第3話:夜を歩く女と、蘇りの方剤
「……どこ、ここは……?」
芙蓉妃が目を覚ましたのは、後宮の薬苑に設けられた静養室だった。
目の焦点がまだぼんやりしているのは、体内に残った生薬のせいだ。
「お目覚めですか、芙蓉妃様」
清蘭は、薬研の音を止めずに言った。
「芙蓉妃様、見事な仮死でしたね。よくそんな毒の分量を心得ていましたね」
芙蓉はすぐには答えなかった。
しかし、やがて観念したように口を開いた。
「……あなたには、隠しきれないのね」
「ええ。“薬妃”ですから」
その声は、決して誇張も威圧もなく、ただ事実を述べているだけだった。
それが逆に芙蓉の心を揺らす。
「私は……逃げたかったの」
「誰から?」
芙蓉の瞳が怯えの色を帯びる。
「“あの方”との密会が、誰かに知られたの。書簡も……奪われた」
清蘭の目が細くなる。
「“あの方”……それは、陛下?」
「……違う。陛下じゃない。あの方は……第三皇子です」
その名が出た瞬間、春琴が息を呑んだ。
第三皇子・朱凌。
母は早くに亡くなり、后位を持たぬため後宮では冷遇されていたが、
文に優れ、民からの人望は厚いという噂の人物だ。
「第三皇子と、あなたが?」
「私が一方的に想いを……でも、許されるはずがなかった」
芙蓉は細く笑った。
「だから、彼の評判を落とすために……誰かが仕組んだの。『私が陛下と密通していた』という嘘を、記録ごと捏造して」
清蘭は黙って芙蓉の脈を測った。
脈は落ち着いている。つまり、嘘ではない。
「で、あなたは“死んだこと”にして、その記録も自分の存在も一度消そうとした……」
「そうすれば、誰も彼を巻き込まない。私さえ……いなくなれば」
清蘭は、湯気の立つ茶碗を芙蓉に手渡した。
「蘇りの方剤。少しずつ飲んで。乱れた鼓動を調整する作用がある」
芙蓉はそれを受け取り、涙をひとしずく落とした。
その背で、春琴がぽつりと言った。
「でも妃様。これでは、真犯人はまだ……」
「ええ。ここまで複雑に仕組むには、薬と記録、両方にアクセスできる立場が必要になる」
清蘭は、机の上の香墨を指でなぞった。
「記録を書き換え、仮死に使う薬を手配できて、しかも“尚衣局の侍女”を使える人物……」
その先に、ひとりの名前が浮かぶ。
──貴妃・花蓮。
皇帝の寵を受ける側でありながら、誰よりも後宮の力を握る女。
「……次は、そちらを診察に行かせていただきましょうか」
金針が太陽の光を受け、わずかに輝いた。