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第十五章 チェックメイト


決行の日の帝都は、偽りのように穏やかな青空に包まれていた。だが、その空の青さは、これから起こる惨劇の色を、より一層不吉に際立たせるための、残酷な舞台装置にしか思えなかった。


市壁の外れに佇む、古きユピテル神殿。その大理石の階段を、皇帝ホノリウスは、一歩、また一歩と、まるで断頭台へ向かう罪人のように、ゆっくりと登っていく。その顔は、白蝋のように色を失い、皇帝の紫衣だけが、やけに鮮やかに彼の死相を縁取っていた。


彼の前後を固めるのは、近衛軍団長官ティトゥス・ラビエヌスが選抜した、百名の近衛兵たち。彼らは帝国の誇る最強の盾。だが今日、その盾は、守るべき主君の心臓を貫く、最も鋭い剣へと姿を変える。


ルキウスは、皇帝の少し後ろを、穀物供給監督官という、場違いな役職の正装で歩いていた。彼の隣には、召使いのふりをしたガイウスが、その無骨な体躯を無理やり縮こませるようにして控えている。二人の間にも、そして彼らを取り巻く全ての空気にも、言葉はなかった。ただ、張り詰めた弦が、いつ切れてもおかしくないほどの、極限の緊張だけが満ちていた。


神殿の内部は、荘厳な静寂に包まれていた。高い天井から差し込む光が、巨大なユピテルの神像を荘厳に照らし出し、その影が、無数に立ち並ぶ大理石の柱の間に、深い闇を生み出している。その闇の奥に、ガイウスが率いる数十名の元兵士たちが、息を殺して潜んでいるはずだった。あまりにも無力な、蜘蛛の糸のような抵抗勢力。


儀式は、滞りなく始まった。


神官が、抑揚のない声で祈りの言葉を唱え、皇帝が、震える手で祭壇に供物を捧げる。その全てが、これから始まる血塗られた祝祭のための、退屈な前座にしか見えなかった。


ルキウスは、ラビエヌスの横顔を盗み見た。その鉄仮面のような表情は、いつもと変わらぬ忠誠心に満ちているように見える。だが、その瞳の奥に、長年の宿願が成就する寸前の、抑えきれない歓喜の光が揺らめいているのを、ルキウスは見逃さなかった。


そして、儀式が終わり、皇帝が神像に最後の祈りを捧げ、背を向けた、その瞬間。


時は、来た。


「――陛下に、真の安らぎを」


ラビエヌスの、静かだが、神殿全体に響き渡るような声。それが、反乱の狼煙だった。


その声に応え、それまで皇帝の盾であったはずの近衛兵たちが、一斉にその鞘から剣を抜き放った。磨き上げられた刃が、神殿の光を反射し、無数の冷たい殺意の光となって、皇帝の背中に突き刺さる。


「なっ……!ラビエヌス!貴様、何を!」


皇帝が、信じられないものを見る目で、振り返る。


「陛下。私は、あなた様個人を憎んではおりません。私が憎むのは、皇帝という、一人の人間に権力を集中させる、この腐りきった制度そのもの。今日、この日をもって、ローマは真の共和制へと回帰するのです。あなた様には、その礎となっていただく」


ラビエヌスは、ゆっくりと自らの剣を抜きながら、恍惚とした表情で言った。


だが、彼の剣が皇帝に届くことはなかった。


「――させん!」


ガイウスの、雷鳴のような雄叫び。それを合図に、神殿の柱という柱の影から、彼の部下たちが一斉に飛び出してきた。数は少ない。だが、その一人一人が、死を覚悟した歴戦の勇士だった。彼らは、皇帝の周りに、血と肉でできた、最後の防衛線を瞬時に形成した。


「愚かな。虫けらが、象に歯向かうか」


ラビエヌスは、眉一つ動かさずに吐き捨てた。


「皆殺しにせよ」


その冷たい命令と共に、神殿は、剣戟の金属音と、男たちの怒号が渦巻く、地獄の闘技場へと変貌した。


ガイウスの部隊は、奮戦した。彼らは、ルキウスが事前に叩き込んだ、この神殿の地形を最大限に利用したゲリラ戦術を展開した。巨大な柱を盾にし、狭い回廊に敵を誘い込み、祭壇の裏から奇襲をかける。その動きは、少数であることを感じさせないほどに、立体的で、そして効果的だった。


だが、戦力差は、あまりにも絶望的だった。


一人、また一人と、ルキウスの知る顔が、血飛沫を上げて倒れていく。彼らは、最後まで皇帝を守る盾となり、その命を散らしていった。ガイウス自身も、その岩のような身体にいくつもの傷を負いながら、鬼神のごとく戦い続けていたが、その動きは、徐々に精彩を欠き始めていた。


「若様!もはや、これまでです!陛下をお連れして、裏口から!」


血塗れの顔で、ガイウスが叫ぶ。


ルキウスは、唇を噛みしめた。彼の頭脳が弾き出した、最善の策。だが、それは、あまりにも多くの、忠実な兵士たちの命を犠牲にしていた。自分の計画は、本当に正しかったのか。彼らを、無駄死にさせただけではなかったのか。激しい罪悪感が、彼の心を焼き尽くす。


だが、感傷に浸っている時間は、一秒たりとも残されていなかった。


包囲の輪は、確実に狭まってきている。ラビエヌスが、勝ち誇った笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。


(――ヒルデ……頼む、間に合ってくれ……!)


ルキウスは、心の中で、遠い北方にいるはずの戦士の名を叫んだ。だが、彼女からの返答はない。帝都の空は、依然として、残酷なまでに青く澄み渡っている。


もはや、賭けるしかない。


最後の、そして、最も非情な、起死回生の一手に。


「ガイウス!陛下を頼む!」


ルキウスは叫ぶと、祭壇に供えられていた、一つの松明を掴み取った。そして、彼は、ためらうことなく、神殿の壁に吊るされた、巨大で、そして豪奢な紫色のカーテンへと、その燃え盛る炎を突き立てた。


「なっ……!若様、何を!」


ガイウスの驚愕の声を背に、炎は、乾ききった布地を、まるで飢えた獣のように、一瞬で飲み込んでいった。


轟、という音と共に、巨大な火柱が、神殿の天井へと駆け上る。黒い煙が、瞬く間に神殿の内部に充満し、人々の悲鳴と、焦げ付く匂いが、混沌をさらに加速させた。


「狂ったか、小僧!」


ラビエヌスが、思わず足を止めて叫ぶ。聖なる神殿を、自らの手で焼くなど、正気の沙汰ではない。


だが、ルキウスにとって、それは狂気ではなかった。


それは、遠い戦友へと送る、血よりも紅い、愛の狼煙だった。


その頃、帝都の城壁から数キロ離れた、森の中。


ヒルデは、愛馬の背の上で、焦燥に駆られながら、静かに帝都の空を見つめていた。彼女の背後には、ゴート族最強の精鋭騎兵、五百騎が、息を殺してその時を待っている。


ルキウスからの密書が届いたのは、十日前のことだった。恋の詩に託された、あまりにも冷徹な、そして悲痛なまでの依頼。彼女は、ゴートの長老たちの猛反対を、自らの指導力で無理やりねじ伏せ、最も信頼できる戦士たちだけを引き連れて、この場所まで不眠不休で駆けつけたのだ。


だが、待てど暮らせど、合図はない。彼の身に、何かがあったのではないか。民の未来を、そして自らの心を預けた男が、今まさに、孤独な戦いの中で命を散らそうとしているのではないか。その不安が、彼女の心を、じりじりと焼き焦がしていた。


その、時だった。


一人の部下が、空の一点を指さして叫んだ。


「ヒルデ様!あれを!」


ヒルデは、弾かれたように顔を上げた。


帝都の、市壁の向こうから、一本の、太く、黒い煙が、まるで天を突く槍のように、まっすぐに立ち上っているのが見えた。


それは、ルキウスが言っていた、合図。


『もし、この都で、天を焦がすほどの狼煙が上がったならば、それが、我が愛の証』


「……馬鹿な男だ。愛の証が、これほど物騒でどうする」


ヒルデは、そう呟くと、その唇に、誇りと、そして愛しさに満ちた、獰猛な笑みを浮かべた。


彼女は、腰の剣を抜き放ち、天へと突き上げた。


「聞け、我が同胞たちよ!我らの友が、我らを呼んでいる!狼の牙を見せる時が来た!あの煙の下へ、続けええええっ!」


地を揺るがすような、五百の雄叫び。そして、雪崩のような、馬蹄の轟音。ゴートの騎兵たちは、森から一斉に飛び出し、帝都の城門へと、一直線に殺到した。


神殿の中では、ルキウスたちの、最後の抵抗が始まっていた。


煙で視界を奪われ、混乱する近衛兵たち。だが、その数はいまだに圧倒的だった。ガイウスは、ついに力尽き、片膝をついた。皇帝は、ルキウスの背後で、ただ震えている。


「終わりだ、小僧」


ラビエヌスが、煙の中から亡霊のように現れ、その剣の切っ先を、ルキウスの喉元に突きつけた。


「貴様の小細工も、ここまでだな」


ルキウスは、激しく咳き込みながら、死を覚悟した。だが、その瞳の光は、最後まで消えてはいなかった。


その、瞬間だった。


遠くから、地響きのような音が、聞こえ始めた。それは、徐々に、しかし確実に近づいてくる。地震か?いや、違う。これは……馬蹄の音だ。それも、一つや二つではない。数百、いや、それ以上の軍馬が、大地を揺るがす音。


ラビエヌスも、その異変に気づき、訝しげに眉をひそめる。


そして、次の瞬間。


神殿の、荘厳な正面の扉が、外側から、凄まじい破壊音と共に、木っ端微塵に吹き飛んだ。


逆光の中、そこに現れたのは、馬上で剣を構え、その金色の髪を炎のように揺らす、一人の女神。


いや、戦乙女ワルキューレだった。


「――ルキウス!約束のものを、届けに来たぞ!」


ヒルデの、雷鳴のような声が、神殿に響き渡る。


彼女の背後から、ゴートの精鋭騎兵たちが、怒涛のように、神殿の中へと雪崩れ込んできた。彼らは、混乱する近衛兵たちを、まるで熟した果実を摘むかのように、次々と蹂躙していく。その戦い方は、ローマ兵のそれとは全く違う。荒々しく、野性的で、そして、圧倒的に強い。


形勢は、一瞬で、完全に逆転した。


「ゴート族……だと……?なぜ、奴らが、帝都に……馬鹿な……」


ラビエヌスは、目の前で起きていることが信じられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。彼の完璧だったはずの計画が、音を立てて崩れ落ちていく。


その、隙を、ルキウスは見逃さなかった。


彼は、ラビエヌスの足元に転がっていた、倒れた兵士の盾を、渾身の力で蹴り上げた。盾の縁が、ラビエヌスの体勢を崩す。


その一瞬で、ルキウスは距離を詰め、懐から、ガイウスが護身用に持たせてくれていた、短いナイフを抜き放っていた。


そして、その冷たい刃を、ラビエヌスの首筋に、ぴたりと当てた。


「……君の負けだ、ラビエヌス」


ルキウスの声は、煙で掠れていたが、そこには、勝者の、絶対的な響きがあった。


「共和制の夢は、どうやら、少しばかり長すぎたようだな」


ラビエヌスは、全身の力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。彼の瞳から、光が消えていた。


勝利の雄叫びを上げるゴートの戦士たち。呆然と立ち尽くす皇帝。そして、血と煙と炎の中で、静かに見つめ合う、ルキウスとヒルデ。


帝都の黒い霧は、まだ完全には晴れていない。だが、その最も暗い中心に、ルキウスは、揺るぎない勝利の楔を、確かに打ち込んだのだった。


その夜、皇帝の私室には、ルキウスと、ヒルデ、そしてガイウスが招かれていた。


若き皇帝ホノリウスは、もはや怯える青年ではなかった。死線を乗り越えた者だけが持つ、静かな威厳と、そして、絶対的な覚悟が、その瞳に宿っていた。


彼は、玉座から降りると、ルキウスの前に進み出た。そして、自らの腰帯に下げられていた、帝国の宰相だけが持つことを許される、象牙と黄金でできた印綬を、静かに解いた。


彼は、その印綬を、ルキウスの前に、恭しく差し出した。


「友よ」


皇帝は、初めて、ルキウスをそう呼んだ。


「そなたは、我が命を、そしてこの帝国を救ってくれた。もはや、言葉での感謝など、意味をなすまい。故に、これを、そなたに託す」


その意味を理解し、ガイウスとヒルデが、息を呑む。


「この帝国を、君に託す。好きに立て直してくれ。思うがままに、君の信じる、新しいローマを、築くがよい」


それは、帝国の全権を、一人の男に委ねるという、前代未聞の宣言だった。


ルキウスは、その重すぎる印綬を、静かに受け取った。


彼は、自分が、もはや歴史の傍観者でも、ただのコンサルタントでもないことを、悟っていた。彼は、この帝国の運命そのものを、その両肩で背負うことになったのだ。


彼は、長年、ただ頭の中だけで構想してきた、壮大な帝国再建計画を、実行に移す時が来たことを、静かに、しかし、はっきりと、悟っていた。


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