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第十三章 歴史の知識、毒か薬か


帝都コンスタンティノポリスの元老院議場は、澱んだ空気と、大理石の柱が放つ冷たい威圧感に満ちていた。数百年の歴史を持つこの場所は、かつて帝国を導いた偉人たちの声ではなく、今は己の利権を守ろうとする老人たちの、粘りつくような囁き声が染み付いている。


その中央で、クィントゥス・ファビウス・コルネリウスの朗々とした声が響き渡っていた。


「――故に、陛下!そして元老院の賢明なる諸氏よ!今こそ、我らローマの威光を、北方の蛮族どもに改めて示すべき時であります!ダキア属州の北方に巣食う、傲慢なるアラマンニ族に対し、懲罰の鉄槌を下すのです!」


彼の演説は、巧みだった。愛国心を煽り、過去の栄光を語り、敵の脅威を誇張する。彼の派閥に属する議員たちは、待ってましたとばかりに同調の声を上げ、議場は主戦論一色に染まりつつあった。


玉座に座る若き皇帝ホノリウスは、その勢いに気圧されたように、ただ困惑した表情で議場を見渡している。彼の隣に立つルキウスは、その光景を、冷たい無表情のまま見つめていた。


(――アラマンニ族への遠征。来たか)


彼の脳裏には、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の一節が、焼き付くように浮かび上がっていた。この遠征は、史実ではローマ軍が敵の巧妙な罠にはまり、屈辱的な大敗を喫する、愚かな戦いのはずだった。そして、コルネリウスがこれほど強硬にこの遠征を主張する理由は、シラスの情報網によって、すでに見抜いている。彼は、アラマンニ族と裏で密通し、武器を横流しする見返りに、莫大な賄賂を受け取っていた。彼は、この戦いでローマ軍が適度に消耗し、国境の緊張が続くことを望んでいるのだ。


「異議のある者は、おるか」


コルネリウスが、勝ち誇ったように議場を見回す。誰もが沈黙していた。この流れに逆らうことは、元老院の重鎮である彼に逆らうことと同義だったからだ。


その、完全な沈黙を破って。


「――異議、ございます」


静かだが、凛としてよく通る声が、議場に響いた。


全ての視線が、声の主へと注がれる。そこに立っていたのは、誰もが「お飾りの人形」と侮っていた、穀物供給監督官、ルキウス・ウァレリウス・コルウスだった。


議場が、嘲笑と侮蔑のさざ波で揺れた。コルネリウスは、眉をひそめ、心底迷惑そうな顔で言った。


「……これは、ルキウス殿。貴殿のような、辺境の軍事の専門家が、何かご意見でも?」


その言葉には、「お前のような若造に何が分かる」という、あからさまな侮りが込められていた。


「専門家などではございません。ですが」


ルキウスは、ゆっくりと前に進み出た。彼の足音だけが、やけに大きく響く。


「コルネリウス殿の作戦には、看過できぬ、いくつかの致命的な欠陥がございます」


彼は、よどみなく語り始めた。アラマンニ族が住む、黒い森の地形。彼らが得意とする、ゲリラ戦術。そして、ローマ軍の重装歩兵が、その森の中でいかに無力であるか。彼の説明は、まるで実際にその戦場で戦ってきたかのように、具体的で、そして説得力に満ちていた。


「……故に、この遠征は、ただ兵士たちの血を無駄に流すだけの、無謀な賭けにございます。もし実行されれば、我が帝国軍は、必ずや、敵の待ち伏せに遭い、壊滅的な打撃を受けるでしょう。それは、もはや戦ではなく、一方的な虐殺と呼ばざるを得ない結果を招きます」


彼の言葉は、予言のように、断定的だった。


議場は、水を打ったように静まり返っていた。だが、それは感心によるものではない。あまりにも不吉で、そして傲慢な物言いに対する、不快感に満ちた沈黙だった。


「……若造が」


コルネリウスが、吐き捨てるように言った。


「貴殿は、帝国の兵士たちの勇気を侮辱するか。我らがローマの軍団が、蛮族の小細工に遅れを取るとでも?その根拠のない予言で、陛下の偉大なる決断を惑わすことこそ、帝国への反逆ではないのか!」


「そうだ!」「不敬であるぞ!」「若気の至りも甚だしい!」


コルネリウスの言葉を皮切りに、議員たちから一斉に非難の声が上がる。ルキウスは、完全に孤立していた。


彼は、玉座の皇帝へと視線を向けた。皇帝は、ただ狼狽え、視線を泳がせるばかりだった。彼に、この巨大な同調圧力に逆らう力はない。


(――分かっていたさ。言葉だけでは、何も変わらない)


ルキウスは、内心で静かに呟いた。だが、これでいい。これで、全ての駒は、盤上に配置された。


結局、遠征は、コルネリウスの原案通りに承認された。ルキウスの反対は、若者の無知な戯言として、一笑に付された。彼は、嘲笑の渦の中、誰にも気づかれぬよう、静かに議場を後にした。


その夜、ルキウスの屋敷から、二つの影が、闇に紛れて滑り出した。


一人は、ガイウス。彼は、シラスの隊商に紛れ込み、ヒルデへと宛てた密書を運ぶ。そこには、恋の詩の形を借りた、冷徹な命令が記されていた。


『狼よ、月の影より出でよ。東の森、狩りの時は近い。獲物は、アラマンニ。背後を突け』


そして、もう一つの影は、ルキウス自身だった。彼は、ガイウスが用意した目立たない馬車に乗り、厳重な警備の敷かれた皇宮へと向かっていた。皇帝への、単独拝謁を求めたのだ。


皇帝の私室は、その地位に似合わぬほど、簡素で、そして孤独な空気が漂っていた。若きホノリウスは、ルキウスを前に、ただ不安げに唇を噛んでいる。


「……ルキウスよ。今日の議会での、そなたの発言。あまりに、軽率であったぞ。コルネリウス殿を、敵に回すべきではなかった」


「陛下。私は、真実を申し上げたまで」


ルキウスは、皇帝の前に跪くと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、コルネリウスが、アラマンニ族に武器を密売していたことを示す、動かぬ証拠の写しだった。


「なっ……!これは……」


皇帝は、その内容を見て、絶句した。その顔から、血の気が引いていく。


「コルネリウス殿は、帝国の敵と密通し、私腹を肥やしております。彼が、あれほどまでに遠征を主張したのは、国境の緊張を高め、さらなる武器密売の機会をうかがうため。彼は、ローマの兵士たちの血で、己の金貨を鋳造しようとしているのです」


「……信じられぬ。彼は、先帝の代からの、忠臣……」


「ならば、陛下。一つ、賭けをなさいませ」


ルキウスは、皇帝の目を、まっすぐに見つめた。


「もし、遠征軍が勝利を収めたならば、この書状は、私の妄言の証として、お焼き捨て下さい。そして、私を、反逆者としてお裁きください。ですが……もし、万が一にも、私の予言通り、遠征軍が敗北したならば……その時こそ、この書状に記された真実と、私の言葉の、どちらを信じるべきか、ご判断いただきたいのです」


それは、悪魔の囁きにも似た、甘美で、そして危険な提案だった。皇帝は、震える手で、その羊皮紙を受け取った。彼の心の中に、ルキウスが植え付けた疑念の種は、深く、そして確実に、その根を張り始めていた。


運命の歯車は、回り始めた。


数週間後。帝都は、遠征軍の勝利を祝う準備に沸いていた。コルネリウスは、連日連夜、祝勝の宴を開き、自らの先見の明を誇示していた。ルキウスは、そんな帝都の喧騒から隔絶されたように、ただ静かに、北からの凶報を待っていた。


そして、その日は、突然やってきた。


一騎の伝令使が、泥と血にまみれた姿で、皇宮の門に転がり込んできたのだ。その報告は、帝都の熱狂を、一瞬にして氷点下の絶望へと叩き落とした。


――遠征軍、壊滅。


黒い森の奥深くで、巧妙な待ち伏せに遭い、兵士の十中八九が死傷。司令官は戦死。帝国の象徴である鷲の軍旗さえもが、蛮族の手に渡った、と。


その報を聞いた時、ルキウスは、自室で一人、地図を見つめていた。勝利を確信していたはずの彼の顔に、しかし、喜びの色はなかった。


(……おかしい)


報告された、敵の戦術。それは、ルキウスの知る史実よりも、遥かに巧妙で、そして大規模だった。まるで、ローマ軍の動きを、完全に予測していたかのような、完璧な罠。そして、ローマ軍の被害も、彼の知る歴史の、数倍に達している。


(俺の行動が、歴史を変えたのか?それとも……この世界は、元々、俺の知る歴史とは、微妙に違うのか……?)


その、答えの出ない問いが、彼の心に、初めて、本当の意味での「恐怖」の影を落とした。この世界は、自分の知識という攻略本通りには進まない、生きた、そして予測不能な場所なのかもしれない。


帝都は、パニックに陥った。市民は、蛮族の脅威に怯え、元老院は、責任のなすりつけ合いで醜い罵詈雑言を飛ばし合っていた。


その混乱の頂点で、皇帝ホノリウスが、動いた。


彼は、ルキウスの密告と、現実の破局が、恐ろしいまでに一致したことに、もはや疑いの目を向けることはできなかった。彼は、自らの意志で、元老院の緊急会議を招集した。


再び、あの重苦しい議場。だが、今回は、以前とは空気が全く違っていた。敗戦の責任を追及されることを恐れる議員たちの、怯えた視線が交錯している。その視線の全てが、ただ一人、静かに佇むルキウスと、そして、顔面蒼白で震えているコルネリウスに、突き刺さっていた。


玉座の皇帝が、震える声で、しかし、はっきりとした意志を持って、口を開いた。


「……ルキウス・ウァレリウス・コルウスよ。前に」


ルキウスは、静かに進み出た。


「そなたは、この結果を、予見していた。そして、その理由もまた、余に示してくれた。今こそ、それを、ここにいる全ての者の前で、明らかにするがよい」


ルキウスは、皇帝に一礼すると、議場全体に響き渡る声で、コルネリウスの罪状を、一つ、また一つと、暴き始めた。武器の密売、敵との密通、そして、自らの利益のために、数万のローマ兵士を、死地へと追いやった、国家への裏切り。


その告発は、シラスが収集した、動かぬ証拠によって裏付けられていた。


「嘘だ!全ては、この若造の、根も葉もない讒言だ!」


コルネリウスは、最後の抵抗を試みた。だが、その声には、もはや何の力もなかった。彼の派閥の議員たちも、次々と彼を見限り、保身のためにルキウス側へと寝返っていく。


かつて、議場を支配した絶対的な権力者は、今や、誰からも見捨てられた、ただの哀れな老人だった。


「……捕らえよ」


皇帝の、冷たい声が響く。衛兵たちが、崩れ落ちるコルネリウスの両腕を掴んだ。彼の政治生命が、そして、おそらくは肉体的な生命もまた、完全に終わった瞬間だった。


その夜、ルキウスは、再び皇帝の私室に呼ばれた。


部屋には、二人きりだった。若き皇帝は、玉座から降り、一人の人間として、ルキウスの前に立っていた。その瞳には、もう以前のような怯えや諦めはない。代わりに、畏怖と、そして、計り知れない何かへの好奇が、複雑な光となって宿っていた。


「……ルキウスよ」


皇帝は、絞り出すように言った。


「余は、そなたが怖い。そなたは、未来が見えるのか?それとも、神々の声を、聞くことができるのか?教えてくれ。そなたは、一体、何者なのだ?」


それは、この世界の人間が、彼に対して抱く、最も根源的な問いだった。


ルキウスは、静かに皇帝の前に跪いた。そして、深く頭を垂れたまま、答えた。


「私は、未来が見えるわけではございません。神々の声も、聞こえませぬ」


彼は、顔を上げた。その青い瞳は、どこまでも澄み切っていた。


「私は、ただ、誰よりもこの帝国を憂い、その歴史を学び、その行く末を案じている、陛下の一人の臣下に、過ぎませぬ」


その答えが、嘘ではないことを、しかし、真実の全てでもないことを、皇帝は感じ取っていた。だが、彼は、それ以上は問わなかった。


ただ、目の前の、底知れない知識と、揺るぎない意志を持つ若者が、今や、この傾きかけた帝国にとって、唯一の希望であることを、彼は確信していた。


皇帝の、ルキウスを見る目が、変わった。それは、もはや臣下を見る目ではない。師を、あるいは、自らの運命そのものを見るような、絶対的な信頼の光だった。


帝都の黒い霧は、まだ晴れてはいない。だが、その濃霧の奥深くに、ルキウスは、確かな権力への道を、切り開いたのだった。

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