第9話:毒姫の謀と、薬壺の選択
その事件は、芙蓉妃が復帰して間もないある朝に起きた。
太医院の薬棚から、“薬壺”がひとつ、忽然とすり替えられていたのだ。
清蘭が呼び出された時、すでに“後宮の薬師”たちは動揺していた。
「これは……」
彼女の前に置かれた二つの薬壺。
一見まったく同じ見た目──だが、片方には【滋養薬】、もう一方には【微量の毒性成分】が含まれていた。
「昨夜、侍医のひとりが倒れました。おそらく毒の混入によるものです。
壺はすでに戻され、どちらが本物か見分けがつかないと……」
春琴が額に手を当てる。
「つまり、どちらかが“毒壺”……?」
清蘭は頷き、二つの壺に順番に近づいていった。
「表面の焼き付け、釉薬の質、内部の残香……なるほど、これを入れ替えた人物は相当の“知識”を持ってる」
やがて、清蘭は一歩下がり、指を指した。
「こちらが“毒壺”ですよ」
その瞬間、沈黙が落ちた。
「──どうして分かったのですか?」
「薬壺の内部にほんの僅か、“烏頭”の残香がある。
これは人間の感覚ではほとんど分からないが、湯気に反応させるとわずかに“甘苦い”芳香が残る。
また、蓋の合わせ方も逆になっていた。使い慣れていない手つきで封をした証拠です」
その時、一人の侍女がそっと声を上げた。
「……それを、用意していたのは──“麗貴人”様ですね」
後宮の美姫として知られる貴人・麗。
その立場は皇子の寵妃であり、毒草を好んで育てていたことから“毒姫”の異名を取っていた。
数刻後、麗貴人は清蘭の前に呼び出された。
彼女はまるで動じた様子もなく、微笑を浮かべていた。
「ごきげんよう、薬師様。まさか私が“毒を撒いた”と?」
「いいえ。撒いては、いません。
ただ、“選ばせた”のでは? 使う側が間違えれば、それは事故。
でも、毒がそこにあると知りながら見過ごすこと──それもまた、あなたの計算のうちだったのではないですか?」
麗はふっと笑った。
「芙蓉妃が戻って、私の位置が危うくなった。
だから太医院に混乱を生ませて、“後宮の命”に不安を植えつけた。
その混乱が広がれば、皇帝陛下は“慎重すぎる芙蓉”を重荷に感じるようになる……」
春琴が怒りをあらわにする。
「人の命を利用してまで、自分の立場を守ろうとするなんて……!」
だが清蘭は、その言葉を静かに制した。
「後宮は戦場です。理ではなく“策略”で動いている。
麗貴人がしたのは、確かに計算された策です。
けれど──“毒”が暴かれた以上、その先はもう通らない」
麗の笑みが、ひとつ崩れた。
清蘭はひとことだけ、告げた。
「命を、盤上の駒にしてはいけません。
そうでなければ、あなた自身も誰かの駒になる日が来ることになります」
麗は黙して去った。
その後、麗貴人は後宮から静かに姿を消したという。




