙と、一人格闘を始めた。


インクと、古い羊皮紙の匂い。無数に並んだ数字の羅列。それは、この属州に巣食う、腐敗という名の病魔の、詳細なカルテだった。


ルキウスは、一枚一枚、丹念に記録を追っていく。収入と支出。税収と公共事業費。数字の矛盾点、不自然な金の流れ。彼の前世の知識――現代の会計学の常識が、この世界のずさんな帳簿に隠された、巨額の不正を、少しずつ、しかし確実に暴き出していく。


彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。


「金がないなら、金に代わるものを作ればいい」


数日後、全ての帳簿を読み解き、腐敗の全体像を完全に把握したルキウスは、誰に言うともなく、そう呟いた。彼は一枚の新しい羊皮紙を取り出すと、そこに、この腐りきった都を根底からひっくり返す、前代未聞の経済改革の計画を、静かに書き記し始めた。

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