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第十二章 帝都の黒い霧


ダヌビウスの岸辺に吹く風は、もう冬の匂いを帯びていた。それは、これから始まる長い別離の季節を告げているかのようだった。


「……本当に、一人で行くのか」


ヒルデの声は、低く、そして硬かった。その青い瞳は、旅支度を終えたルキウスの姿を、不安と、そしてわずかな怒りの色を浮かべて見つめている。彼女の隣では、ガイウスが苦虫を噛み潰したような顔で腕を組んでいた。


「ああ。これは、俺一人の問題だ。君たちを巻き込むわけにはいかない」


ルキウスは、できるだけ穏やかな声で答えた。帝都への召喚。それは、栄誉の衣をまとった、毒蛇の牙だ。これから始まるのは、剣と盾が意味をなさない、影と嘘が渦巻く戦場。そこに、あまりにも実直なガイウスや、戦士として生きるヒルデを連れて行くことは、彼らを無意味な危険に晒すだけだと、彼は判断した。


「馬鹿を言うな。お前は、我らの指導者だ。指導者の戦いは、我ら民の戦いだ」


「違う、ヒルデ。今の俺は、ゴートの民の指導者ではない。ローマ帝国の、一人の貴族だ。そして、帝国の法の下で、帝都へ向かう」


その言葉に、ヒルデは唇を噛んだ。彼女には、ルキウスの言葉の裏にある、彼なりの覚悟と、自分たちを守ろうとする意志が痛いほど分かっていた。だからこそ、何も言えなかった。


「ガイウス殿」


ルキウスは、忠実なる腹心に向き直った。


「あなたには、ここに残ってもらう。俺が築いたこの場所を、ヒルデ殿と共に守って欲しい。俺が戻るまで、いや、俺が戻れなかった時のために。あなた以上に、この任を託せる者はいない」


「若様……」


ガイウスは、何かを言いかけたが、ルキウスの真摯な瞳を見て、その言葉を飲み込んだ。そして、無言で、しかし力強く頷いた。それは、言葉以上の、絶対的な忠誠の誓いだった。


「……分かった」


最後に、ヒルデが折れた。彼女は、ふいと顔を背けると、懐から一枚の、古びた羊皮紙を取り出した。


「ならば、これを。ゴートに古くから伝わる、恋の詩だ。他愛のない、月と狼の物語。だが、この詩の各節の最初の文字を拾い、逆から読むと、別の意味が浮かび上がる。我らだけが知る、秘密の言葉だ」


それは、あまりにも精巧で、そしてロマンチックな暗号だった。


「もし、何かを伝えたい時は、この詩の形を借りて、商人に文を託せ。帝都とこの地を行き来する、シラス殿の隊商ならば、必ず届くはずだ」


「……礼を言う」


ルキウスは、その羊皮紙を、まるで聖遺物のように、大切に懐にしまった。


別れの時が来た。彼は、二人にも、そして集まったゴートの民にも背を向け、馬上の人となった。振り返ることは、しなかった。振り返れば、決意が鈍ることを知っていたからだ。


ただ、手の中にある、ヒルデから贈られた狼の牙のお守りを、強く握りしめた。その温もりだけが、これから始まる孤独な戦いの中で、唯一の支えとなることを、予感しながら。


帝都コンスタンティノポリスは、ルキウスが想像していた以上に、巨大で、そして冷たい都だった。


大理石の列柱が天を突き、黄金のモザイクが陽光を反射して輝く。その壮麗さは、人の手によるものとは思えないほど、圧倒的だった。だが、その美しさには、どこか生命の温もりが欠けていた。道行く人々の顔は、誰もが能面のように無表情で、その瞳は、他者への無関心と、己の地位を守ることへの渇望だけで濁っている。


ルキウスは、皇帝フラウィウス・ホノリウス・アウグストゥスに拝謁した。


玉座に座る若き皇帝は、その紫の衣がまるで借り物のように似合っておらず、その瞳には、巨大な帝国の重圧に押し潰されそうな、深い疲労と諦めの色が浮かんでいた。彼は、ルキウスの功績を、用意された原稿を読むかのように淡々と賞賛したが、その声には何の力もこもっていなかった。


そして、その玉座の傍らには、一人の男が、まるで皇帝の影であるかのように、ぴたりと寄り添っていた。


クィントゥス・ファビウス・コルネリウス。


元老院の重鎮にして、この帝都の腐敗の、まさに中心にいる男。美食で肥え太った体躯に、純白のトーガ。その計算高い冷たい目が、値踏みするように、ルキウスの全身を舐め回す。


「おお、これがかの有名なルキウス殿か。辺境でのご活躍、このコルネリウスも聞き及んでおりますぞ。長旅、さぞお疲れでしょう。陛下も、貴殿のその類まれなる才を、帝国の枢要でこそ活かすべきだと、お考えなのだ」


その声は、蜂蜜のように甘く、そして粘りついていた。ルキウスは、その言葉の裏にある、鋭い棘をはっきりと感じ取っていた。


皇帝は、ルキウスに帝都での新しい役職を与えた。「穀物供給監督官」。帝都の民の食を司る、一見すれば非常に重要な役職だ。そして、その職務にふさわしい、壮麗な屋敷も与えられた。


だが、その全てが、巧妙に仕組まれた罠であることに、ルキウスはすぐに気づいた。


与えられた屋敷は、壮麗ではあったが、まるで金箔で飾られた鳥籠だった。召使いたちは、皆、コルネリウスが送り込んだ彼の息のかかった者たちで、その一挙手一投足は、常に監視されていた。


穀物供給監督官という役職も、実態は名誉職に過ぎなかった。穀物の輸入から配給までの実権は、全てコルネリウスの派閥が握っており、ルキウスには、ただ判を押すだけの、何の権限も与えられていなかった。


彼は、帝都の民からその名声を隔離され、政治の中枢から完全に排除され、ただ無力なまま、その才能を飼い殺しにされようとしていた。


「……なるほど。実に、分かりやすい」


豪華な寝室で、一人になったルキウスは、冷たく笑った。敵の狙いは、あまりにも明白だった。ならば、こちらも、それに相応しいやり方で応じるまでだ。


その日から、ルキウスの、完璧なまでの「演技」が始まった。


彼は、愚かで、無能で、政治に興味のない、辺境上がりの若様を演じきった。


昼間は、与えられた権限のない執務室にはほとんど顔を出さず、帝都見物と称して、闘技場や公衆浴場に入り浸った。夜は、コルネリウスが主催する貴族たちの宴に毎夜のように顔を出し、勧められるままに高級なワインを飲み、美しい踊り子を褒めそやし、何の害もない世間話に興じた。


最初は警戒していたコルネリウスたちも、そんなルキウスの姿を見て、次第にその警戒を解いていった。


「なんだ、ただの幸運に恵まれただけの、田舎者ではないか」


「蛮族を手なずけたというのも、まぐれだったのだろう」


「所詮、若造は若造よ。酒と女を与えておけば、牙などすぐに抜け落ちるわ」


監視の目は、徐々に緩んでいった。召使いたちの報告も、日に日に惰性的なものになっていく。ルキウスは、もはや彼らにとって、脅威ではなく、ただの「お飾りの人形」と化していた。


だが、その水面下で。


ルキウスの、静かで、そして冷徹な反撃計画は、着々と進行していた。


彼の唯一の誤算は、ガイウスを伴わずに帝都に来てしまったことだった。この鳥籠の中では、彼自身が動くことはできない。信頼できる手足が、どうしても必要だった。


彼は、ヒルデから教わった暗号を使い、シラスの隊商に、短い手紙を託した。


『狼は、月のない夜を好む。古き友を、東の空へ』


それは、ガイウスを帝都へ呼び寄せるための、暗号だった。


数週間後。


ルキウスの屋敷に、一人の男が、新しい召使いとして雇われた。年の頃は五十代。無口で、目立たない、どこにでもいるような初老の男。だが、その目には、長年の軍務で培われた、鋼のような光が宿っていた。変装した、ガイウスだった。


再会を喜ぶ暇もなく、二人は、その夜、密かに主従の誓いを新たにした。


「若様、おやつれになりましたな。帝都の水は、どうにもお身体に合わぬと見える」


「冗談を言え、ガイウス。最高の酒と料理で、少し太ったくらいだ」


軽口を叩き合いながらも、二人の目には、同じ戦場に立つ者の、鋭い光が宿っていた。


「シラス殿には、連絡がついたのか?」


「はっ。あの方の力は、我らの想像以上です。この帝都の裏社会にも、蜘蛛の巣のような情報網を張り巡らせておりました。今や、コルネリウスがどの娼婦の館に通っているかまで、我らの耳に入ります」


「上出来だ」


ルキウスは、満足げに頷いた。


「では、戦争を始めよう。最初の標的は、コルネリウスの金脈だ。奴が、どこから不正な富を得ているのか。金の流れを、徹底的に洗え。奴の息の根を止めるのは、剣ではない。奴自身が愛してやまない、金そのものだ」


ガイウスは、連絡役として、夜の闇に紛れてシラスの密偵たちと接触を繰り返した。帝都の裏通りで、酒場の片隅で、膨大な情報が、少しずつ、しかし確実に、ルキウスの元へと集積されていく。


それは、帝国の腐敗を象徴する、おぞましい絵図だった。属州からの税金の横領、軍事物資の横流し、公共事業を巡る談合。コルネリウスは、帝国の血を吸う巨大な蛭として、その富を築き上げていたのだ。


そして、監視生活が始まって一ヶ月が過ぎた、ある夜。


ガイウスが、いつになく興奮した様子で、ルキウスの寝室に滑り込んできた。


「若様、掴みましたぞ。奴の、最大の金脈を」


彼が広げた羊皮紙には、一隻の巨大な船の積荷目録が記されていた。表向きは、エジプトから帝都へ穀物を運ぶ、ただの輸送船。だが、その船倉の奥深くには、公式の記録にはない、もう一つの積荷が隠されていた。


それは、帝国が北方の蛮族との緩衝地帯に住む同盟部族へ、友好の証として送っているはずの、大量の武器――剣、槍、そして鎧だった。


「……なるほどな」


ルキウスは、その目録を見ながら、全てのピースが繋がるのを、感じていた。


コルネリウスは、帝国が友好の証として送る武器を横流しし、あろうことか、その武器を、帝国の敵である別の蛮族に、高値で売りさばいていたのだ。彼は、自ら国境の火種を煽り、その緊張を利用して、莫大な利益を得ていた。それは、もはや単なる汚職ではない。国家に対する、明確な反逆行為だった。


「船は、三日後に帝都の港に着く、と」


「はっ。荷揚げの後、武器は秘密裏に別の船に積み替えられ、黒海へと運ばれる手筈にございます」


「……そうか」


ルキウスは、静かに立ち上がると、窓の外に広がる、帝都の夜景を見つめた。無数の灯りが、まるで宝石のようにきらめいている。だが、その輝きは、この都の腐敗と、人々の欲望が放つ、偽りの光に過ぎない。


「ガイウス」


「はっ」


「ショータイムの始まりだ。観客は、皇帝陛下と、元老院の全ての議員。そして、主役は、もちろん我らがコルネリウス殿だ」


ルキウスの口元に、久しぶりに、心の底からの、不敵な笑みが浮かんでいた。それは、鳥籠の中の無力な若様のものではなく、巨大な獲物の喉笛に、今まさに食らいつこうとする、冷徹な狩人の笑みだった。

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