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第二章 神の啓示か、悪魔の囁きか

ルキウスの元に最初の凶報が舞い込んだのは、彼がこの世界で生き抜く覚悟を決めてから、わずか三日後のことだった。


それは、乾いた咳の音から始まった。


最初は一人、また一人と、まるで風邪のような症状だった。しかし、熱に浮かされた者が日に日に増え、ついには血を吐いて倒れる者が出た時、領民たちの顔から急速に色が失われていった。


「呪いだ」


「西の森の邪神の祟りだ」


痩せた土地に住まう人々は、目に見えぬ脅威に対し、祈りと迷信でしか対抗する術を知らなかった。領主であるルキウスの兄たちも、神殿に籠って祈りを捧げるばかりで、何一つ有効な手を打てずにいた。


「……典型的な、衛生観念の欠如による感染症の拡大だな」


自室に籠もり、前世の記憶を総動員していたルキウスは、静かにそう結論付けた。症状から推測するに、おそらくは汚染された水や、患者との接触を介して広がる病だろう。治療法は、この時代の技術では望むべくもない。だが、感染の拡大を防ぐ方法なら、現代日本の小学生でも知っている。


問題は、それをどうやって実行させるかだ。


「ルキウス様、兄上がお呼びです」


扉の外から、召使いの老婆の声がする。父が亡くなって以来、この屋敷の空気は澱んだままだ。長兄は家督を継いだだけの無能で、次兄は筋肉だけが自慢の短絡的な男。三男である自分は、存在しないものとして扱われてきた。


兄たちの待つ広間へ向かうと、そこには神殿の神官も同席していた。香油と、死の匂いが混じり合った、不快な空気が満ちている。


「ルキウスよ。お前も貴族の端くれなら、神に祈りを捧げるがいい。この災厄は、我らの信仰心が試されているのだ」


長兄が、さも当然といった顔で言う。


ルキウスは内心で深く、深いため息をついた。(――違う。試されているのは、信仰心じゃない。知性だ)


彼は、ここで初めて口を開くことを決意した。これは、絶好の機会だった。自分の知識が、この世界でどれほどの価値を持つのかを試す、最初の実験だ。


「兄上、神官殿。恐れながら、申し上げたいことがございます」


静かだが、よく通る声だった。その場にいた全員の視線が、これまで空気同然だった三男坊に注がれる。


「なんだ、ルキウス。お前に何が言える」


次兄が、嘲るように言った。


「先日、父の書斎で古い文献を整理しておりましたところ、奇妙な記述を見つけました。それは、古代の賢人が遺したという『見えざる災厄を避けるための心得』についてのものです」


もちろん、そんな文献は存在しない。完全な、でっち上げだ。だが、彼の声には奇妙な説得力があった。


「ほう、古代の賢人、とな?」


神官が、わずかに興味を示した。


「はい。そこにはこう記されていました。『災厄は、穢れを好む。故に、身を清めよ。食事の前には必ず手を洗い、井戸から汲んだ水は、一度火にかけて煮沸せねばならぬ』と」


「手を洗う?水を煮るだと?」


長兄が、心底馬鹿げたことを聞いた、という顔で眉をひそめる。


「何を言っているんだ、ルキウス。そんなことで呪いが防げるものか。それより、もっと多くの生贄を神に捧げるべきだ!」


次兄が吼える。


(――ダメだ、こいつらには何を言っても無駄だ)


ルキウスは瞬時に悟った。正論では、この世界の常識という分厚い壁は突き崩せない。ならば、彼らが信じるもので、この壁を内側から破壊するしかない。


「ええ、兄上。もちろん、神への祈りこそが最も重要です。この心得は、その祈りの効果を高めるための、補助的な儀式のようなもの、とお考えください。文献にはこうも書かれていました。『病に倒れた者は、聖なる炎でその身を浄化せねば、災厄はさらに広がる』と」


「聖なる炎……まさか、火炙りにしろとでも言うのか!」


神官が色めき立つ。


「いえ、そうではありません。病人は家から出さず、家族であっても接触を避ける。いわば、家を一つの小さな神殿とし、そこで静かに祈りを捧げさせるのです。これを『隔離』と呼ぶ、と」


手洗い、煮沸、隔離。公衆衛生の三原則。それを、彼は「古代の知恵」と「宗教的儀式」という二枚のオブラートに包んで提示した。


しかし、兄たちの反応は芳しくない。彼らにとっては、弟の突飛な提案より、神官の祈祷の方がよほど信頼に値するのだ。


議論は平行線を辿り、結局ルキウスの意見は黙殺された。彼は無力感と共に広間を後にするしかなかった。


(――やはり、権威が足りない。俺自身の言葉には、まだ何の力もない)


自室に戻ったルキウスは、唇を噛んだ。だが、諦めたわけではなかった。彼には、まだ打つ手があった。正規のルートがダメなら、非正規のルートを使うまで。


彼はなけなしの私財――父が遺してくれた数枚の銀貨を握りしめ、屋敷を抜け出した。向かう先は二つ。一つは、領民たちから絶大な人望を得ている、あの退役軍人の家。そしてもう一つは、神殿そのものだった。


ガイウス・フルウィウス・マクシムスは、ルキウスの話を腕組みをしながら聞いていた。その鷲のような鋭い目が、目の前の若様を値踏みするように見つめている。


「……つまり若様は、手を洗ったり、水を煮たりすれば、この疫病が収まるとお考えか」


「収まるとは言わん。だが、これ以上広がるのを防ぐことはできるはずだ。ガイウス殿、あなたは長年、軍で兵站を管理してこられた。兵士たちにとって、最大の敵が敵軍ではなく、陣中で発生する疫病であったことを、誰よりもご存じのはずだ」


ルキウスの言葉に、ガイウスの眉がぴくりと動いた。確かに、遠征のたびに、多くの兵士が戦う前に病で命を落としていった。


「兵士の数を維持するために、陣地の衛生管理には気を配ったはずだ。汚物は決められた場所に捨てさせ、水の管理には細心の注意を払った。やっていることは、それと同じことだ。領地を一つの、巨大な陣地だと考えればいい」


「理屈は分かる。だが、相手は神の呪いかもしれんのだぞ」


「呪いだろうが悪魔だろうが、感染経路を断てば、それ以上広がりようがない。俺は、合理的な可能性に賭けたい」


ルキウスは、ガイウスの目をまっすぐに見つめて言った。その瞳には、貴族の若者特有の傲慢さや気まぐれはなかった。そこにあるのは、ただ純粋な、理性に裏打ちされた確信だけだった。


ガイウスは長い沈黙の後、重々しく口を開いた。


「……分かった。若様の言うことに乗ってみよう。俺も、ただ祈るだけで人が死んでいくのを見ているのは、もううんざりだ」


「感謝する。あなたに、村の男たちをまとめて欲しい。これは領主の命令ではない。俺個人の、頼みだ」


「はっ。このガイウス、一度引き受けたからには、必ずやり遂げてみせましょう」


百戦錬磨の元百人隊長。彼が味方についたことは、何よりも心強かった。


次にルキウスが向かったのは、神殿だった。


彼は神殿の奥で、先ほど広間にいた神官と二人きりで対面した。


「神官殿。先ほどの話、信じてはいただけませんでしたかな」


「ルキウス様。我々には、古来より伝わるやり方というものがございます。神々の怒りを鎮めるには、祈りと生贄こそが…」


「では、その祈りの効果を、さらに高める方法があるとしたら?」


ルキウスは懐から、銀貨の入った袋を取り出し、そっと神官の前の机に置いた。鈍い金属音が、静かな部屋に響く。神官の目が、明らかに変わった。


「これは?」


「神殿への、寄付です。私の私財の全てですが、領民を救うためならば惜しくはありません。この寄付をもって、私の提案を『神託によって示された、新しい祈りの様式である』と、民に布告していただけないだろうか」


神官は、銀貨の袋とルキウスの顔を、何度か見比べた。その目は、神の僕のものではなく、抜け目のない商人のそれだった。


「……ルキウス様。あなたの深い信仰心、確かに神々へも届きましょう。よろしい、その古代の賢人の教えとやら、神々がお認めになった新しい儀式として、私が責任をもって領民に伝えましょう」


金で権威を買う。前世では軽蔑すべき行為だったかもしれない。だが、この世界では、人命を救うための最も効率的な投資だった。


(これで、駒は揃った)


ルキウスは、誰にも気づかれぬよう、静かに勝利を確信した。


翌日から、領地の風景は一変した。


ガイウスの号令一下、村の男たちが屈強な元兵士たちに率いられ、各家の井戸の周りを徹底的に清め始めた。女たちは、彼の指示通りに水を煮沸し、病人の出た家には、誰も近づかぬよう見張りが立った。


もちろん、反発がなかったわけではない。「なぜこんな面倒なことを」「若様の気まぐれだ」という声は、至る所から聞こえてきた。


だが、その反発を二つの力が抑え込んだ。


一つは、ガイウスという絶対的な現場監督の存在。彼の厳しい叱咤と、時折見せる温かい励ましは、不満を言う者たちを黙らせるのに十分だった。


そしてもう一つが、神官による「神託」の権威だ。「これは聖なる儀式である」「怠る者には神罰が下る」という言葉は、迷信深い領民たちに絶大な効果を発揮した。


ルキウス自身も、領地を駆け回り、病人の家族を励まし、自ら手を動かして衛生管理の指導を行った。その姿は、これまでの引きこもりがちだった三男坊のイメージを完全に覆した。


そして、数週間後。


結果は、誰の目にも明らかだった。


あれほど猛威を振るっていた疫病の拡大が、ぴたりと止まったのだ。新たな患者はほとんど出なくなり、病に倒れていた者たちも、少しずつ回復の兆しを見せ始めた。


近隣の村々が、未だに疫病で多くの死者を出し続けているのと比較すれば、その差は歴然としていた。


領民たちのルキウスを見る目が、変わった。


最初は「気まぐれな若様」だったのが、「古代の知恵を持つ賢者」になり、そして最後には「奇跡を起こす聖人」へと変わっていった。


「聖人ルキウス様のおかげだ!」


「我らの祈りが、ルキウス様を通して神に通じたのだ!」


人々は、口々に彼を讃えた。兄たちも、あまりに劇的な結果を前に、何も言うことができなかった。


ルキウスは、領民たちの熱狂的な賞賛を浴びながら、一人、冷静に状況を分析していた。


(効果はあった。それも、予想以上だ)


公衆衛生の概念がない世界だ。効果があるのは分かっていた。だが、それにしても、結果が出るのが早すぎる。まるで、何かの力が働いたかのように、疫病は綺麗に収束していった。


(…いや、古代人の衛生観念が、俺の想像以上に低かっただけだろう。だからこそ、基本的な対策が、これほど劇的な効果を上げたに過ぎない)


彼は、自らの中に芽生えた微かな違和感を、合理的な解釈で無理やりねじ伏せた。今は、感傷に浸っている場合ではない。目の前には、解決すべき、より大きな問題が横たわっている。


疫病の脅威が去った安堵も束の間、ガイウスが深刻な顔でルキウスの元を訪れたのは、そんな時だった。


「ルキウス様。奇跡に感謝いたします。ですが…」


彼は、言葉を切り、深く頭を下げた。


「このままでは冬を越せずに、我々は飢え死にします」


その言葉は、領地が直面する、次なる絶望の始まりを告げていた。

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