第三章 最初の仲間
「このままでは冬を越せずに、我々は飢え死にします」
その言葉は、奇跡の余韻に浸っていた領地の空気を、一瞬にして凍てつかせた。疫病という目に見えぬ恐怖は去った。だが、より確実で、抗いようのない死の足音が、すぐそこまで迫っていた。
ガイウス・フルウィウス・マクシムスは、目の前の若き主君の顔を、改めて見つめた。聖人、賢者、奇跡の人。領民たちは彼をそう呼ぶ。確かに、この痩せた三男坊が成し遂げたことは、奇跡としか言いようがなかった。だが、飢えは呪いでも祟りでもない。それは、空の食料庫と、痩せ細った畑という、動かしがたい現実だった。
「……分かっている」
ルキウスは、静かに頷いた。彼の青い瞳には、焦りの色も、絶望の色も浮かんでいなかった。まるで、この事態さえも想定の範囲内だとでも言うように、あまりにも落ち着き払っている。その落ち着きが、ガイウスにはむしろ不気味に思えた。
「ついてきてくれ、ガイウス殿」
ルキウスはそう言うと、踵を返して父の書斎だった部屋へと向かった。ガイウスは、黙ってその後に続く。引退して以来、忘れていた感覚が蘇る。有能な司令官の背中を追い、次の戦場へと向かう時の、あの独特の緊張感だ。
書斎の扉が開かれる。そこは、以前ガイウスが訪れた時とは、まるで違う空間に成り果てていた。
部屋の中央に置かれた大きな机の上には、領地の詳細な地図が広げられ、そこにはインクの色を変えて、無数の線や記号が書き込まれていた。壁には羊皮紙が何枚も張り出され、そこには見たこともない図形や、季節ごとの農作業の工程らしきものが、几帳面な文字でびっしりと記されている。それは、若様の気まぐれな落書きなどでは断じてない。ガイウスが長年の軍務で嫌というほど見てきた、緻密に計算され尽くした、作戦計画そのものだった。
「若様……これは?」
「飢えとの戦いの、作戦計画書だ」
ルキウスは、こともなげに言った。彼は地図の一点を指さす。
「この土地は痩せている。毎年同じ作物を植え続けたせいで、土の力が失われているからだ。だから、土地を三つに分け、一つには麦を、一つには豆を植え、残りの一つは休ませる。これを毎年、順番に入れ替えていく」
「畑を、休ませる……?豆を?」
豆は家畜の餌か、貧者の食い物だ。わざわざ貴重な畑で育てるなど、ガイウスの常識にはない。
「ああ。豆は、土の力を回復させる不思議な力を持っている。それに、良いタンパク源にもなる。兵士の体力維持に、豆のスープがいかに重要か、あなたはご存じのはずだ」
ルキウスは次に、壁に貼られた奇妙な農具の絵を指した。
「今の鋤は、土の表面を引っ掻くだけだ。これでは、土の奥深くにある、まだ力の残った土を掘り起こせない。もっと重く、深く耕せる鉄の刃を持つ、新しい鋤が必要だ」
「川の流れを見てくれ。あそこに水車を設置すれば、乾いた土地にも水を引くことができる。水は、食料と同じくらい重要だ」
次から次へと語られる、常識外れだが、しかし、一つ一つが驚くほど理にかなった計画。ガイウスは、言葉を失って聞き入っていた。これは、神託などではない。神の啓示などという、曖昧なものでもない。目の前にあるのは、冷徹なまでの観察眼と、恐るべき論理によって構築された、完璧な戦略だった。
疫病を食い止めたのは、奇跡ではなかった。この若者は、あの時から既に、領地という戦場で、見えざる敵と戦っていたのだ。
「……壮大な計画です。ですが、ルキウス様」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
「これだけのことを、誰が実行するというのですか。農民たちは、先祖代々のやり方を変えることを、そう簡単には受け入れますまい。第一、私のような老いぼれの退役軍人に、何ができると?」
そうだ、何ができる?自分は、帝国に見捨てられた、ただの傷痍軍人に過ぎない。腐敗した上官にへつらい、無能な貴族の命令にただ従い、意味のない戦場で仲間を失い、心をすり減らしてきた。この国はもう終わりだ。そう諦めて、故郷で静かに朽ち果てるのを待つだけの日々。そのはずだった。
「老いぼれ?とんでもない」
ルキウスは、初めて少しだけ笑みを見せた。
「俺が必要としているのは、百戦錬磨の指揮官だ。規律を知り、部下をまとめ、不可能を可能にする術を知る、本物の軍人だ。俺は、司令部で計画を立てることしかできない。だが、それを実行に移し、兵士たちを勝利に導くのは、現場の指揮官の仕事だ」
彼は、ガイウスの目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥に、燃えるような熱が宿っているのを、ガイウスは見た。
「ガイウス・フルウィウス・マクシムス。あなたに、この戦いの全権を委ねたい。俺の、最初の仲間になって欲しい」
それは、命令ではなかった。貴族が平民に投げかける、傲慢な言葉でもなかった。対等な人間に対する、魂からの要請だった。
ガイウスの全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
忘れかけていた感情が、心の奥底から激しく突き上げてくる。名誉。誇り。そして、忠誠。
彼は、これまで多くの指揮官の下で戦ってきた。だが、これほどまでに自分の力を、自分の経験を、自分の存在そのものを必要としてくれた者が、かつていただろうか。腐敗し、衰亡していく帝国の中で、これほどまでに明確な未来のビジョンを、熱く語ってくれた者がいただろうか。
この若者は、神の使いなどではない。だが、彼がやろうとしていることは、どんな神の奇跡よりも、価値がある。
ガイウスは、気づけば、硬い石の床に片膝をついていた。名誉除隊の際に負った古傷が、鈍く痛んだ。だが、その痛みさえもが、今は心地よかった。
彼は、深く、深く頭を垂れた。それは、彼が人生で、誰に対してもしたことのない、心からの臣従の礼だった。
「……このガイウス。若輩の身ではありますが、この命、ルキウス様のために捧げることを、ここに誓います」
「顔を上げてくれ、ガイウス。俺たちは主君と家臣じゃない。共に戦う、同志だ」
ルキウスの声は、穏やかだった。ガイウスが顔を上げると、彼は満足そうに頷き、そして、悪戯っぽく笑った。
「さて、同志よ。最初の任務だ」
彼は、机に広げられた計画書を指さした。
「計画は壮大だが、問題が一つある。この計画を実行するための農具も、それを動かす牛も、今の我々には、何一つない」
ガイウスは、今度こそ狼狽えることなく、主君の顔を見つめ返した。その瞳には、もう迷いも諦めもなかった。あるのは、これから始まる新しい戦いへの、静かな高揚感だけだった。
ルキウスは、そんな腹心の部下の顔を見て、不敵に笑った。
「なければ、作ればいい」
その言葉は、領地が直面する絶望への回答であると同時に、後に「辺境の奇跡」と呼ばれる、壮大な物語の、本当の始まりを告げるファンファーレだった。