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第十九章 転生コンサルタントの答え


七年の歳月は、帝国の姿を変えた。そして、ルキウス自身の内にも、静かだが確かな変化をもたらしていた。宰相としての激務、仲間との語らい、そしてヒルデと分かち合う穏やかな日々。その全てが、かつて彼が感じていた、この世界に対する傍観者のような孤独感を、少しずつ溶かしていった。


だが、心の最も深い場所に、澱のように沈殿し続ける、一つの問いがあった。それは、幸福な日々の中にあってさえ、ふとした瞬間に彼の思考を捕らえて離さない、根源的な謎だった。


カタラウヌムの戦勝記念祭が終わった、ある静かな夜。ルキウスは、祝宴の喧騒を逃れ、一人、宰相執務室の書斎に籠っていた。窓の外では、平和を謳歌する帝都の灯りが、まるで地上の天の川のようにきらめいている。しかし、彼の心は、その光の届かない、過去の暗がりへと沈潜していた。


机の上には、彼がこの世界に来てから書き綴ってきた、極秘の日記が広げられている。それは、彼の記憶を風化させないための記録であり、同時に、彼自身にも解き明かせない、数々の謎が記された、一冊の事件簿でもあった。


彼は、指でそのページを、ゆっくりと遡っていく。


最初の記述は、あの辺境の領地で起きた、疫病の顛末。


『――公衆衛生の三原則(手洗い、煮沸、隔離)を導入。結果、疫病は驚くべき速さで収束した。古代人の衛生観念の欠如を考慮しても、効果が劇的すぎる。まるで、何かの力が働いたかのように、病魔は綺麗に消え去った。人々の「聖人ルキウス」への信仰が、一種のプラシーボ効果でも生んだのだろうか?』


当時は、そう結論付けていた。だが、今読み返すと、その記述に、彼自身が感じていた微かな違和感が、ありありと蘇ってくる。


ページをめくる。次に現れたのは、ラティアリアでの経済改革の記録。


『――領地手形(兌換紙幣)の発行。シラスの協力もあり、計画は成功。だが、不可解な点がある。偽札が、一枚も出回らない。人々は、この手形をまるで「護符」のように扱い、異常なほどの信用を寄せている。シラス曰く「閣下の力が宿っていると、本気で信じている」と。人々の「信用」という精神的なものが、紙幣に物理的な価値以上の何かを与えている?馬鹿な、非科学的すぎる』


彼の眉間に、深い皺が刻まれる。一つ一つは、合理的な解釈で無理やりねじ伏せてきた事象。だが、それらがこうして並ぶと、偶然や幸運という言葉では片付けられない、奇妙な一貫性が浮かび上がってくる。


さらにページは進む。ダヌビウスの岸辺。ヒルデとの出会い。


『――ヒルデは、三日後に大嵐が来ることを、正確に予言した。「祖霊の声が聞こえる」と。彼女の民族特有の比喩表現かと思ったが、嵐は寸分違わず、予言通りにやってきた。彼女の言う「祖霊の声」とは、一体何なのだ?』


そして、アラマンニ族との戦い。彼の知る歴史が、初めて明確に「ズレた」瞬間。


『――遠征軍は、俺の知る史実を遥かに超える、壊滅的な打撃を受けた。敵の戦術は、あまりにも巧妙で、まるでこちらの動きを完全に読んでいたかのようだった。俺の行動が、歴史の奔流に影響を与えた結果バタフライエフェクトなのか?それとも、この世界は、元々、俺の知る歴史とは異なる法則で動いているのか?初めて、本当の意味での恐怖を感じた』


最後に、彼の指は、カタラウヌムの平原の記述の上で、ぴたりと止まった。日記のインクが、彼の当時の動揺を伝えるかのように、わずかに滲んでいる。


『――絶体絶命だった。ガイウスも、ヒルデも、そして俺自身も、全てが終わると思った、あの瞬間。俺は、願った。血を吐くような思いで、ただ、願った。「風が吹け」「丘が崩れろ」と。すると、まるで世界が俺の願いに応えたかのように、突風が吹き、地滑りが起きた。偶然?奇跡?いや、違う。あの感覚は、もっと直接的で、冒涜的なものだった。まるで、俺自身の意志が、世界の法則に、ほんのわずかだが、干渉したかのような……』


ルキウスは、日記から顔を上げた。


バラバラだったパズルのピースが、今、彼の頭の中で、一つの、恐ろしくも美しい絵を形作り始めていた。


疫病の奇跡。紙幣への異常な信用。ヒルデの予言。歴史とのズレ。そして、願いが引き起こした奇跡。


これらは全て、別々の事象ではない。一つの、巨大な法則の下で起きた、必然の出来事だったのではないか。


彼は、立ち上がると、部屋の中をゆっくりと歩き回り始めた。彼の得意な、システム思考。物事を個別の要素ではなく、全体を構成するシステムとして捉え、その根底にあるルールを見つけ出す。


(――仮説を立てよう)


第一に、この世界には、俺の知らない「力」が存在する。それは、一般的に言われる「魔法」のようなものかもしれない。だが、それは、呪文を唱えれば火の玉が出るような、分かりやすいものではない。もっと、根源的で、微弱な力だ。


第二に、その力は、特定の条件下で、現実世界に影響を及ぼす。カタラウヌムの例を考えれば、それは「人間の強い意志」や「願い」に、共鳴するのではないか。


第三に、ヒルデの「祖霊の声」。あれは、その微弱な力を、直感的に感じ取る能力なのではないか。彼女は、世界の無意識のざわめきを、風の匂いや、川の怒りとして、感じ取っていた。


そして、第四に、最も重要なピース。俺自身の存在。


なぜ、俺の周りでだけ、これほどまでに「奇跡」が頻発する?


疫病が収まったのは、俺が「公衆衛生」という、科学的で合理的な「理屈」を提示したからだ。


紙幣が信用されたのは、俺が「兌換」という、経済学的な「裏付け」を与えたからだ。


カタラウヌムで風が吹いたのは、俺が「こうなれば助かる」という、戦術的に極めて合理的な「願い」を、心の底から叫んだからだ。


(……そうか)


ルキウスは、足を止めた。


全てのピースが、一つの場所に、恐ろしいほどの精度で、はまった。


(そういうことだったのか……)


この世界の微弱な魔法は、それ単体では、ほとんど現実世界に干渉できない。それは、ただの可能性の霧、確率の揺らぎに過ぎない。


だが、そこに、強力な「触媒」が加わった時、その力は、現実を捻じ曲げるほどのエネルギーを発揮する。


その触媒とは――俺の持つ「知識」だ。


人々の「聖人ルキウスを信じれば助かる」という強い信仰心(精神エネルギー)に、俺が提示した「公衆衛生」という、もっともらしい論理(触媒)が組み合わさった時、魔法は活性化し、奇跡的な疫病抑制が起こった。


人々の「この手形には価値があるはずだ」という渇望(精神エネルギー)に、俺が与えた「穀物との交換保証」という経済学的根拠(触媒)が組み合わさった時、魔法は活性化し、紙幣に異常なほどの信用が付与された。


そして、カタラウヌムで、俺自身の「生きたい」という根源的な願い(精神エネルギー)に、「ここで突風が吹けば敵の矢は逸れる」という戦術的合理性(触媒)が組み合わさった時、魔法は活性化し、奇跡を呼び起こした。


俺は、チート能力を持っていたわけではない。


俺の転生そのものが、この世界にとっての、最大のチートだったのだ。


そして、その結論は、もう一つの、さらに巨大な問いへと繋がっていく。


なぜ、俺だったのか?


なぜ、この世界の滅びの運命に抗うための「触媒」として、日本の、しがない歴史オタクの魂が、選ばれたのか。


(……転生、ではない)


ルキウスは、静かに首を横に振った。


(これは、召喚だ)


この世界そのものが、その滅びの運命に抗うために。その「滅びたくない」という、惑星規模の無意識の願いが。最も効果的な解決策――ローマ帝国末期の、詳細な歴史知識を持つ魂を、異世界から「召喚」したのだ。


俺は、神に選ばれた英雄でも、運命に弄ばれる転生者でもない。


この世界自身に、その滅亡の危機をコンサルティングするために雇われた、ただの「転生コンサルタント」だったのだ。


全ての謎が解けた瞬間、彼の心を満たしたのは、驚愕でも、恐怖でもなかった。それは、長年解けなかった難問の、最後のピースがはまった時のような、静かで、そして深い、知的満足感だった。


彼は、自分の運命の、そのあまりにも壮大な全体像を、ようやく理解したのだ。


ルキウスは、静かに書斎を出ると、ヒルデの私室へと向かった。この真実を、彼女と分かち合う必要があった。いや、彼女ならば、きっと、もう気づいている。その答え合わせをする必要があった。


ヒルデは、窓辺の椅子に座り、月明かりの下で、静かに髪を梳いていた。その姿は、まるで一枚の絵画のように美しかった。


「……眠れなかったのか?」


彼女は、ルキウスの姿を認めると、優しく微笑んだ。


「ああ。少し、考え事をしていた」


ルキウスは、彼女の隣の椅子に腰を下ろした。そして、自分の導き出した結論を、静かに、そして丁寧に、語り始めた。自分の転生の謎、この世界の魔法の正体、そして、自らが「触媒」であったという、壮大な仮説。


ヒルデは、驚くことなく、ただ静かに、彼の言葉に耳を傾けていた。その青い瞳は、まるで「ようやく、そこまでたどり着いたか」とでも言うように、全てを理解し、受け入れているように見えた。


ルキウスが全てを語り終えた時、ヒルデは、梳いていた櫛をそっと置くと、彼の手に、自らの手を重ねた。


「……やはり、そうだったのだな」


その声は、納得と、そして安堵に満ちていた。


「私が聞いていた『祖霊の声』。それは、お前が言う、この世界の『願い』だったのだろう。世界は、ずっと叫んでいたのだ。『滅びたくない』と。そして、その声に、お前という魂が、応えてくれた」


彼女は、ルキウスの瞳を、まっすぐに見つめた。


「お前は、神でも、聖人でもない。だが、お前は、確かに、この世界に呼ばれた者だ。そして、私は、その声を聞き、お前を見つけ出すために、この時代に生まれてきたのかもしれないな」


その言葉に、ルキウスは、自分の魂が、初めて、この世界に、本当の意味で根を下ろしたような感覚を覚えた。


孤独な異邦人ではない。運命を共にする、伴侶がいる。自分の存在理由を、完全に理解してくれる、もう一人の自分が、ここにいる。


二人は、言葉もなく、ただ静かに、互いの手を取り合った。世界の意志によって引き寄せられ、結ばれた二つの魂。その絆は、もはや、どんな運命をもってしても、引き裂くことはできないだろう。


「……私の役目は、終わったのかもしれないな」


全ての謎が解け、帝国が平和を取り戻した今、ルキウスは、ふと、そんな感傷的な言葉を漏らした。コンサルタントとしての契約は、もう果たされたのではないか、と。


だが、ヒルデは、その言葉に、力強く首を振った。


「いいえ」


彼女は、窓の外に広がる、平和な帝都の夜景へと、視線を向けた。


「ここからが、始まりだ。お前と私、そして、この新しいローマの、本当の物語のな」


その声には、未来への、揺るぎない確信が満ちていた。ルキウスは、その言葉の意味を、ゆっくりと噛みしめる。そうだ、歴史を救うことと、未来を創ることは、全く別の仕事なのだ。


彼のコンサルタントとしての契約は、終わったのかもしれない。


だが、この世界の住人としての、ルキウス・ウァレリウス・コルウスの人生は、今、まさに、始まろうとしていた。

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