第4話:貴妃の嘘と、毒文字の謎
貴妃・花蓮は、美しかった。
年は三十を超えているはずだが、その姿は二十の娘のように艶やかで、隙がなかった。
──その肌艶、眼差し、振る舞い。
それらすべてが“完璧すぎる”。
清蘭は、貴妃の居室に足を踏み入れると同時に、肌で違和感を感じた。
この部屋は清潔すぎる。薬草も香も漂っていない。まるで何も起きないよう“人工的に作られた空間”だった。
「噂を聞いて参りました。芙蓉妃の件、残念です」
花蓮はゆったりとした口調で微笑む。
その指先には、墨を含ませた筆があった。
机には手紙の下書きと見える巻紙。数行、文字が綴られている。
「……手紙、ですか?」
「ええ。太后さまへの季節のご挨拶です」
花蓮はさらりと答えたが、清蘭の目は巻紙に吸い寄せられた。
──文字のかすれ方が妙だ。
筆圧が不自然に弱く、曲線がにじんでいる。
このにじみ方、見覚えがある。
「それ、“鉄胆墨”ですか?」
「まあ、よくご存知ですね」
花蓮は微笑を崩さなかった。
だが、清蘭の表情は引き締まっていた。
鉄胆墨──一見普通の墨だが、ある条件で変質する。
特定の成分、たとえば“鹹水”が触れると、文字が黒から赤茶に変色する。
つまり──手紙が別の誰かの手に渡り、仕込まれた液体に触れた時、隠された文字が浮かび上がる。
「面白い墨ですね。文の裏に、何か書き足せますから」
「まぁ、ご冗談を」
花蓮の笑顔が少しだけ硬くなった。
清蘭は、さりげなく花蓮の筆立てに視線をやった。
そこにあった数本の筆──一本だけ、筆先に朱が残っていた。
朱墨を使って“別の文字”を書いたはずだ。
そして、鉄胆墨の上から上書きして隠した。
「……第三皇子の件ですけど」
不意に切り出すと、花蓮の肩がわずかに動いた。
「聞こえていたのですね。芙蓉妃と彼が親しかったことを」
「愚かな妃の噂話など、真に受けませんよ」
「それでも、“誰かが芙蓉妃を消そうとした”のは事実です。
彼女は仮死薬を用いて逃れましたが、毒の出処は“誰か”が提供しなければ成立しません」
清蘭は筆立てから一本の筆を手に取った。
「この朱墨の筆──混ざってますね。少量の血と、滑石粉」
血を混ぜた墨は、乾くと特殊な色を帯びる。
後に鹹水を塗ることで、完全に赤文字が浮かび上がる“密筆”だ。
花蓮の指先がぴくりと動いた。
「ご安心を。今すぐお咎めることはしませんよ。まだ“証拠”にはなりませんから」
清蘭はそう言い、筆を戻した。
「ただ、太后に送ったその手紙──誰かが開いて“にじませた”瞬間、あなたの真意が露わになるでしょうね」
そして静かに告げた。
「お手紙には、こう書かれていたのでしょう?
──“第三皇子は反逆の意図あり。妃と結託し、帝位を狙う”──と」
花蓮の顔から、完全に笑みが消えた。
「薬を使わずとも、筆一本で人を葬れるものですから。
ですが残念でした。今回ばかりは、妃を殺す薬も、筆も─全てが少し、足りませんでした」
清蘭は一礼して部屋を後にする。
彼女の背に、筆を握りしめたままの花蓮が、悔しさのあまりかすかに唇を噛んでいた。