第十章 約束の代償
歴史とは、常に同じ轍を踏もうとする巨大な慣性だ。ルキウスは、その見えざる力の重さを、身をもって感じていた。
ラティアリアの腐敗官僚を断罪した時、彼は自分が歴史の流れに逆らう、確かな手応えを感じた。だが、ここダヌビウス川の岸辺では、あの時とは比較にならないほど、巨大で、そして愚かな歴史の慣性が、彼に牙を剥いていた。
「総督閣下、申し上げにくいのですが、輸送用の船が不足しておりましてな。対岸の蛮族どもに食料を届けるのは、今しばらくお待ちいただかねば」
司令官ペトロニウスは、心にもない謝罪の言葉を、にやにやと笑いながら口にした。彼の背後では、兵士たちが川岸に並べられた船を、賭けの的にして遊んでいる。船が足りないのではない。動かす人間が、足りないのだ。いや、動かす気がないのだ。
「では、荷馬車の手配は?陸路で運ぶ準備は進んでいるのか」
ルキウスの冷たい問いに、ペトロニウスはわざとらしく肩をすくめた。
「いやはや、それも難しく。街道の警備に兵を割かねばならず、とてもとても。それに、閣下。奴らに食料を与えれば、力をつけた奴らが何をしでかすか分かりませんぞ。飢えさせて、無力化するのが、最も安上がりな国防というものです」
その言葉は、史実でゴート族の反乱の引き金を引いた、あの悪名高き将軍の言葉と、一字一句違わなかった。彼らは、私腹を肥やすために、意図的にゴート族への食料供給を滞らせているのだ。帝国から送られてきた支援物資は、彼らの手によって横流しされ、闇市場で高値で取引されている。その事実を、ルキウスはガイウスの調査で掴んでいた。
腐敗は、伝染病よりも早く、そして確実に、帝国という巨体を蝕んでいた。
日を追うごとに、対岸のゴート族の野営地から聞こえてくるざわめきは、不穏な響きを増していった。飢えは、誇り高い戦士たちから理性を奪い、その瞳に、じりじりとした焦りと、ローマ人への憎悪を育てていた。
そして、約束の日から五日が過ぎた嵐の前の静けさのような夜。ルキウスの天幕の入り口に、一つの影が立った。
ヒルデだった。
彼女は、数日前の中州での会談の時とは、まるで別人のように、その全身から刺々しい気を放っていた。その美しい顔は怒りに引き締まり、氷河のように冷たかったはずの青い瞳は、燃えるような激情の色を宿していた。
「話がある」
彼女は、護衛のガイウスの制止を、ただ一瞥しただけで黙らせると、天幕の中へとずかずかと入ってきた。
「……やはり、お前も同じだったか、ルキウス」
その声は、失望と、裏切られた者だけが持つ、深い悲しみに満ちていた。
「お前の言葉を、ほんの少しだけ、信じようとした私が愚かだった。お前たちローマ人は、皆、同じだ。約束を、まるで道端の石ころのように、平気で踏みにじる」
彼女の言葉が、鋭い氷の刃となってルキウスの胸を抉る。
「私の民が、飢えている。子供たちが、母親の干からびた乳房にしゃぶりついている。老人たちは、もう動く力もなく、静かに死を待っている。これが、お前の言った『平和な暮らし』か?これが、お前の言う『約束』の、正体か!」
ルキウスは、何も答えなかった。弁明の言葉は、いくらでもあった。妨害しているのは自分ではなく、腐敗した軍の将校たちなのだと。自分は、今まさに彼らと戦っている最中なのだと。
だが、そんな言葉に、何の意味がある?
彼女にとって、ローマ人は皆、同じだ。ルキウスも、ペトロニウスも、同じ「裏切り者」の顔をしている。そして、彼女の民が飢えているという事実の前では、どんな言い訳も、空虚に響くだけだった。
「……裏切り者」
ヒルデは、吐き捨てるように言った。その瞳から、一筋の涙が、頬を伝って流れ落ちた。それは、怒りの涙ではなかった。自分の無力さと、民の苦しみを思う、指導者としての、悔し涙だった。
「もう、お前たちの言葉は信じない。我々は、我々のやり方で、食料を手に入れる。力ずくで、お前たちの喉笛を食い破ってでもな」
彼女はそれだけを言うと、踵を返した。その小さな背中が、数十万の民の運命を背負い、絶望的な戦いへと向かおうとしている。
その背中に、ルキウスは、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「あと、三日だけ待ってくれ」
ヒルデの足が、ぴたりと止まった。
「……まだ、戯言を続けるか」
「三日後、もし食料が届かなければ、お前たちの好きにしろ。俺の首を、お前の民への手土産にくれてやる」
ヒルデは、振り返らなかった。ただ、その肩が、わずかに震えているのが見えた。やがて、彼女は何も言わずに、闇の中へと消えていった。
天幕に、重い沈黙が落ちる。
「若様……」
ガイウスが、心配そうに声をかけた。
「本気ですかい?三日などと……」
「ああ、本気だ」
ルキウスの瞳には、もう迷いはなかった。
「正規のルートがダメなら、俺たち自身で、道を作るしかない」
彼は、一枚の羊皮紙を取り出すと、震える手で、しかし、迷いのない筆致で、短い手紙を書き始めた。宛先は、ラティアリアのシラス。そして、もう一通は、故郷の領地で待つ、ダグへ。
「ガイウス殿。あなたの部下の中から、最も信頼でき、最も腕の立つ者を、二人選んで欲しい。一人はラティアリアへ。もう一人は、我々の領地へ。この手紙を、命に代えても届けてもらう」
その夜、二騎の密使が、闇に紛れてローマ軍の野営地を抜け出し、それぞれの目的地へと、死に物狂いで馬を駆った。
ルキウスの賭けが、始まった。それは、帝国の命令系統を完全に無視し、属州総督の権限を遥かに逸脱した、反逆行為にも等しい独断だった。失敗すれば、彼の首が飛ぶだけでは済まない。帝国とゴート族の間に、取り返しのつかない戦争の火種を撒くことになる。
最初の二日間は、地獄のような沈黙の中で過ぎていった。
対岸のゴート族の野営地は、不気味なほど静まり返っていた。それは、嵐の前の静けさ。彼らが、最後の決断を下す時が、刻一刻と迫っていることを示していた。
ルキウスは、眠ることも、食事を摂ることも忘れ、ただひたすらに、地図と睨み合いながら、その時を待っていた。
そして、約束の三日目の夜。
闇に包まれたダヌビウス川の岸辺で、一つの奇跡が起きた。
どこからともなく、数十艘の小舟が、音も立てずに川面を滑るように現れたのだ。その舟には、小麦や干し肉、塩、そして薬草の入った袋が、山のように積まれている。舟を操っているのは、いずれも屈強な、しかし見慣れない顔つきの男たちだった。
「……来たか」
闇の中で、ルキウスは静かに呟いた。
ラティアリアから駆けつけたシラスの部下たちが、ルキウスの「領地手形」の絶大な信用を使い、国境近くの商人たちから、ありったけの物資を買い占めたのだ。そして、故郷から駆けつけたダグの部下たちが、彼らの持つ土地勘と、夜陰に紛れて行動する能力を活かし、ローマ軍の監視網を潜り抜け、この場所まで物資を運び込んできた。
それは、ルキウスが辺境で築いた、民族を超えた信頼関係と、ラティアリアで創造した、新しい経済システムが、初めて一つの目的のために連動した瞬間だった。
「ガイウス殿、頼む」
「はっ!」
ガイウスの指揮の下、輸送作戦が開始された。彼の元兵士たちと、ダグの戦士たちが、見事な連携で、次々と物資を対岸へと運び始める。
その光景を、ペトロニウスの部下たちも、呆然と見ているだけだった。彼らは、ルキウスがこれほど大胆な、そして大規模な独自の輸送作戦を実行するなど、夢にも思っていなかったのだ。彼らの主君であるペトロニウスは、今頃、いつものように酒宴で酔い潰れていることだろう。
夜明け前、全ての物資が、ゴート族の野営地へと運び込まれた。
飢えに苦しんでいた人々から、信じられないものを見たかのような、歓喜の雄叫びが上がる。その声は、夜明けの空気を震わせ、ローマ軍の野営地まで響き渡った。
ルキウスは、対岸の喧騒を、静かに聞いていた。
その時、背後に人の気配がした。振り返ると、そこにヒルデが立っていた。彼女は、小舟で一人、こちら岸まで渡ってきたのだ。
その顔には、もう怒りも、悲しみもなかった。ただ、深い、深い困惑と、そして、生まれて初めて何かを信じようとしているかのような、戸惑いの色が浮かんでいた。
彼女は、ルキウスの前に進み出ると、何の言葉もなく、深く、深く、その頭を下げた。それは、誇り高いゴートの戦士が、誰かに見せることなど、決してないはずの姿だった。
「……私が、間違っていた」
ようやく絞り出した声は、夜風に震えていた。
「私は、お前を、お前たちローマ人を、何も分かっていなかった。すまない……。この借りは、必ず、我が民の血をもって返すことを誓う」
「顔を上げてくれ、ヒルデ」
ルキウスの声は、穏やかだった。
「これは、貸し借りではない。未来への、投資だ」
ヒルデが顔を上げた時、その青い瞳は、夜明けの光を映して、澄み切った輝きを取り戻していた。その瞳には、もうルキウスへの疑いはなかった。そこにあるのは、一人の人間に対する、揺るぎない信頼の光だった。
二人の間に、初めて、本当の意味での橋が架かった瞬間だった。
「……ルキウス」
ヒルデは、不意に空を見上げた。その表情が、わずかに曇る。
「川が、怒っている。風の匂いが、変わった」
「どういうことだ?」
「祖霊の声が、聞こえるのだ。三日後、空の狼が、その牙を剥くだろう、と。この川が、氾濫するほどの、大嵐が来る」
彼女の言葉は、予言というよりも、まるで見てきたかのような、確信に満ちていた。
ルキウスは、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。詩的な、彼女の民族特有の比喩表現だろうか。だが、彼の目を見つめるヒルデの瞳は、冗談を言っているようには、到底見えなかった。その瞳の奥に、彼は、自分の合理的な思考では計り知れない、何か根源的な、世界の真実の一端を、垣間見たような気がした。
数日後、ヒルデの予言通りに、帝国北部を未曾有の大嵐が襲い、ダヌビウス川は氾濫し、準備の遅れていたペトロニウスの軍勢に、甚大な被害をもたらすことになる。
だが、その時、ルキウスの部隊と、ゴートの民は、既に高台への避難を完了していた。
ルキウスは、荒れ狂う川を見下ろしながら、隣に立つヒルデの横顔を盗み見た。
この世界は、俺の知る歴史と、99%は同じだ。だが、残りの1%に、俺の知らない、そして計り知れない何かが、隠されている。
その予感が、確信へと変わるまで、あと少しの時間が必要なことを、まだ彼は知らなかった。




