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第四章 土と鉄の革命


「なければ、作ればいい」


ルキウスのその言葉は、まるで新しい世界の創造を宣言するかのように、静かな書斎に響き渡った。だが、創造とは無から有を生み出す神の御業だ。今の彼らにあるのは、痩せ細った土地と、飢えに喘ぐ民、そして絶望的なまでの資源の欠乏だけだった。


数日後、ルキウスは領内の村の長老たちと、主だった農民たちを集めていた。彼の後ろには、まるで岩のような不動の姿でガイウスが控えている。


「皆に集まってもらったのは他でもない。この冬を、我々が生き延びるための新しいやり方について話すためだ」


ルキウスは、ガイウスが用意させた大きな木の板に貼り付けた羊皮紙を指し示した。そこには、彼が考案した三圃式農業の概念図が描かれている。


「土地を三つに分け、一つには麦を、一つには豆を植え、一つは休ませる。これを毎年繰り返すことで、土地の力は回復し、収穫は今よりも格段に増えるだろう」


農民たちは、ぽかんとした顔でその図を見つめている。やがて、一人の皺深い顔をした老人が、おそるおそる口を開いた。


「若様……畑を休ませる、と仰いますか?ただでさえ食い物がないというのに、貴重な畑を遊ばせておくなど、聞いたこともございません」


「そうだ!それに、豆なんぞ植えてどうする。あれは家畜の食い物だ!」


一人、また一人と、不満と疑念の声が上がり始める。彼らにとって、農作業とは父から学び、祖父から受け継いだ、神聖にして不可侵の領域だった。そこに、まだ土の匂いも知らぬような若造が、奇妙な絵図を片手に口出しをしてきたのだ。反発しない方がおかしかった。


(だろうな。分かってはいたが、想像以上の抵抗だ)


ルキウスは内心でため息をつく。現代知識という「正解」を知っていても、それを人々に受け入れさせることの難しさを、彼は改めて痛感していた。疫病の時は「神託」という虎の威を借りることができた。だが、何百年と続いてきた農法を変えるには、神託だけでは足りない。必要なのは、動かぬ証拠。圧倒的な結果だった。


「皆の言うことも分かる。だから、これは命令ではない。一つの実験だ」


ルキウスは、騒めきを片手で制した。


「領主である我が家の直轄地、あの川沿いの荒れ地を、この新しいやり方で開墾する。そこで本当に収穫が増えるのか、皆自身の目で見定めて欲しい」


その提案は、農民たちの反発を、好奇心と侮りが入り混じった静観へと変えた。どうせ失敗するに決まっている。若様の気まぐれな道楽が、どんな無様な結果に終わるか、高みの見物をさせてもらおう。彼らの顔には、そう書いてあった。


「若様、本当にあの荒れ地を?」


集会が終わった後、ガイウスが心配そうに尋ねた。


「ああ。あそこなら、たとえ失敗しても他の畑に影響はない。それに、水も引きやすい」


「しかし、誰がやるのです。村の者たちは、誰も手を貸しますまい」


「そのために、君がいるんだろう?」


ルキウスは、悪戯っぽく笑った。ガイウスは、その笑みの意味を即座に理解し、苦笑を浮かべた。


翌日から、ガイウスの怒声が領地に響き渡った。彼が声をかけたのは、彼と同じように、軍を退役して故郷に戻ってはいたが、日々の暮らしに張り合いを見いだせずに燻っていた元兵士たちだった。


「いつまで死んだような顔をしている!貴様らは、帝国を守った誇り高き兵士ではなかったのか!飢えで死ぬのを、ただ指をくわえて待っているのが貴様らのやり方か!」


ガイウスの叱咤は、彼らの失いかけていた誇りを的確に抉った。


「我らが新しい主君、ルキウス様は、この飢えと戦うと宣言された!これは、蛮族との戦いと同じ、我らが領地を守るための聖なる戦だ!武器を鋤に持ち替え、俺に続け!」


歴戦の百人隊長の言葉は、元兵士たちの心を奮い立たせるのに十分だった。彼らは、まるで新しい軍団に招集されたかのように、次々とガイウスの元に集結した。農民たちが遠巻きに眺める中、屈強な男たちによる、前代未聞の開墾作業が始まった。


だが、問題は山積みだった。


最初の壁は、農具だった。ルキウスが設計した、土を深く耕すための「重量有輪犂」。それは、従来の貧弱な木製の鋤とは全く違う、鉄の刃を持つ怪物のような農具だった。


「若様、こんなもの、どうやって作るんです?そもそも、これだけの鉄がどこにあると?」


領地で唯一の鍛冶屋である老人が、設計図を前に頭を抱えた。


「鉄は、俺が何とかする。あなたは、最高の腕を貸してくれればいい」


ルキウスは、数日前から古い領地の地図と、父が残した記録を照らし合わせていた。そして、一つの記述を見つけ出していたのだ。領地の西の丘にかつて存在したという、小さな鉄鉱山の記録。数十年前に落盤事故があって以来、誰も近づかない「呪われた鉱山」として、人々から忘れ去られていた場所だった。


彼はガイウスと、特に腕の立つ元兵士数名だけを連れて、その丘へ向かった。鬱蒼とした森を抜け、茨を切り払ってたどり着いた先には、確かに、人の手で掘られた洞窟の入り口が、不気味な口を開けていた。


「ここが……。親父から、入ると祟られると聞かされて育ちました」


兵士の一人が、唾を飲み込む。


「祟りなどない。あるのは、活用されていない資源だけだ」


ルキウスは松明を手に、躊躇なく洞窟へと足を踏み入れた。内部は崩落の危険があったが、幸いにも入り口付近の鉱脈はまだ生きていた。赤黒い、血のような色の鉱石が、そこかしこに顔を覗かせている。


鉱山の再開発は困難を極めたが、ガイウスの指揮能力が遺憾無く発揮された。元兵士たちは、軍で培った土木作業の経験を活かし、見事な連携で坑道の安全を確保し、鉱石を掘り出していった。


掘り出された鉄鉱石は、鍛冶屋の工房へと運び込まれた。ルキウスは、連日工房に詰めた。彼は、前世の知識から、より効率的な送風装置ふいごの改良を指導し、炉の温度を上げることで、より質の高い鉄を生み出すことに成功する。


試行錯誤の末、ついに第一号の重量有輪犂が完成した時、鍛冶屋の老人は、自らが作り出した黒光りする鉄の塊を前に、呆然と立ち尽くしていた。


「おお……なんという、力強さだ……」


実験農場に持ち込まれた新しい鋤は、圧倒的な性能を見せつけた。牛に引かせると、その重い刃が、これまで誰も耕せなかった硬い土の奥深くまで食い込み、肥沃な黒土を掘り起こしていく。それを見ていた農民たちの間に、どよめきが広がった。


第二の壁は、水だった。


川沿いの土地とはいえ、畑全体に水を安定して供給するには、人力では限界がある。ルキウスの計画の要は、川の流れを利用して自動で水を汲み上げる、水車の建設だった。


だが、これもまた難事業だった。巨大な水輪を正確に組み上げ、歯車の噛み合わせを調整する技術は、この片田舎には存在しない。


「若様、こんな巨大なものを、どうやって水圧に耐えさせるのですか。木の組み合わせだけでは、すぐに壊れてしまいます」


建設を指揮する大工の棟梁が、途方に暮れた顔で言った。


ルキウスは、再び父の書斎に籠もった。彼が探していたのは、史実では一度失われ、ルネサンス期に再発見されることになる、古代ローマの驚異的な技術――ローマン・コンクリートの知識だった。もちろん、完全な配合など分かるはずもない。だが、彼は『ウィトルウィウス建築書』の断片的な記述や、現代の研究論文の記憶を必死に手繰り寄せた。


「石灰と、火山灰……そして、砂利と水……」


彼は、様々な配合を試した。何度も失敗し、固まらなかったり、すぐにひび割れたりするコンクリートの塊が、実験場の隅に積み上がっていく。農民たちは、そんな彼を「いよいよ若様は、泥遊びにまで手を出されたか」と、憐れむような目で見ていた。


だが、数十回目の実験の後、ついにそれは完成した。水中でさえも、石のように硬化する、魔法のような建材。それを水車の土台や水路の補強に使うことで、建設は飛躍的に進んだ。


そして、夏の終わりのある日。


ガイウスの号令で、水路を塞き止めていた最後の土嚢が取り払われる。川の水が、ごう、と音を立てて水路に流れ込み、巨大な水車の裾を濡らした。最初はゆっくりと、きしみながら。やがて、巨大な水輪が、その重さに逆らうように、荘厳な回転を始めた。


水車に連結された汲み上げ機構が動き出し、汲み上げられた水が、最も高い場所に作られた水路へと流れ込む。そして、その水が、乾いた実験農場の畑へと、まるで生命の血のように注がれていくのを、人々は息を呑んで見つめていた。


「おお……」


「水が……水が、勝手に畑に!」


誰からともなく、歓声が上がった。それは、やがて割れんばかりの喝采へと変わっていった。農民たちは、これまで自分たちが侮っていた若様の道楽が、神の御業にも等しい奇跡であったことを、ようやく理解したのだ。


秋が来た。


領地の風景は、去年とはまるで違っていた。特に、ルキウスの実験農場は、誰もが目を疑うほどの光景を現出させていた。


他の畑の麦が、まだ細く頼りない穂をつけているのに対し、実験農場の麦は、ずっしりと重い黄金色の穂を垂れ、まるで豊かな絨毯のように、畑一面を埋め尽くしていた。


収穫の日、農民たちはこぞって実験農場に集まった。そして、その収穫量が、従来の畑の数倍にも達することを知り、言葉を失った。


その夜、領地では何年ぶりかの、盛大な収穫祭が開かれた。


焚き火が赤々と燃え、人々は収穫されたばかりの麦で焼いた、香ばしいパンを頬張り、葡萄酒を酌み交わした。そこには、もう飢えの影も、絶望の色もなかった。誰もが笑い、歌い、踊っていた。


祭りの中心には、ルキウスとガイウスがいた。領民たちは、次から次へと彼らの元にやってきては、心からの感謝の言葉を捧げた。


「聖人ルキウス様!あなた様のおかげで、我々は冬を越せます!」


「ガイウス様!あんたについて行って、本当に良かった!」


その熱狂の中心で、ルキウスは焼きたてのパンを一口かじった。素朴だが、麦の味がしっかりとする、力強い味だった。自分がこの世界に来て、初めて自らの手で「創造」したもの。その温かさが、彼の胸にじんわりと広がっていく。


(悪くない……。いや、最高だ)


ゲームのプレイヤーとして、ただ歴史のIFを楽しむつもりだった。だが、目の前にいる人々の、この偽りのない笑顔は、どんな歴史書の記述よりも、彼の心を強く揺さぶった。


「若様」


隣で、ガイウスが満足そうな顔で酒を飲んでいる。


「見事な戦いでしたな。完膚なきまでの、勝利だ」


「ああ。君と、皆のおかげだ」


二人は、言葉もなく頷き合った。主君と腹心。その間には、もう誰にも壊すことのできない、固い絆が結ばれていた。


この「辺境の奇跡」の噂は、やがて行商人たちの口を通して、領地の外へ、そして帝国の中心へと、少しずつ広まっていくことになる。だが、今の彼らは、まだそれを知る由もなかった。


ただ、目の前の平和と、豊かな収穫の喜びに浸っていた。


その、穏やかな祝宴の空気を切り裂くように、一人の見張りの兵士が、血相を変えて広場に駆け込んできたのは、その時だった。


「大変です!蛮族です!」


兵士の絶叫に、祭りの音楽が、ぴたりと止んだ。


「小規模な一団が、我々の穀物を狙って、国境を越えました!」

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