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第十四章 皇帝の影


帝都の黒い霧は、その中心にあった巨魁、コルネリウスを失っても、晴れることはなかった。むしろ、光を遮っていた大木が倒れたことで、その根元にさらに深く、そしておぞましい闇が広がっていることを、ルキウスは思い知らされていた。


皇帝ホノリウスの私室には、重い沈黙が満ちていた。若き皇帝は、玉座から降り、今はただ一人の、怯える青年としてルキウスの前に立っている。その瞳には、コルネリウスを断罪した時の、か細い自信の光はなく、再び深い恐怖の色が宿っていた。


「……ルキウスよ。コルネリウスは、終わったはずではなかったのか」


その声は、か細く震えていた。


「陛下。コルネリウスは、巨大な毒蛇の、一つの牙に過ぎませんでした」


ルキウスは、静かに、しかし残酷な真実を告げた。


「彼の汚職を調査する過程で、我々はさらに巨大な陰謀の存在を掴みました。それは、もはや帝国の富を蝕むといった生易しいものではございません。その目的は、ただ一つ」


ルキウスは、一呼吸置いた。


「――皇帝陛下、あなた様の暗殺と、帝位の簒奪にございます」


「なっ……!」


ホノリウスの顔から、血の気が引いた。彼は、よろめき、近くの椅子に縋るようにして座り込む。


「誰が……一体、誰が、そのような大逆を……」


「まだ、黒幕の正体までは掴めておりません。ですが、その計画は、コルネリウスが失脚した今も、水面下で着々と進行しております。敵は、帝国のまさに心臓部に巣食っているのです」


皇帝は、わなわなと震える手で顔を覆った。長年、彼を縛り付けてきたコルネリウスという名の恐怖。その呪縛からようやく逃れられたと思った矢先に、今度は自らの命そのものが狙われているという、さらに巨大な絶望。彼の心は、折れる寸前だった。


ルキウスは、静かにその前に進み出て、片膝をついた。


「陛下。どうか、お心を強くお持ちください。敵が巨大であるならば、我々もまた、影の中で戦うしかございません」


「影……?」


「はい。公式の捜査では、必ず情報が漏れます。敵は、我々が気づかぬうちに、さらに深く潜ってしまうでしょう。私に、陛下直属の、誰にも知られぬ非公式の権限をお与えください。私自身の諜報網を組織し、この帝都に巣食う、見えざる敵を狩り出すのです」


それは、国家の法を逸脱した、危険な提案だった。だが、今のホノリウスには、目の前の、底知れない知識を持つ若者に、全てを託す以外の選択肢はなかった。彼は、まるで溺れる者が藁を掴むように、ルキウスの手を握った。


「……許す。ルキウスよ、余の命も、そしてこの帝国の運命も、全てそなたに託す。余は、そなたの『光』となろう。そなたは、余の『影』として、この帝国の闇を討て」


その瞬間、二人の間に、奇妙で、そして絶対的な共犯関係が成立した。皇帝とその臣下ではない。光と影。表と裏。二人は、一つの身体となって、この巨大な陰謀に立ち向かうことを誓ったのだ。


ルキ-ウスの屋敷は、その日から、帝都の腐敗を暴くための、静かな戦場と化した。


昼間、彼は相変わらず愚鈍な穀物供給監督官を演じ、貴族たちの宴で無意味な笑顔を振りまいていた。だが、夜になると、その仮面は剥がれ落ち、冷徹な司令官の顔が姿を現す。


ガイウスが、夜の闇に紛れて、屋敷に情報を運び込む。それは、シラスが帝都の裏社会に張り巡らせた、蜘蛛の巣のような情報網からもたらされる、生々しい情報の断片だった。


「元老院の重鎮、ガイウス・マミリウス。最近、彼の屋敷に、素性の知れぬガリア人の剣闘士が、頻繁に出入りしているとのことにございます」


「財務官補佐のデキムス。彼の息子が、莫大な借金を抱えており、それを何者かが肩代わりした、という噂が」


「法務官のセルウィウスは、若い頃、属州で犯したある『過ち』を、誰かに握られている様子……」


ルキウスは、それらの情報を、一枚の巨大な羊皮紙の上に、相関図として書き込んでいく。誰が誰と繋がり、誰が誰に弱みを握られ、誰が誰を憎んでいるのか。帝都の権力者たちの、欲望と裏切りに満ちた人間関係が、少しずつ可視化されていく。


「若様。容疑者が、多すぎます」


深夜、ランプの灯りの下で、ガイウスが疲労の滲む声で言った。


「ああ。だが、これでいい。敵は、自分が大勢の仲間の中にいると思い込み、油断するだろう」


ルキウスは、ペンを置くと、新しい羊皮紙を取り出した。そして、ヒルデから教わった、あの恋の詩を書き始める。それは、彼女への想いを綴る甘い言葉のようでいて、その実、冷徹なまでの軍事機密を伝える、暗号だった。


『月のない夜、狼は遠吠えを続ける。東の森の静寂が、狩りの時を告げている。もし、この都で、天を焦がすほどの狼煙が上がったならば、それが、我が愛の証。その時こそ、最速の騎兵を率いて、我が元へ駆けつけて欲しい』


彼は、その密書を厳重に封蝋すると、ガイウスに手渡した。


「これを、シラス殿の最も信頼できる飛脚に。何があっても、ヒルデ殿の元へ」


「はっ。承知いたしました」


ガイウスは、その手紙に込められた、主君の覚悟の重さを感じ取り、深く頭を下げた。


調査は、遅々として進まないように見えた。容疑者たちは、いずれも百戦錬磨の政治家たちだ。決定的な証拠を、誰も残してはいない。


だが、ルキウスは焦らなかった。彼は、膨大な情報の中から、一つの、奇妙なパターンを見出し始めていた。


それは、金の流れだった。


容疑者たちの金の動きは、一見するとバラバラに見える。だが、その金の源流を、シラスの商人ネットワークを使って執拗に遡っていくと、それらが全て、一つの巨大な泉へと繋がっていることが判明したのだ。


その泉の名は――近衛軍団。


皇帝を護る、帝国最強の精鋭部隊。その予算は、元老院の監査さえも受けない、聖域だった。


「……まさか」


その可能性に行き当たった時、ルキウスの背筋を、冷たいものが走り抜けた。近衛軍団は、皇帝の剣であり、盾であるはずだ。その組織が、陰謀の中心にいるなどと、考えられるだろうか。


だが、情報は、無情にもその可能性を指し示していた。


そして、決定的な情報がもたらされたのは、調査開始から一ヶ月が過ぎた、嵐の夜だった。


ガイウスが、ずぶ濡れのまま、ルキウスの寝室に転がり込んできた。その手には、一枚の羊皮紙が握られている。それは、近衛軍団の内部にいる、シラスが金で雇った密告者からもたらされた、極秘の当直記録の写しだった。


「若様……これ、を……」


その記録には、ここ数ヶ月、特定の深夜の時間帯に、ある人物が、誰にも告げずに、単独で兵舎を抜け出していることが、記されていた。そして、その行き先は、いずれも、陰謀の容疑者と目される、元老院議員たちの屋敷だった。


その人物の名を見た瞬間、ルキウスは、自分の呼吸が止まるのを感じた。


ティトゥス・ラビエヌス。


近衛軍団長官。皇帝ホノリウスが、父の代から最も信頼し、その身辺警護の全てを委ねてきた、帝国最高の軍人。その、清廉潔白で、厳格無比な、鉄の男。


彼こそが、この巨大な陰謀の、黒幕だった。


「……なぜだ」


ルキウスは、絞り出すように言った。


「なぜ、彼が……。彼が、陛下を裏切る理由が、どこにある?」


「……一つ、気になる情報が」


ガイウスは、息を整えながら言った。


「ラビエヌス長官の家系は、古く、帝政が始まる前の、共和制の時代からの名門貴族だそうで。彼の祖先は、カエサルに最後まで抵抗し、自決した、筋金入りの共和主義者だった、と。彼は、その血を、深く、そして静かに、受け継いでいるのかもしれません。皇帝という、一人の人間に権力が集中する、この帝政そのものを、憎んでいる、とすれば……」


全てのピースが、恐ろしい形で、一つにはまった。


ラビエヌスの、皇帝への完璧なまでの忠誠心。それは、全て演技だったのだ。彼は、最も信頼される立場を利用し、最も近くで、静かに、そして確実に、皇帝の喉元に牙を突き立てる機会を、何年もの間、待ち続けていたのだ。


コルネリウスの失脚さえも、彼にとっては、計画の一部に過ぎなかった。邪魔な大物を排除し、自分が帝国の実権を握るための、巧妙な布石。


そして、ルキウスは、自分がその布石のために、まんまと利用されていたことに気づき、愕然とした。


「……決行日は、いつだ」


ルキウスの声は、怒りと、そして自分自身への侮蔑で、低く震えていた。


「……三日後、にございます」


ガイウスは、言いにくそうに、しかし、はっきりと告げた。


「三日後、陛下が、古くからの慣習に従い、市壁の外にある、ユピテル神殿へ、単独で参拝なされる日。その日、警護にあたるのは、ラビエヌス長官が選抜した、彼直属の部下たちのみ。これ以上の機会は、ないと……」


三日後。


あまりにも、時間がなさすぎる。


ルキウスの脳裏に、絶望的な戦力差が浮かび上がる。


敵は、近衛軍団。帝国最強の、数千の兵士たち。


対するこちらは、ガイウスが帝都で集めた、信頼できる元兵士、わずか数十名。そして、今から急報を飛ばしても、到底間に合うはずもない、遠く離れたダヌビウスの、ヒルデ率いるゴート騎兵。


「……間に合わない、かもしれない」


ルキウスは、誰に言うともなく、そう呟いた。


窓の外では、嵐が猛り狂い、雨が激しく窓ガラスを叩いていた。まるで、この帝国の、そして自分自身の、絶望的な未来を暗示しているかのように。


ガイウスは、主君の顔に浮かんだ、初めて見る深い絶望の色に、言葉を失った。


だが、ルキウスの瞳の奥で、何かが、静かに、しかし激しく燃え上がっているのを、彼は見逃さなかった。


それは、諦めではなかった。


絶望の淵で、常人ならば思考を停止するような、圧倒的な状況の不利を前にして。彼の頭脳は、常軌を逸した速度で、回転を始めていた。


全ての常識を、全ての定石を、全ての不可能を、ひっくり返すための、起死回生の、唯一の一手を、探して。


その瞳は、もはや人間のそれではない。神々のチェス盤を、冷徹に見下ろす、超越者の光を宿していた。


「……いや」


ルキ-ウスは、静かに首を横に振った。


「間に合わせるんだ。この俺が」


その声は、嵐の轟音にもかき消されない、絶対的な意志の力に満ちていた。

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