第五章 招かれざる客
祭りの音楽が、断末魔のように引き攣れて途絶えた。
人々の顔から笑みが消え、葡萄酒の杯が手から滑り落ちる。ついさっきまで陽気な喧騒に満ちていた広場は、水を打ったように静まり返り、そこに響くのは、血相を変えて駆け込んできた見張り役の兵士の、荒い息遣いだけだった。
「蛮族だ!我らの穀物を狙って、国境を越えた!」
その絶叫は、人々の心に突き刺さった恐怖の楔だった。平和という薄氷は、かくも容易く砕け散る。女たちは子供をかき抱き、男たちは武器を求めて狼狽えた。疫病を乗り越えた安堵は、より直接的で暴力的な脅威の前に、一瞬で霧散した。
「数は!敵の規模はどれくらいだ!」
ガイウスが、軍人らしい鋭い声で兵士に問う。
「はっ、正確には……しかし、百は下らないかと!いずれも屈強な、北の山岳部族の者たちです!」
百。その数字が、人々の顔をさらなる絶望で染め上げた。この領地にいる、戦える人間の数は、ガイウスがまとめた元兵士たちを含めても、その半分にも満たない。正面からぶつかれば、結果は火を見るより明らかだった。
パニックが伝染していく。誰もが、豊かに実った黄金色の麦畑が、赤い炎に包まれる光景を幻視していた。
その、混沌の中心で。
ただ一人、ルキウスだけが、表情一つ変えずに、燃え盛る焚き火の揺らめきを見つめていた。彼の頭の中では、目の前のパニックとは全く別の、冷徹な計算が高速で回転していた。
(――来たか。豊かさは、常に略奪者を呼び寄せる。歴史の必然だ)
彼は、前世で読んだ数多の戦史を反芻していた。トイトブルク森の戦い、カンナエの戦い。大軍が、地の利と油断によって、いかにして寡兵に殲滅されてきたか。もちろん、目の前の脅威は、そんな歴史的な大会戦に比べれば、村の喧嘩レベルの小競り合いに過ぎない。だが、原理は同じだ。
「ガイウス」
ルキウスの声は、不思議なほど穏やかだった。その静かな響きが、狂騒の中に一本の芯を通す。
「俺の部屋に、地図がある。戦える者だけを集めて、すぐに来てくれ」
彼はそれだけを言うと、踵を返し、屋敷へと歩き出した。その背中には、奇妙なほどの落ち着きと、揺るぎない自信が満ちていた。人々は、まるで嵐の海で灯台の光を見つけたかのように、その小さな背中を、祈るような思いで見送った。
書斎は、即席の作戦司令部と化していた。
集まったのは、ガイウスと、彼が選りすぐった十数名の元兵士たち。誰もが、これから始まる絶望的な戦いを前に、硬い表情をしていた。
「敵は百。対する我々は、十五名。まともに戦えば、半日ももたずに蹂躙されるでしょうな」
ガイウスが、重々しく口を開く。
「だから、まともには戦わない」
ルキウスは、机に広げた領地の地図を指さした。そこには、彼のインクによる無数の書き込みが、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
「敵の狙いは、我々の穀物だ。つまり、最短距離でこの村を目指してくる。そうなれば、必ずこの西の森を抜けるはずだ」
彼の指が、鬱蒼とした森の絵をなぞる。
「森は、大軍にとっては墓場だ。視界は遮られ、連携は分断される。我々のような少数で動くには、これ以上ない戦場だ」
「伏兵、ですな。ですが、若様。いくら森の中とはいえ、この兵力差では……」
元兵士の一人が、不安げに言った。
「だから、敵が森に入る前に、十分に弱らせておく必要がある」
ルキウスは、地図上の、森へと続く道筋に沿って描かれた、いくつかの小さな村の印を叩いた。
「敵が通るであろう、これらの村から、食料と家畜を全て避難させる。井戸には……」
彼は一瞬言葉を切り、集まった男たちの顔を見回した。
「井戸には、病死した家畜の死骸を投げ込み、汚染する。敵は、飢えと渇きに苦しむことになるだろう」
「なっ……!」
兵士たちが、息を呑んだ。それは、焦土作戦。自らの領地を焼き、敵の補給を断つ、非情の戦術。だが、自分たちが飲むはずの井戸を、自らの手で汚すという発想は、彼らにはなかった。それは、ローマ軍の誇りが許さない、蛮族の戦い方のように思えた。
「若様、それは……」
ガイウスでさえ、そのあまりに冷徹な策に、戸惑いの色を隠せない。
「誇りで腹は満たされないし、名誉で命は救えない。ガイウス殿」
ルキウスは、静かに言った。
「敵は、飢えと渇きで判断力を失い、規律は乱れる。疲労し、苛立った兵士ほど、扱いやすいものはない。そこを、我々が仕掛けた罠で一網打尽にする」
彼の説明には、一切の感情がなかった。ただ、冷たい論理と、勝利への絶対的な確信だけがあった。兵士たちは、目の前の若者が、聖人などでは決してないことを悟った。彼は、勝つためならば、悪魔にでも魂を売る覚悟を持った、恐るべき戦略家だった。
ガイウスは、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、深く、深く頷いた。
「……承知いたしました。全ては、ルキウス様の御心のままに」
彼のその一言で、作戦は決定した。
夜の闇に紛れて、ルキウスの計画は迅速に実行に移された。
ガイウスの指揮の下、元兵士たちが各村を駆け回り、農民たちを説得して、穀物や家畜を村の中心部へと避難させる。最初は抵抗していた農民たちも、「聖人ルキウス様の命令だ」と聞かされると、渋々ながらも従った。疫病から救われた経験は、彼らの心に、ルキウスへの絶対的な信頼を植え付けていた。
そして、いくつかの井戸には、本当に病死した豚や鶏が投げ込まれた。その光景に、何人かの兵士は顔を青ざめさせたが、ガイウスの厳しい視線に、黙々と作業を続けた。
夜が明ける頃には、全ての準備が整っていた。
ルキウスは、ガイウスと共に、伏兵を配置する森の中に来ていた。湿った土と、腐葉土の匂いが立ち込めている。木々の間を抜ける風が、肌を冷たく撫でた。
「敵は、おそらく昼前にはここを通過するはずだ」
ルキウスは、まるで空の雲を読むように言った。
「ガイウス殿は、本隊を率いてここで待機してくれ。俺は、数名だけを連れて、さらに敵に近い場所で陽動を行う」
「若様!危険すぎます!」
「一番危険な役目は、司令官が負うべきだ。それに、敵の混乱を、この目で直接確認したい」
彼の決意は固く、ガイウスもそれ以上は何も言えなかった。
昼が近づくにつれ、森の静寂は、徐々に不気味なものへと変わっていった。
鳥の声が途絶え、風の音だけが、兵士たちの緊張を煽るように、木々の梢を揺らしている。息を殺して待ち伏せる男たちの額に、冷たい汗が滲んだ。
やがて、遠くから地響きのような音が聞こえ始めた。蛮族の鬨の声と、がさつな足音。その音は、徐々に、しかし確実に近づいてくる。
ガイウスは、そっと剣の柄に手をかけた。心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
その時だった。
森の奥、ルキウスが向かった方角から、甲高い角笛の音が一度だけ、短く響いた。敵が、罠の範囲に入った合図だ。
蛮族たちの怒声が、森に響き渡った。
「水がない!この井戸も腐っているぞ!」
「食料も、何もかも持ち去られている!」
「ローマ人の罠だ!あの村へ急げ!あそこなら、まだ何か残っているはずだ!」
飢えと渇きは、屈強な戦士たちの理性を、いとも簡単に麻痺させていた。彼らは、もはや統率された軍隊ではなく、ただの烏合の衆と化して、我先にと森の奥へと突き進んでくる。ルキウスの筋書き通りに。
そして、彼らが伏兵地点の真ん中に差し掛かった、その瞬間。
ガイウスは、天を切り裂くような雄叫びを上げた。
「突撃ィッ!」
静寂を破り、茂みや木の上から、十数名のローマ兵が一斉に姿を現した。それは、奇襲というにはあまりにも少ない人数だった。だが、混乱しきった蛮族たちにとって、四方八方から現れた敵は、実数よりも遥かに多く見えた。
ガイウス率いる本隊が、敵の側面から、まるで猪のように猛然と突撃する。その勢いは、完全に敵の意表を突いていた。先頭にいた蛮族たちが、何が起こったのかも分からぬまま、次々と地面に倒れていく。
剣戟の金属音と、男たちの絶叫が、森の空気を満たした。戦いは、しかし、長くは続かなかった。完全に不意を突かれ、指揮系統も乱れた蛮族たちは、なすすべもなく打ち破られていった。
戦いが終わった後、森には血と鉄の匂いが立ち込めていた。
ローマ兵の損害は、負傷者数名のみ。対する蛮族は、半数近くが死傷し、残りは捕虜となった。それは、奇跡的な、圧倒的な勝利だった。
兵士たちは、歓声を上げ、互いの健闘を讃え合った。彼らは、自分たちが成し遂げた勝利に、まだ実感が湧かないようだった。
ルキウスは、そんな彼らから少し離れた場所で、捕虜となった蛮族の首領と対峙していた。
男は、熊のように巨大な体躯を持ち、顔にはいくつもの傷跡が刻まれていた。その憎悪に満ちた瞳が、ルキウスを射殺さんばかりに睨みつけている。鎖に繋がれてなお、その誇りと闘志は、少しも衰えていなかった。
「殺せ、ローマ人」
男は、地の底から響くような声で言った。
「俺は、お前たちに命乞いなどせん。だが、覚えておけ。俺の同胞が、必ずこの報復にやってくるぞ」
「お前の名は?」
ルキウスは、脅しには全く動じず、静かに問いかけた。
「……ダグ。それが俺の名だ」
「ダグ。お前たちは、なぜ我々の土地を襲った?」
「決まっているだろう。生きるためだ」
ダグは、吐き捨てるように言った。
「北の山は、もう何も与えてはくれん。俺たちは、ただ、飢えから逃れてきただけだ。お前たちローマ人が、豊かな土地を独り占めしているのが悪い」
その言葉に、ルキウスは静かに頷いた。彼の知る歴史の通りだった。蛮族の侵入は、悪意からではなく、生存競争の結果なのだ。
ならば、殺し合う必要はない。共存の道があるはずだ。
ルキウスは、その場にいた全員が、耳を疑うような言葉を口にした。
「ダグ。お前たちに、土地と、家族との生活を約束する」
森が、再び静まり返った。兵士たちも、捕虜の蛮族たちも、そしてガイウスさえも、ルキウスが何を言っているのか理解できず、ただ呆然と彼を見つめている。
「……なんだと?」
ダグが、初めて困惑の声を漏らした。
「お前たちを、処刑はしない。奴隷にもしない」
ルキウスは、続けた。
「この領地の、まだ開墾されていない土地を与える。そこに村を作り、家族を呼び、畑を耕して生きるがいい。その代わり、一つの義務を果たしてもらう。それは、この領地を守る兵士となることだ。次に侵入してくる蛮族から、お前たちが手に入れた新しい故郷を、我々と共に守るのだ」
屯田兵。歴史上、幾度となく試みられてきた、異民族との融和政策。成功例も、失敗例も、彼は知っている。だが、この状況で、これ以上合理的な解決策はなかった。
「若様!ご冗談を!」
最初に我に返ったのは、ガイウスだった。
「こいつらは、我々の敵ですぞ!土地を与え、武器を持たせるなど、狂気の沙汰だ!いつ後ろから刺されるか分かったものではない!」
他の兵士たちも、口々にガイウスに同調する。それは、当然の反応だった。
だが、ルキウスは首を横に振った。
「彼らが欲しいのは、土地と安定した生活だ。それを与えれば、彼らは牙を収める。いや、我々のために、その牙を振るってくれるだろう。彼らは、誰よりも屈強な兵士になる」
彼は、再びダグに向き直った。
「どうだ、ダグ。俺の提案を飲むか?それとも、ここで誇り高く処刑されるか?お前の民の未来は、お前の決断にかかっている」
ダグは、信じられないものを見る目で、ルキウスを凝視していた。その瞳から、憎悪の色が消え、代わりに深い混乱と、そして、わずかな希望の光が宿るのを、ルキウスは見逃さなかった。
この常識を覆す外交政策が、吉と出るか、凶と出るか。それは、まだ誰にも分からなかった。だが、ルキウスは、自分の知識と、人間そのものへの理解に、賭けてみることにした。
数ヶ月後。
ルキウスの領地には、奇妙だが、活気に満ちた光景が広がっていた。
ローマ人の村の隣に、新しく蛮族たちの村が作られ、二つの民族は、ぎこちないながらも交流を始めていた。元蛮族の男たちは、ガイウスの厳しい訓練の下、ローマ式の戦術を学び、領内で最も忠実で、最も屈強な兵士となっていた。彼らは、自分たちに新しい生活を与えてくれたルキウスに、神に対するような忠誠を誓っていた。
辺境の一領地が、ローマで最も豊かで、最も安全な場所として、その噂は行商人たちの口を通して、ついに帝国の中心、帝都コンスタンティノポリスにまで届いていた。
そして、ある晴れた日の午後。
一騎の伝令使が、帝国の紋章を掲げ、土煙を上げてルキウスの屋敷に到着した。
伝令使が、皇帝からの書簡を、恭しくルキウスに差し出す。
そこに記されていたのは、彼の運命を、そして帝国の運命をも大きく変えることになる、短い一文だった。
『聖人にして、蛮族使いのルキウス・ウァレリウス・コルウスよ。その才、興味深い。帝都へ召喚する』