第十六章 ローマの再生
帝国の宰相。その印綬の重みは、ルキウスが想像していたものを遥かに超えていた。それは、一つの国家の運命そのものの重さだった。皇帝ホノリウスから全権を委ねられたあの日から、彼の生活は一変した。もはや愚かな若様を演じる必要も、影の中で陰謀を暴く必要もない。彼が立つのは、帝国の政治の中心、光の当たる場所。そして、彼がこれから行う全ての決断は、この巨大な帝国の未来を、良くも悪くも、直接的に形作っていくのだ。
宰相執務室と定められた部屋は、かつてコルネリウスが使っていた、皇宮で最も豪華な一室だった。だが、ルキウスは部屋に入るなり、その華美な装飾や、属州から搾り取ったであろう美術品の類を、全て撤去させた。代わりに運び込ませたのは、巨大な地図と、何十もの書見台、そして山のような羊皮紙だけだった。部屋は、宰相の執務室というより、巨大な図書館か、あるいは大学の研究室のような様相を呈していた。
その部屋に、新生ローマの未来を担うことになる、最初の仲間たちが集まっていた。
「……若様、いや、宰相閣下。本当に、これを実行なさるおつもりか」
ガイウスが、その岩のような顔に深い困惑を浮かべ、一枚の羊皮紙を睨みつけていた。彼の横では、解放奴隷から帝国の財務を一手に担うことになったシラスが、その鋭い目で羊皮紙に記された数字を検分し、小さく唸っている。そして、部屋の隅の椅子には、ゴート族の代表として帝都に留まることを決めたヒルデが、腕を組み、静かに議論の行方を見守っていた。
彼らが見つめる羊皮紙に記されていたのは、ルキウスが長年、ただ頭の中だけで構想してきた、帝国再建計画の第一弾。
――軍制改革案。
その内容は、あまりにも過激で、革命的だった。
「帝国の軍隊は、今や傭兵頼りの、金で動く集団に成り下がっている。忠誠心はなく、規律は乱れ、その力は国を守るためではなく、内乱の火種となるために使われている」
ルキウスは、地図を指し示しながら、静かに、しかし力強く語り始めた。
「これを、根本から変える。まず、身分を問わず、帝国全土から才能ある若者を集め、士官学校を設立する。そこでは、戦術だけでなく、歴史、地理、そして工学を教える。真に帝国を理解し、守るべき民を愛する、新しい世代の指揮官を育てるのだ」
「それは素晴らしい。ですが、閣下」
ガイウスが口を挟む。
「問題は、その次です。この『蛮族傭兵の再編と、屯田兵制度の全土への拡大』。元老院の連中が、黙っておりますまい。彼らにとっては、蛮族に土地と武器を与えるなど、帝国を内側から売り渡すに等しい行為ですぞ」
「だから、元老院の力を削ぐのだ」
ルキウスは、こともなげに言った。
「軍の指揮権と、予算の決定権を、元老院から完全に切り離し、皇帝と、この宰相府に直属させる。彼らには、もはや口出しはさせん」
その言葉に、ガイウスとシラスは息を呑んだ。それは、数百年続いてきた帝国の伝統と、貴族たちの既得権益に、正面から喧嘩を売るに等しい宣言だった。
「抵抗は、凄まじいものになるでしょう」
シラスが、冷静に分析する。
「暗殺の危険も、これまで以上です。我々の敵は、もはや一人の人間ではない。帝国に巣食う、旧体制という名の怪物そのものです」
「分かっている。だからこそ、速度が重要になる」
ルキウスは、次の計画書を広げた。
「軍制改革と同時に、法整備を行う。身分によらない、公平な裁判制度の導入。そして、シラス、君に頼みたいのが、新しい税制の導入だ。貴族や神殿が持つ、広大な非課税の土地にも、公平に税を課す。それによって得られた税収が、我々の改革の原動力となる」
「……血の雨が降りますな」
シラスは、その計画のあまりの大胆さに、乾いた笑いを漏らした。
「だが、面白い。これほどまでに、やりがいのある商いは、生まれて初めてです」
議論は、夜を徹して続いた。軍制改革、法整備、税制改革、そして、失われた技術の復活。ルキウスの頭脳から溢れ出す、壮大で、しかし緻密に計算された改革案の数々に、ガイウスもシラスも、最初は戸惑いながらも、次第にその実現可能性と、その先にある輝かしい未来のビジョンに、心を奪われていった。
ただ一人、ヒルデだけは、議論に加わらず、静かに彼らを見守っていた。彼女の役割は、ローマの政治に口を出すことではない。彼女は、この改革が、彼女の民であるゴート族にとって、どのような意味を持つのかを、その鋭い感性で見極めていたのだ。
夜が明け、最初の光が執務室に差し込んできた頃。
ヒルデは、初めて口を開いた。
「ルキウス」
その声に、三人の男たちが顔を上げる。
「お前の計画は、まるで嵐のようだ。古きものを全てなぎ倒し、新しい種を蒔く。だが、忘れるな。嵐の後には、大地を固める、穏やかな雨が必要だ。お前の法や制度だけでは、人の心は動かせん」
彼女は、窓の外に広がる帝都の街並みを見つめながら言った。
「私の民が、お前の兵士となることを受け入れたのは、土地や金のためだけではない。お前が、我らを人間として扱い、我らの誇りを守ってくれたからだ。お前がこれから作ろうとしている新しい帝国でも、その心を、決して忘れるな」
その言葉は、ルキウスの胸に、深く、そして温かく染み渡った。そうだ、と彼は思った。自分がやろうとしているのは、ただのシステム改変ではない。人の心を、帝国の魂そのものを、再生させるための戦いなのだ。
「……ありがとう、ヒルデ。肝に銘じておく」
ルキウスは、静かに頷いた。
その日から、ローマ帝国は、巨大な嵐に見舞われた。
ルキウスは、皇帝ホノリウスの絶対的な権威を盾に、改革を断行した。
元老院は、案の定、猛反発した。議場では、ルキウスを「独裁者」「帝国の破壊者」と罵る声が、連日響き渡った。だが、ルキウスは、シラスが暴き出した彼らの汚職の証拠を突きつけ、一人、また一人と、その政治生命を絶っていった。抵抗する者は、容赦なく更迭され、その席には、身分は低いが志と能力のある、若い官僚たちが抜擢された。
新設された士官学校には、帝国全土から、希望に満ちた若者たちが集まってきた。貴族の子弟も、平民の息子も、そして、ゴート族の若者たちも、そこでは同じ釜の飯を食い、同じ教官の下で、新しい時代の戦術と、帝国への忠誠心を学んだ。ガイウスは、その初代校長として、老体に鞭打ちながら、若者たちの育成に情熱を注いだ。
シラスが導入した新しい税制は、貴族たちの懐を直撃したが、平民や商人たちの負担は、逆に軽減された。その結果、帝国の税収は、驚くほど健全化し、市場には活気が戻り始めた。彼は、その有り余る財源を使い、寂れた港を整備し、街道を補修し、帝国の血流を、少しずつ蘇らせていった。
そして、ルキウス自身が最も力を注いだのが、技術革新だった。
彼は、前世の知識を元に、忘れ去られていたローマン・コンクリートの製法を完全に復活させ、崩れかけていた水道橋や公共建築物を、次々と修復していった。さらに、彼は、金属活字を使った、原始的な印刷技術の開発にも着手した。
「知識は、一部の権力者が独占するから腐敗するのだ」
彼は、試作の印刷機を前に、仲間たちに語った。
「新しい法も、新しい技術も、この印刷機で、誰もが読める形で、帝国全土に届けられる。知識の共有こそが、真に民を賢くし、帝国を強くするのだ」
数年の歳月が、嵐のように過ぎ去っていった。
帝国は、その姿を、ゆっくりと、しかし確実に変えていった。かつての、死を待つだけの老人のような淀んだ空気は消え、代わりに、新しい時代を自分たちの手で築こうとする、若々しい活気が満ち溢れていた。
もちろん、全てが順調だったわけではない。旧体制にしがみつく貴族たちによる、暗殺の試みは、一度や二度ではなかった。だが、そのたびに、ガイウスが鍛え上げた新しい親衛隊と、ヒルデが率いるゴートの戦士たちが、ルキウスの盾となり、その命を守り抜いた。
ある晴れた日の午後、ルキウスは、ヒルデと共に、再建されたばかりの水道橋の上に立っていた。眼下には、活気を取り戻した帝都の街並みが、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。
「……見ろ、ヒルデ。これが、俺たちが作ろうとしている、新しいローマだ」
ルキウスの声には、深い感慨がこもっていた。
「ああ。美しいな」
ヒルデは、静かに頷いた。その横顔は、数年前、ダヌビウスの岸辺で初めて会った時の、氷のような戦士のものではなかった。帝国の未来を憂い、隣に立つ男の運命を共にする、一人の女性の、穏やかな顔だった。
「だが、ルキウス。平和は、戦いの終わりではない。次の戦いの、始まりだ」
その言葉は、予言のようだった。
そして、その予言は、彼らが最も望まない形で、現実のものとなる。
その日の夜、宰相執務室の扉が、叩き壊されんばかりの勢いで開かれた。飛び込んできたのは、東方の国境から、馬を乗り潰して駆けつけてきた、伝令使だった。その顔は、恐怖と絶望で、土気色になっていた。
「ご報告、申し上げます!東の果てより、暗黒の雲が!地平を埋め尽くす、騎馬の軍勢が、帝国領内へと雪崩れ込みました!」
伝令使は、床に崩れ落ち、震える声で、その軍勢を率いる王の名を告げた。
その名は、ここ数年、帝国の誰もが、聞きたくないと願っていた、悪夢の名。
「――“神の災い”、“世界の破壊者”と恐れられる、フン族の王……」
「……アッティラ」
その名を、ルキウスは、静かに呟いた。
史実における、西ローマ帝国最後の、そして最大の敵。全ての文明を蹂躙し、世界を恐怖のどん底に叩き込んだ、伝説の破壊者。
ついに、来たのだ。
この、生まれ変わった新しいローマが、その真価を問われる、最後の試練。
ルキウスは、壁に掛けられた、巨大な帝国の地図を見つめた。その瞳には、恐怖も、絶望もなかった。そこにあるのは、長年待ち続けた好敵手を前にした、闘志の炎だけだった。
「全軍に、伝えろ」
彼の声は、静かだったが、帝国全土を震わせるほどの、絶対的な意志の力に満ちていた。
「――戦争の時間だ、と」




