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第十七章 カタラウヌムの戦い


歴史が、一つの場所に収斂していく。


カタラウヌムの平原は、もはやただの土地ではなかった。それは、西方の世界の運命を決する、巨大な天秤そのものと化していた。その皿の一方には、ルキウスがその知識と魂の全てを注ぎ込んで再生させた、新しいローマ帝国。そしてもう一方には、東方の草原からやってきた、全ての文明を過去へと押し流す、破壊の化身。


ガイウス・フルウィウス・マクシムスは、愛馬の背の上で、その地平を埋め尽くすおぞましい光景を、鷲のような目で静かに見つめていた。


黒い、蠢く、生命の海。


フン族の大軍勢。その数は、三十万とも五十万とも言われた。彼らが立てる土埃は、太陽の光さえも遮り、空を病的な黄色に染め上げている。馬の嘶き、武具の擦れる音、そして意味をなさない威嚇の叫びが混じり合った不協和音は、それ自体が精神を蝕む兵器のようだった。最前線に立つローマの若き兵士たちの顔から、血の気が引いていくのが、ガイウスには手に取るように分かった。恐怖は、伝染病よりも早く、そして確実に、軍隊という生き物を内側から殺していく。


「怯えるな!」


ガイウスの声が、雷鳴のように響き渡った。それは、長年の軍務で鍛え上げられた、恐怖そのものをねじ伏せる意志の力に満ちた声だった。


「顔を上げろ、ローマの息子たちよ!お前たちの背後には何がある?お前たちが守るべき、家族と、畑と、そして我らが帝国そのものがある!ならば、我らが為すべきことは、ただ一つ!」


彼は、鞘からゆっくりと剣を抜き放った。その切っ先を、黒い海へと向ける。


「――眼前の敵を、ただ、屠るのみ!」


「「「ウォオオオオオッ!!」」」


兵士たちの顔に、再び血の色が戻る。恐怖は、熱狂へと昇華された。そうだ、とガイウスは思った。これこそが、ルキウスが再建した、新しい軍団の姿だ。身分ではなく、志によって集い、帝国の未来を信じる者たちの集団。


彼の視線の先、連合軍の中央翼では、ヒルデが率いるゴート族の騎兵部隊が、まるで静かな森のように、整然と隊列を組んでいた。彼らの装備はローマ兵ほど統一されてはいない。だが、その一人一人の瞳に宿る闘志は、炎のように赤く燃え上がっていた。彼らは、自分たちの新しい故郷を、そして彼らに未来を与えてくれた友を、守るためにここにいる。もはや、彼らは傭兵ではない。帝国の、最も信頼できる同盟者だった。


そして、その全てを、後方の小高い丘の上から、ルキウスが見下ろしているはずだった。


その頃、ルキウスは、丘の上に築かれた本陣で、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。


眼下に広がる、現実とは思えないほどの、敵の数。地図の上で駒を動かし、机上で計算を繰り返すのとは、訳が違う。一つ一つの点が、命であり、魂なのだ。そして、その数十万の命運が、今、自分の双肩に、ずしりとのしかかっている。


「宰相閣下。全軍、配置につきました」


シラスが、いつもと変わらぬ冷静な声で報告する。彼は、この決戦のために、帝国全土から驚くべき量の兵糧と物資を、この平原まで淀みなく送り届けてみせた。ルキウスの知識という脳が、シラスの補給網という血管を得て、初めて帝国という巨体を完全に動かしている。


「……分かっている」


ルキウスは、乾いた唇を舐めた。史実における、カタラウヌムの戦い。ローマの名将アエティウスは、ゴート族との連合軍を率い、ここでアッティラの進撃を食い止めた。その戦術は、彼の頭の中に完璧に入っている。中央にゴート族を配置して敵の猛攻を受け止めさせ、両翼に配置したローマ軍団で、敵を包み込む。鉄床と金槌。古典的だが、最も効果的な戦術。


だが、と彼は思う。


相手は、アッティラ。歴史上、最強の破壊者。彼は、本当に史実と同じように動くのだろうか。この世界が、俺の知る歴史と、微妙に、しかし決定的にズレているとしたら?


その不安を振り払うように、彼は命令を下した。


「全軍に伝えろ。――我が旗を、見失うな、と」


その命令が、角笛と旗信号によって全軍に伝わった瞬間。


地平の黒い海が、動いた。


最初に動いたのは、フン族の両翼に配置された、被支配民族の混成部隊だった。彼らは、アッティラの恐怖に支配され、死を覚悟した狂乱の雄叫びを上げながら、連合軍の両翼へと、津波のように殺到した。


「来たか!第一陣、投槍用意!」


ガイウスが叫ぶ。彼の指揮するローマ軍団は、巨大な盾のテストゥドを形成し、微動だにしない。敵が有効射程に入った瞬間、数千本の投槍ピルムが、空を黒く染め上げ、敵の第一波へと突き刺さった。悲鳴と怒号。だが、敵は怯まない。死体の山を乗り越え、後続が波のように押し寄せてくる。


やがて、二つの波が、凄まじい破壊音と共に激突した。剣と盾がぶつかり、肉が裂け、骨が砕ける音。カタラウヌムの平原は、一瞬にして、血と鉄と、男たちの断末魔が支配する、巨大な屠殺場へと変わった。


「持ちこたえろ!隊列を崩すな!」


ガイウスは、最前線で自ら剣を振るいながら、兵士たちを鼓舞する。彼の存在そのものが、この戦線の、揺るぎない要だった。


中央では、ヒルデ率いるゴート騎兵が、アッティラ直属のフン族本隊の、猛烈な突撃を、真っ向から受け止めていた。馬と馬がぶつかり合い、騎兵が次々と落馬していく。だが、ゴートの戦士たちは、一歩も引かなかった。彼らは、巧みな騎乗術で敵の攻撃をかわし、その隙に、短い槍や斧で、確実に敵の喉を掻き切っていく。


「ルキウスのために!我らの土地のために!」


ヒルデの金切り声が、戦場に響き渡る。彼女は、まるで戦乙女のように、馬上で舞い、その長剣が閃くたびに、フンの騎兵が血飛沫を上げて倒れていった。


戦況は、一進一退。ルキウスの描いた筋書き通りに進んでいるように、見えた。


だが、その均衡は、突如として破られた。


「閣下!報告!敵の一部隊が、我が軍の左翼を大きく迂回!側面を突く構えです!」


伝令の報告に、ルキウスは地図を睨みつけた。


(側面だと?馬鹿な!あの場所は、湿地帯のはずだ。大軍が通れるような場所ではない!)


史実にはない、動き。アッティラは、ルキウスの知識の、さらにその上を行く策を講じてきたのだ。彼は、この土地の地理を、ローマ軍以上に知り尽くしているのか?


「左翼の第五軍団に伝えろ!直ちに後退!予備兵力の第七軍団と合流し、防衛線を再構築せよ!」


ルキウスは、即座に指示を飛ばす。だが、その命令は、あまりにも遅すぎた。


ガイウスの視界の端で、友軍であるはずの第五軍団の隊列が、まるで腐った果実のように、内側から崩壊していくのが見えた。側面を、そして背後を、完全にフンの別働隊に突かれたのだ。


「しまった!罠か!」


ガイウスが叫んだ時には、もう遅かった。左翼の崩壊は、ドミノ倒しのように、中央の彼の部隊にも波及した。これまで正面の敵だけに集中できていた兵士たちが、横からの攻撃に混乱し、あの鉄壁だったはずの盾の壁に、無数の亀裂が生じ始める。


「若様!ガイウス殿の部隊が、孤立します!」


本陣で、シラスが悲鳴のような声を上げた。


ルキウスは、唇を噛みしめた。その唇から、血が滲み出る。地図の上では、ガイウスの部隊を示す駒が、敵を示す無数の駒に、完全に包囲されていた。


助けるか?いや、今ここで予備兵力を投入すれば、中央の防衛線が持たない。そうなれば、全軍が崩壊する。


見捨てるか?あの、最初の仲間を。自分を信じ、ここまで共に戦ってきてくれた、父のような男を。


彼の頭脳は、冷徹に「見捨てるべきだ」と結論を下していた。それが、勝利のための、最も合理的な判断。


だが、彼の心は、それを拒絶した。


「……第五軍団は、もう助からん。だが、ガイウス殿は、死なせん……」


彼の葛藤を、しかし戦場は待ってはくれなかった。


ガイウスの部隊は、完全に包囲され、四方八方から敵の波状攻撃を受けていた。彼の周りに残っている兵士は、もう数えるほどしかいない。彼の鎧は、自らの血と敵の返り血で赤黒く染まり、その呼吸は、荒く、そして浅くなっていた。


「ここまで、か……」


ガイウスは、朦朧とする意識の中で、そう呟いた。だが、若き主君の顔が、脳裏に浮かぶ。彼が夢見た、新しい帝国の未来。それを見届けるまでは、死ぬわけにはいかない。


彼は、最後の力を振り絞り、雄叫びを上げた。その時、彼の目の前に、一際巨大な、フンの将軍と思しき男が、巨大な戦斧を振りかぶって立ちはだかった。死を、覚悟した。


その、瞬間だった。


「――そこを退け、ローマの古強者よ!」


背後から聞こえたのは、凛とした、しかし聞き慣れない女の声。


次の瞬間、ガイウスの横を、一陣の疾風が駆け抜けていった。


金色の髪をなびかせ、馬上で長剣を構えた、ヒルデ。


彼女は、中央の守りを放棄するという、ローマ軍の戦術ではあり得ない、狂気の沙汰とも言える決断を下していた。彼女は、ゴート族最強の精鋭だけを引き連れ、敵陣の真っ只中を、まるで一本の矢のように突き進み、孤立したガイウスの元へと駆けつけたのだ。


「ゴートの女!貴様、持ち場を離れたのか!」


ガイウスが叫ぶ。


「黙れ!友が死にかけているのを、見過ごすほど、我らは薄情ではない!」


ヒルデの剣が、フンの将軍の戦斧と、火花を散らして激突した。彼女の、常識外れの突撃は、敵の包囲網に、一瞬だけ、風穴を開けた。


だが、その代償は、あまりにも大きかった。


「閣下!ゴート族が中央を離れたため、フン族本隊が、こちらへ!」


伝令の絶叫。


ルキウスが顔を上げると、丘の麓から、アッティラ本人が率いる、黒い悪魔のような親衛隊が、自分たちの本陣目掛けて、一直線に突撃してくるのが見えた。


全てが、終わった。


自分の、非情になりきれなかった、甘い判断が。ヒルデの、友情を優先した、無謀な行動が。この戦いを、そして帝国を、破滅へと導いたのだ。


ルキウスは、絶望の中で、天を仰いだ。


(――誰か、助けてくれ……!こんな、こんな結末のために、俺は……!)


(――ここで、風が吹けば!あの丘の、脆い岩肌が、少しでも崩れてくれれば……!)


彼の、心の底からの、血を吐くような願い。


その、時だった。


まるで、彼の願いに、世界そのものが応えたかのように。


それまで凪いでいた平原に、突如として、凄まじい突風が巻き起こった。砂塵が舞い上がり、フン族の騎兵たちの目を眩ませ、彼らが放った矢の軌道を、大きく逸らしていく。


そして、それと時を同じくして。


アッティラの部隊が駆け上がろうとしていた、丘の側面が、ごう、という地響きと共に、小規模な地滑りを起こしたのだ。それは、大した規模ではなかった。だが、全速力で突撃してくる騎馬部隊の勢いを殺ぎ、その隊列を、ほんの一瞬だけ、混乱させるには、十分すぎた。


「……なんだ……?」


ルキウスは、目の前で起きた、信じられない光景に、呆然と立ち尽くしていた。幸運?偶然?いや、違う。これは、あまりにも、都合が良すぎる。まるで、自分の願いが、そのまま現実になったかのようだ。


だが、その謎を解き明かす時間は、与えられていなかった。


その、神が与えたもうた、あるいは悪魔が気まぐれに起こした、ほんの一瞬の好機。


ルキウスは、それを、決して逃さなかった。


「――予備兵力、全軍、前へ!」


彼の、喉が張り裂けんばかりの絶叫が、丘に響き渡る。


「目標、アッティラの本陣!ヒルデ殿の部隊と、敵を挟み撃ちにするのだ!」


最後まで温存していた、最も精強なローマ軍団が、丘の上から、雪崩のように駆け下りていく。


その動きは、混乱の極みにあった戦場の、全ての流れを変えた。


風と地滑りで勢いを殺がれたアッティラの親衛隊は、正面からのローマ軍団の突撃と、背後から回り込んできたヒルデのゴート騎兵の猛攻によって、完全に挟撃される形となった。


伝説の王、アッティラの顔に、生まれて初めて、恐怖と、そして信じられないものを見るかのような、驚愕の色が浮かんだ。彼の、完璧だったはずの戦術が、理解不能な天運と、敵の捨て身の反撃によって、粉々に打ち砕かれていく。


彼は、屈辱に顔を歪ませながらも、全軍に、撤退の角笛を吹かせた。


黒い海が、ゆっくりと、しかし確実に、潮が引くように、後退を始めた。


それを合図に、カタラウヌムの平原に、天を震わせるような、勝利の雄叫びが響き渡った。ローマ兵も、ゴート兵も、民族の別なく、抱き合い、涙を流し、生き残ったことの奇跡と、信じられない勝利を、分かち合っていた。


だが、ルキウスは、その歓喜の輪に加わることはできなかった。


彼は、丘の上から、夕陽に赤く染まる、自らが指揮した戦場を見下ろしていた。


そこには、勝利の栄光と同時に、夥しい数の、味方の骸が、まるで赤い絨毯のように、どこまでも、どこまでも、転がっていた。その中には、彼が顔を知る、若い兵士たちの姿も、数多く含まれていた。


これが、勝利の代償。


そして、彼は、自らの掌を見つめた。この手が、この頭脳が、この勝利をもたらした。だが、あの最後の奇跡は、本当に、ただの偶然だったのだろうか。


自分の強い願いが、まるで世界の法則を捻じ曲げたかのような、あの不気味な感覚。


勝利の歓声を聞きながら、ルキウスは、一人、静かな、そして底知れない戦慄に、身を震わせていた。

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