盆地に吹く春の風
【リク視点】
冬は、思っていた以上に厳しかった。
雪はうっすらとだけ積もった。骨の芯まで凍てつくような風が、丸太を組んだだけの粗末な小屋の隙間から容赦なく吹き込んだ。なめしてもいない獣の皮を何枚も重ねて眠る夜は、いつも空腹と寒さで目が覚めた。罠にかかった兎の肉も、秋に集めた木の実も、日ごとに減っていく。あの冬、ユナが高熱を出して倒れた時は、誰もが口にこそ出さなかったが、すぐそばにある『死』の存在をはっきりと感じていた。
そのユナが今、柔らかな春の日差しの中で、小さな白い花を摘んで笑っている。
「あったかいね、リク!」
「ああ……本当に、生きてるって感じがするな」
その無邪気な笑顔だけで、冬の間の苦労がすべて報われるような気がした。
春になり、雪解け水で川の水かさが増すのを確認すると、僕とカイは再び盆地の探索を始めた。開墾はエリクとディノに任せてある。冬の間に作った木槌や、補強した鍬の柄を手に、二人は黙々と畑を広げていた。
僕たちは、盆地を流れる川に沿って、ひたすら下流を目指した。そして、数日が過ぎた頃だった。
「リク、見ろ……あれ」
カイが息を殺して指差した先。川の向こう岸の、木々が途切れた道を、小さな隊列が進んでいた。荷を背負った男が二人、そして、その男たちに引かれたロバが一頭。遠くて顔までは分からないが、あれは間違いなく商人の一団だ。
「……誰かが、この土地を通ってる」
この盆地は、俺たちが思っていたような、世界から完全に孤立した場所ではない。どこかと、繋がっている。その事実が、俺たちの胸に小さな、しかし確かな世界の広がりを感じさせた。
けれど、その夜、拠点に戻ると、エリクは焚き火の光を浴びながら、一人黙々と道具の手入れをしていた。村から持ち出した火打石、錆びた釘、刃こぼれした鋸。彼はそれらを布で磨きながら、まるで何か別の、もっと遠くのことを見ているようだった。
「……エリク、どうしたの?」
僕が声をかけても、彼は静かに首を振るだけだった。だが、次の日から、彼の行動はより具体的になった。森から選び抜いた太い木材を運び込み、石を積んで、まるで鍛冶場のような台座を作り始めたのだ。
(あれは、何かを『作る』ための準備だ……)
その答えは、思わぬ形で見つかった。
数日後、僕とカイはついに盆地の外れにある森を抜け、その先の農道へと足を踏み出した。やがてたどり着いた古びた村の酒場で、俺たちは聞いてしまったのだ。男たちが酒を酌み交わしながら話す、噂話を。
「……近頃、また奴隷市が開かれるらしいぜ」
「ああ、グリマ村のガラム様の所から逃げ出した奴らがいるとかで、見つけ次第捕らえろってさ。結構な賞金が出るらしい」
僕とカイは、顔を見合わせると同時に席を立った。息を切らしながら、夢中で盆地への道を駆け戻る。
(ここは安全な場所じゃない! いつか、誰かが来る。見つかるんだ!)
その時、僕はようやくエリクの覚悟を理解した。彼は、ただ待つつもりはないのだ。この地を、僕たちの手で『守る』ために、そのための『力』を得ようとしているんだ。
そして、僕たちの最初の『力』が、ついに実りの時を迎えた。
僕たちが震える手で蒔いた春小麦の穂が、見事な金色に染まったのだ。畝の間を風が吹き抜けるたび、小さな麦の海がさわさわと波のように揺れる。それは、僕たちがこの地に根を下ろした、何よりの証だった。
ディノが祈るように麦を一束刈り取り、その手の中で籾をこすり合わせる。サラがそれを丁寧に集めて袋に詰めていく。
「わあ……! パン、つくれるかな?」
ユナが歓声を上げると、マリルが「その前に、まずはお粥からね」と優しく笑った。
収穫量は、驚くほどではなかった。だが……。
「……これ、全部僕たちのものなんだよね。税として、誰かに取られることがないんだ……」
僕の呟きに、仲間たちがはっとしたように顔を見合わせた。そしてエリクが、力強く一度だけ頷いた。その目は、すでにこの麦の、さらに先を見据えていた。
(そうだ。これはただの食料じゃない。金があれば、もっとマシな道具が手に入る。物々交換でもいい。仲間を……俺たちと同じ境遇の人たちを、買い戻すことだってできるかもしれない)
この麦が、僕たちの最初の武器になる。
暖かい春の風が、僕たちの頬を撫でていった。僕たちはもう、ただ逃げるだけの子供ではなかった。ここで、確かに生きていた。
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