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第十八章 新しいローマ


カタラウヌムの平原を血と鉄の匂いで染め上げた、あの悪夢のような戦いから、七年の歳月が流れた。


帝国は、死の淵から蘇った。いや、正しくは、生まれ変わったのだ。


帝都コンスタンティノポリスの市場は、かつての、熱に浮かされたような刹那的な活気ではなく、未来への確かな希望に裏打ちされた、穏やかで力強い喧騒に満ちていた。石畳は打ち直され、崩れかけていた列柱は修復され、ファロスの灯台は、夜ごと、帝国に帰還する船団のために力強い光を放っている。


「……見ろ、ルキウス。あの子供たちの顔を」


市場の雑踏の中、ヒルデが、ふと足を止めて言った。その声は、ダヌビウスの岸辺で初めて会った時の、氷のような響きではなく、春の陽光のような温かみを帯びていた。


彼女の視線の先では、ローマ人の子供と、ゴート族の金髪の子供が、一つの焼き菓子を分け合いながら、屈託なく笑い合っている。彼らにとって、互いの出自など、髪や瞳の色の違い程度の意味しか持たないのだろう。


「ああ。俺たちが、命懸けで守りたかったものだ」


ルキウスは、静かに頷いた。彼の隣を歩くヒルデは、もはや戦士の革鎧ではなく、ローマの貴婦人が好む、上質なリネンで仕立てられた美しいストールをまとっている。だが、その腰には、今も変わらず、愛用の長剣が下げられていた。そのアンバランスさが、彼女という人間の本質を、そして二人が歩んできた道のりを、何よりも雄弁に物語っていた。


七年前、フン族の脅威は去った。だが、本当の戦いは、そこから始まった。


破壊された街の再建。荒れ果てた農地の開墾。そして何より、人々の心に残された、戦争の深い傷跡を癒すこと。それは、剣を振るうよりも、遥かに困難で、地道な戦いだった。


ルキウスは、皇帝の指南役として、宰相として、その戦いの先頭に立ち続けた。


ガイウスは、帝国軍の最高司令官として、新しい世代の兵士たちの育成にその全てを捧げた。彼の育てた士官学校の卒業生たちは、今や帝国各地の守りの要となっている。


シラスは、その天才的な商才と経営能力で、帝国の財務を完全に立て直した。彼の導入した公正な税制と、安定した通貨は、帝国の隅々にまで血流を蘇らせ、かつてないほどの繁栄をもたらした。


そして、皇帝ホノリウスは、もはや傀儡の若者ではなかった。彼は、ルキウスという最高の師を得て、幾多の国難を乗り越え、民から深く敬愛される、賢君へと成長していた。


その夜、ルキウスとヒルデは、皇宮で開かれた小さな宴に招かれていた。


「乾杯しようではないか、友よ!」


皇帝ホノリウスが、満面の笑みで黄金の杯を掲げる。その声には、かつての弱々しさは微塵もなく、自信と威厳が満ち溢れていた。


「この七年間の、我らの労苦と、そして、この輝かしい平和に!」


「「乾杯!」」


ルキウス、ガイウス、シラス、そしてヒルデ。帝国の礎を築いた仲間たちが、杯を打ち合わせる。そこには、もう身分も、民族も、過去の経歴も関係ない。ただ、同じ夢を見て、同じ道を歩んできた、戦友たちの、穏やかな笑顔があるだけだった。


「それにしても、若様」


少し酔いの回ったガイウスが、昔を懐かしむように言った。


「初めてお会いした頃は、どうなることかと思いましたぞ。いきなり畑を休ませろだの、水を煮沸しろだの……本気で、若様は少し頭がおかしくなられたのかと」


その言葉に、一座はどっと笑いに包まれた。


「違いない」とシラスも続く。「私が初めてお会いした時も、紙切れが金になると、真顔で仰いましたからな。あの時は、この若き総督は、とんでもない詐欺師か、あるいは本物の天才か、どちらかだと思いましたよ」


「結果、両方だったわけだ」


ヒルデが、悪戯っぽく笑いながら、ルキウスの脇腹を肘で突く。


「最も壮大な詐欺で、帝国を救ったのだからな」


「人聞きが悪いな」


ルキウスは、照れ臭そうに頭を掻いた。だが、その胸には、温かいものが込み上げてくる。孤独な転生者だった自分が、今、こうして、かけがえのない仲間たちに囲まれて、笑い合っている。その事実が、どんな栄誉よりも、どんな富よりも、彼の心を豊かに満たしていた。


宴が終わり、ルキウスとヒルデは、二人きりで、皇宮の庭園を散策していた。月明かりが、大理石の回廊と、手入れの行き届いた庭木を、幻想的に照らし出している。


二人は、帝都の街を一望できる、小高い丘の上で足を止めた。眼下には、無数の家々の灯りが、まるで地上に降り注いだ星々のように、きらめいていた。それは、七年前には考えられなかった、平和と繁栄の光景だった。


「……綺麗だな」


ルキウスは、誰に言うともなく、呟いた。


「ああ」


ヒルデも、静かに頷く。


しばらくの間、二人は言葉もなく、眼下の夜景を見つめていた。やがて、ルキウスは、意を決したように、ヒルデに向き直った。


「ヒルデ」


その声は、少しだけ、震えていた。


「俺が、この世界に来て、最初に見たのは絶望だった。滅びゆく帝国、飢えた民、そして、どうしようもない歴史の大きな流れ。俺は、たった一人で、その全てと戦わなければならないと思っていた」


彼は、自分の手の中にある、あの狼の牙のお守りを、そっと取り出した。七年の歳月で、それは彼の体温に馴染み、滑らかに光っている。


「だが、君がいた。君は、俺が持っていなかったもの、全てを持っていた。誇り、勇気、そして、人を信じる心。君がいなければ、俺は、ただの知識を持て余した、孤独な男のままだっただろう。君が、俺の計画に、魂を与えてくれたんだ」


彼は、一歩、彼女に近づいた。その青い瞳を、まっすぐに見つめる。


「俺は、これからも、この帝国のために生きていくつもりだ。だが、その未来を、一人で歩いていくのは、もう嫌だ。俺の隣に、君がいて欲しい。宰相としてではなく、ただのルキウスとして、君の隣を歩くことを、許してはくれないだろうか」


それは、不器用で、回りくどい、彼らしい愛の告白だった。


ヒルデは、何も言わなかった。ただ、その美しい青い瞳を、わずかに潤ませて、じっと彼を見つめ返している。その沈黙が、ルキウスの心臓を、締め付けた。


やがて、彼女は、ふっと息を吐くと、その唇に、いつもの、少し意地悪そうな、しかし最高に愛おしい笑みを浮かべた。


「……お前のような面倒な男は、私がいなければ、どうせろくな死に方をしないだろうからな」


彼女は、そう言うと、そっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。


「仕方がない。面倒を見てやる。生涯、な」


その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、ルキウスの魂を、深く、そして温かく震わせた。彼は、ヒルデのその手を、優しく握り返した。


数ヶ月後。


帝都コンスタンティノポリスは、建国以来、最も華やかで、そして最も意義深い祝祭に包まれていた。


帝国の宰相、ルキウス・ウァレリウス・コルウスと、ゴート族の女王、ヒルデの結婚式。


それは、ローマ人と、かつて蛮族と呼ばれた者たちが、真に一つの家族となることを、世界に示す、歴史的な儀式だった。


壮麗な神殿には、ローマの貴族たちと、ゴートの長老たちが、同じ席に並んで座っている。祭壇で奏でられる音楽は、ローマの荘厳な竪琴の調べと、ゴートの素朴な骨笛のメロディが、見事に融合した、新しい時代の音楽だった。


誓いの言葉を交わし、指輪を交換する二人を、皇帝ホノリウスが、父のような優しい眼差しで見守っている。その隣では、ガイウスが、柄にもなく、涙を拭うのを隠そうともしていない。シラスは、満足げに頷きながら、この祝祭にかかる費用と、それがもたらす経済効果を、頭の中で計算しているに違いなかった。


その夜、皇宮で開かれた盛大な宴は、夜を徹して続いた。人々は、飲み、歌い、踊り、新しい時代の到来を、心の底から祝福した。


ルキウスは、宴の喧騒から少しだけ離れたバルコニーで、愛する妻となったヒルデの肩を抱きながら、幸せを噛みしめていた。


これで、全てが終わった。そして、全てが始まったのだ、と。


だが、その幸せな日々の片隅で。彼の、あまりにも理性的すぎる頭脳の片隅で、一つの、小さな、しかし消えることのない疑問の種が、静かに芽吹いていることに、彼は気づいていた。


カタラウヌムの、あの絶体絶命の戦いの最中に起きた、あの奇跡。


都合の良すぎる、あの突風。あの、小規模な地滑り。


あれは、本当に、ただの偶然だったのだろうか。


自分の、血を吐くような「願い」が、まるで世界の法則そのものを捻じ曲げたかのような、あの不気味な感覚。


(……考えすぎだ。勝利の興奮が見せた、ただの幻覚だろう)


彼は、そう自分に言い聞かせた。だが、一度芽生えた知的好奇心の種は、決して枯れることはない。


彼は、自分の転生の謎、そして、この世界の、自分の知る歴史との「微妙なズレ」について、いつか、全ての答えを見つけ出さなければならないと、心のどこかで、静かに決意していた。


その答えが、彼が手に入れたこの平和な世界観そのものを、根底から揺るがすことになるかもしれない、という予感を、まだ彼は、知る由もなかった。

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