第一章 転生、それは絶望の始まり
しがない日本の歴史オタク、気づけばそこは滅亡寸前のローマ帝国だった!
転生したのは、貧乏貴族の三男坊「ルキウス」。領地は痩せ、民は飢え、重税と蛮族の脅威に怯える日々。まさに歴史書で読んだ、帝国が衰亡へと転がり落ちていく、あの時代。剣も魔法も使えない、体力もない。あるのは、しがない現代日本で培った「歴史知識」と、オタクならではの「システム思考」だけ。
「詰んでる?いや、違う。これは最高の歴史IFシミュレーションだ!」
絶望的な状況を前に、彼のオタク魂に火がついた。
これは、一人の歴史オタクが、剣や魔法ではなく「知識」で無双し、滅びゆく帝国を救い、誇り高き蛮族の姫と恋に落ち、やがて歴史の裏で帝国を操る最高のコンサルタントへと成り上がっていく、知的爽快・歴史ファンタジー戦記である。
意識は、黴と湿った石の匂いの中で覚醒した。
ずしりと重い頭を動かすと、視界に映ったのは、蜘蛛の巣が張った薄暗い石造りの天井だった。背中に感じるのは、干し草を詰めたマットレスの、ごわごわとした不快な感触。これは、俺が知っているワンルームマンションの、低反発ベッドの感触とは似ても似つかない。
「……どこだ、ここ」
掠れた声が、自分の喉から漏れた。だが、その声質すら、聞き覚えのない、やけに高いテノールの響きを持っていた。混乱のままに身体を起こそうとして、俺は二度目の驚愕に襲われる。手足が、異常に細く、そして白い。見慣れた自分の、キーボードを叩くことしか能のない、少しばかり締まりのない身体ではなかった。
何が起きている? 昨夜は確か、大学の研究室で修士論文の最終チェックをしていたはずだ。エドワード・ギボン著、『ローマ帝国衰亡史』。その貨幣経済の崩壊が社会構造に与えた影響についての考察。カフェインと疲労で朦朧としながら、明け方にようやく完成の目途が立ち、仮眠室のソファに倒れ込んだ。そこまでの記憶は、確かだ。
軋む身体に鞭打って立ち上がり、部屋の中を見渡す。粗末な木製の机と椅子。水差しと、それを置くための簡素な台。そして、壁には鈍く光る黒曜石を磨いたと思しき、歪んだ鏡が掛けられていた。
おそるおそる、その鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、全くの別人だった。
年は十八か、十九か。色素の薄い、頼りなげな金髪。血の気の薄い白い肌に、栄養失調を思わせる痩けた頬。そして、唯一意志の強さを感じさせる、大きな青い瞳。その瞳が、俺自身の驚愕を、ありありと映し返していた。
「……嘘だろ」
日本のどこにでもいる、黒髪黒目の大学院生だった俺の姿は、どこにもない。代わりにいるのは、歴史の教科書で見たような、貧相な西洋の若者だ。パニックに陥りかけた頭で、必死に状況を整理しようとした、その時だった。
コンコン、と扉が控えめにノックされた。
「ルキウス様、お目覚めでいらっしゃいますか? 朝食の準備ができております」
扉の外から聞こえてきたのは、年老いた女性の声。そして、その言葉は、俺が論文のために必死で習得した、古典ラテン語だった。
ルキウス。それが、この身体の名前らしい。
「……ああ、すぐに、行く」
なんとかそう答えるのが精一杯だった。扉の向こうの老女は、「かしこまりました」とだけ言い残し、静かに遠ざかっていく。
俺は、自分が置かれた状況について、最悪の仮説にたどり着きつつあった。
転生。
フィクションの世界でしか知らなかった、その言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
老女に案内されて向かった食堂は、だだっ広いだけで、調度品はほとんどない殺風景な空間だった。長いテーブルに置かれていたのは、硬そうな黒パンと、水で薄めたとしか思えないスープ、そして一切れの塩漬け肉。これが貴族の食事か、と内心で悪態をつきながら、俺は無言でそれを胃に流し込んだ。
食事の間、父と名乗る壮年の男と、二人の兄がいたが、彼らの会話はほとんど耳に入ってこなかった。彼らが話すラテン語は理解できたが、その内容――痩せた土地、今年の収穫の悪さ、日に日に重くなる税、そして国境の向こうの蛮族の不穏な動き――は、俺の仮説を裏付ける情報にしかならなかったからだ。
食後、俺は「少し考え事をしたい」とだけ告げ、屋敷の中にあるという書斎に籠った。そこは唯一、この貧乏貴族の館で、かつての栄華を思わせる場所だった。壁一面に、羊皮紙の巻物がぎっしりと詰め込まれている。
俺は、震える手で巻物を一つ手に取った。そこに記されていたのは、この時代の歴史書だ。皇帝の名を、確認する。
――フラウィウス・グラティアヌス・アウグストゥス。
そして、記された年号。
――西暦、三百七十六年。
血の気が、引いた。
全身から汗が噴き出し、立っていることすら困難になる。俺は、その場にへたり込んだ。
グラティアヌス帝。西暦三百七十六年。
間違いない。俺が研究していた、あの時代だ。
西ローマ帝国が、その長い歴史の終焉に向けて、音を立てて崩れ落ちていく、まさにその序章。フン族に追われたゴート族が、難民として帝国の国境に殺到し、ローマ側の失政によって、やがて帝国を揺るがす大反乱へと繋がっていく。二年後には、皇帝自身が戦死する、アドリアノープルの戦いが起こる。
そして、俺が転生したこのルキウス・ウァレリウス・コルウスという三男坊は、モエシア属州の片田舎、まさにそのゴート族が押し寄せる最前線に領地を持つ、しがない貴族の一員だった。
「……詰んでるじゃないか」
思わず、日本語で呟いていた。
冗談じゃない。これは、歴史の知識があるからといって、どうにかなるレベルの話ではない。国家規模の衰退だ。インフレは天文学的なレベルに達し、貨幣経済は崩壊寸前。軍隊は弱体化し、官僚は腐敗し、民衆は重税と貧困に喘いでいる。
俺は、この身体の主であるルキウスの記憶の断片を辿りながら、屋敷の外へ出た。自分の目で、この「現実」を確認するために。
屋敷を一歩出ると、そこには絶望的な光景が広がっていた。
石ころだらけの、痩せ細った畑。そこで働く農民たちの顔には生気がなく、その目は虚ろに宙を彷徨っている。子供たちは腹を空かせ、老人たちは静かに死を待っているかのようだ。村の井戸は濁り、家々は今にも崩れそうなほどに朽ちている。
これが、俺の領地。
これが、俺がこれから生きていかなければならない世界。
歴史書で読んだ、ただの文字列だった「衰亡」という言葉が、今は圧倒的な質量を持った現実として、俺の全身にのしかかってくる。剣も魔法も使えない。体力もない。あるのは、しがない現代日本で培った「歴史知識」だけ。そんなものが、この巨大な滅びの流れの前で、何の役に立つというのか。
俺は、丘の上に立ち、夕陽に染まる荒涼とした領地を見下ろしながら、乾いた笑いを漏らした。
「最高の歴史IFシミュレーション、か……。冗談きついぜ」
だが、絶望の淵で、俺の頭脳の片隅、オタクとして長年培ってきた分析能力が、冷ややかに現状を観察していた。
――待てよ。
この状況、本当に「詰み」か?
目の前の問題点を、一つずつ整理してみる。
まず、食糧問題。この痩せた土地。農法が絶望的に古い。二圃式農業か? 収穫量が低いのは当たり前だ。もし、ここに三圃式農業を導入したら? 鉄製の重量有輪犂を開発し、深く耕すことができれば? 川から水を引くための、水車を建設すれば? 食糧生産は、劇的に改善するのではないか。
次に、衛生問題。濁った井戸水。人々は、手を洗うという習慣すら知らない。もし、ここに公衆衛生の概念を持ち込んだら? 「手を洗え」「水は煮沸しろ」「病人は隔離しろ」。たったそれだけの、現代では当たり前の知識が、この世界ではどれだけの命を救うだろう。
そして、経済問題。父や兄たちが嘆いていた、悪貨の蔓延によるインフレ。ギボンが描いた、あの地獄だ。「悪貨は良貨を駆逐する」。グレシャムの法則。ならば、逆を行けばいい。俺自身の信用を担保にした、「兌換紙幣」のようなものを、この領内だけで発行したらどうだ? 穀物や塩と交換できる手形。それは、この腐りきった経済からの、ささやかな独立宣言になるかもしれない。
蛮族の問題。ゴート族は、本当にただの略奪者なのか? 史実では、彼らが欲したのは土地と安定した生活だったはずだ。彼らを敵としてではなく、「屯田兵」として受け入れ、帝国の防衛力に変えることはできないか?
次から次へと、脳裏に解決策が浮かんでくる。
それは、この世界の人間にとっては、神の啓示か、悪魔の囁きにしか聞こえないような、常識外れのアイデアばかりだろう。だが、俺にとっては、ただの「歴史の知識」であり、「現代の常識」だ。
俺の心に、絶望とは違う、別の感情が湧き上がってくるのを感じた。
それは、恐怖と、そして、ほんの少しの――興奮。
「……そうか」
俺は、夕陽に向かって、不敵な笑みを浮かべていた。
「詰んでるんじゃない。これは、最高の歴史改変シミュレーションだ。そして俺は、唯一の攻略本を持つプレイヤーだ」
生き残ってやる。
いや、ただ生き残るだけじゃない。この滅びゆく帝国を、この俺の知識で、救い上げてやる。
まずは、この小さな、忘れ去られた領地からだ。俺のコンサルティングで、ローマで最も豊かで、安全な場所に変えてみせる。
決意を固めた俺の視線の先に、一人の男が立っているのが見えた。
年の頃は四十代後半。岩のような体躯に、顔には深い皺と古傷が刻まれている。元軍人だろうか。彼は、ただ黙って、丘の上から領地を眺める俺の姿を、鷲のような鋭い目で見つめていた。
それが、俺がこの世界で初めて出会うことになる、最初の仲間、ガイウス・フルウィウス・マクシムスとの、最初の出会いであったことを、まだ俺は知らない。
俺は、新たな人生の最初の目標を定め、丘を下り始めた。
「聖人ルキウス」の伝説は、ここから始まるのだ。
そう、心の中で意気込んだ、まさにその時だった。
一人の召使いが、血相を変えて俺の元へと駆け寄ってきた。その顔は恐怖に引きつり、声は上ずっている。
「ルキウス様! 大変です! 村で……村で、原因不明の病が! 人々が、次々と倒れて……!」
――疫病。
俺の脳裏に、その三文字が浮かび上がる。
それは、俺の知識の有用性を試す、最初の、そしてあまりにも過酷な試練の始まりを告げる、凶報だった。