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猫耳の少女ミレイ

【リク視点】


 春に収穫した麦は、僕たちにとってただの食料ではなかった。それは、このアルベリアで自らの手で得た最初の『成果』であり、外の世界と渡り合うための唯一の『価値』だった。貨幣を持たない僕たちは、この麦を元手に、生きるために必要なものを少しずつ手に入れていた。


 そして、俺とカイは、グリマ村とは逆方向にある村からさらに足を延ばし、小さな市へたどり着いた。ごった返す人いきれと、家畜の匂い。露天が並ぶその雑踏の奥まった一角に、それはあった。


 縄でひとまとめにされ、地面に座らされた子供たちが、商品のように並べられている。


(……奴隷市だね……)


 息が、詰まった。かつての自分たちの姿が、目の前の光景に重なる。ここでは人の命が、まるで家畜か何かのように値踏みされ、売り買いされていく。俺は隣に立つカイと、言葉もなく視線だけを交わした。その目にも、俺と同じ苦い色が浮かんでいるのがわかった。


「こいつは駄目だな、病気もちだ」

「これは使い物にならねぇ、見てみろ、泣き虫だぜ」


 品定めする男たちの無遠慮な声が、耳に突き刺さる。その中で、一人の商人が俺たちに気づき、顎で子供の一人をしゃくってみせた。


「おう、そこの兄ちゃんたち。どうだ、一人。こいつなんか安くしとくぜ。獣人だがな、見てくれ、可愛らしい猫耳付きだ」


 商人が『こいつ』と呼んだ少女が、その声に反応してぴくりと耳を動かし、ゆっくりとこちらに顔を上げた。薄汚れた麻布をかぶり、小さく身を縮こませていたが、その両眼だけは……濁った空気の中で、まっすぐに俺たちを射抜いていた。


「……名前は?」


 カイが、商人を無視するように少女の前へしゃがみこみ、静かに尋ねた。少女の乾いた唇が、かすかに開く。


「……ミレイ」


「きみ、字は、読めるかな?」


 僕が続けると、ミレイと呼ばれた少女はこくりと頷き、懐からしわくちゃの布切れを取り出した。そして、震える指で地面に落ちていた炭の欠片を拾い上げ、その布に力を込めて文字を書き始めた。


 『ミレイ わたしははたらけます』


 たどたどしいが、しかし懸命に綴られたその言葉に、僕たちは言葉を失った。この過酷な状況で、自分の価値を必死に示そうとしている。その健気さが、痛いほど胸に突き刺さった。


「……読み書きができるのか」


「ああ。だが、獣人だ。この耳や尻尾を気味悪がる雇い主も多くてな。おまけに、こいつは愛想もねえ。見世物にもなりゃしねえんだ」


 商人が、まるで価値のないガラクタを説明するように、鼻で笑った。


「麦袋の中身少しと交換でいい。持っていきな」


 あまりにも安い。それは、命の値段ではなかった。けれど、それがここの現実なのだ。


 ミレイは、何も言わなかった。ただ、じっと僕たちを見つめている。その目には、諦めも、期待も見えない。そこにあるのは、ただ静かに自分の運命を受け入れようとする、あまりに早く大人びてしまった者の『覚悟』の色だった。


(僕たちが、ここで目を背けたら……)


(この子は、どこにも居場所がないまま、どこかへ売られていく)


 ふと、高熱にうなされていたユナの苦しそうな顔が、脳裏をよぎった。もしあの時、僕たちがそばにいなかったら。もし、見捨てていたら。ユナは、きっと……。


「……連れて帰ろうよ」


 僕が絞り出すように言うと、カイも力強く、小さく頷いた。


 僕たちは背負ってきた春小麦の袋を開く。商人は袋からお椀三杯だけ麦をとった。そして、ミレイを縛っていた縄をほどいた。


「物好きな連中だな……」


 背後から聞こえた商人の皮肉な声に、僕たちは振り返らなかった。ただ、ミレイの驚くほど冷たい手を、カイがそっと、しかし力強く握った。僕たちは三人で、静かに盆地への帰路についた。


 帰り道、ミレイはほとんど口を開かなかった。けれど、僕たちの歩く速度に、必死でついてくる。時折、その猫耳が周囲の物音にぴくぴくと反応していた。


「寒くないか?」


「……だいじょうぶ、です」


 ようやく聞こえたその声は、今にも壊れてしまいそうに細く、か弱かった。カイが道端で見つけた木の実を無言で手渡すと、ミレイは少しだけ驚いたように目を見開き、そして小さな声で「……ありがとう」と囁いた。


 その一言だけで、僕の心は少しだけ軽くなった気がした。


 夕暮れ時、ようやく盆地に戻ると、畑仕事を終えたディノが僕たちを見て、驚きに目を見開いた。


「……ね、ねえ、リク、カイ! その子は……?」


「……新しい仲間だよ」


 僕がそう答えると、焚き火のそばにいたユナが、ぱあっと顔を輝かせてミレイに駆け寄った。


「わあっ、かわいいお耳! ユナだよ、よろしくね!」


 突然の歓迎に、ミレイは戸惑った顔で後ずさった。だが、ユナが無邪気にその手を引くと、固く閉ざされていた彼女の表情が、ほんの少しだけほどけていくのがわかった。


 サラが、自分のマントにしていた布を手に、優しく微笑む。


「ようこそ。まずは体をきれいにして、温かいものを食べましょう。寒かったでしょう?」


 ミレイは、サラの顔とユナの顔を交互に見て、そして、小さく、本当に小さく頷いた。その埃に汚れた頬に、ようやく……ほんの少しだけ、赤みが差したように見えた。


 エリクは何も言わなかった。ただ、黙って火のそばに、新しい木の匙を一本、そっと置いてくれた。それは『お前の分も、ここにある』という、彼なりの無言の歓迎の合図だった。


 こうして、僕たちの小さな家族が、また一人増えた。


 アルベリア盆地の春風が、焚き火の炎を優しく揺らしていた。


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