見知らぬ影
【リク視点】
朝靄がまだ盆地の草原を薄く包み込み、遠くの木々をぼんやりと霞ませていた。僕とカイは、夜露に濡れた草を踏み、足音を殺しながら斜面を下っていく。昨日、エリクが命がけで持ち帰ってくれた道具のおかげで、開墾の目途は立った。ようやく、このアルベリアでの生活の基盤が整い始めたのだ。けれど……。
「リク。探索に行くぞ」
隣を歩くカイが、決意を秘めた小声で言った。僕も黙って頷く。
(そうだ、僕たちはまだ、この土地のことを何も知らないんだ……)
この盆地は、本当に僕たちだけの楽園なのだろうか。この川はどこまで続き、その先には何があるのか。森の奥に潜む獣は危険だろうか? そして何より……僕たちの他に、この場所を知る者はいないのか。その漠然とした不安が、僕たちの胸には常にあった。
僕たちは拠点から少し離れ、これまで足を踏み入れたことのないエリアへと慎重に進んだ。背の低い藪を抜け、なだらかな丘を一つ越えた、その時だった。
「……ん?」
僕は思わず足を止め、くん、と鼻を鳴らした。草と土の匂いに混じって、微かに何かが焦げたような匂いがする。
「……リク、これ……」
カイも気づいたようだ。顔を見合わせ、匂いのする方へと慎重に近づく。すると、草の間に不自然に黒く煤けた一角が姿を現した。
(焚き火の跡……)
それは間違いなく、誰かが火を使った跡だった。しゃがみ込んでそっと灰に触れてみると、まだ微かな温もりが指先に伝わってくる。最近のものだ。俺たち以外の誰かが、ここにいた。
全身の血が、さっと引いていくのがわかった。
「だ、誰だ!?」
緊張に耐えきれなくなったカイが、鋭く叫んだその刹那。僕は背後に、ぞわりとした人の気配を感じた。
振り向いた瞬間、僕たちは息をのんだ。
木々の影から、一人の見知らぬ男が姿を現し、引き絞った弓を真っ直ぐにこちらへ向けていた。尖った矢じりが、僕とカイのちょうど真ん中で、鈍い光を放っている。
言葉が出なかった。心臓が喉までせり上がってきて、呼吸すら忘れてしまう。男は僕たちと同じか、少し年上に見えた。肌は日に焼けており、着ている服は上等なものだったが、ひどくくたびれている。その目つきは森で生きる獣のように鋭く、一切の油断もなかった。
「動くな。お前たち……ガラムの手の者か?」
男が、低くかすれた声で言った。その口から出た「ガラム」という名に、俺はわずかに意識を引き戻される。
(この人も、豪農のガラムを知っている……?)
「ち、違う! 俺たちは……」
僕が何かを言いかけるより早く、カイが叫び返そうとするのを、僕はとっさに腕で制した。
(馬鹿! 刺激するな!)
「……違う」
僕は、震える声を必死で抑えつけ、ゆっくりと口を開いた。両手を、武器を持っていないことがわかるように、そっと胸の前に見せる。
「僕たちは、豪農ガラムから……グリマ村から、逃げてきた」
「……逃げてきた、だと?」
男は眉をひそめ、疑わしげに僕たちの姿を頭のてっぺんからつま先まで観察している。その視線が、あまりにも鋭く、肌を刺すようだ。
長い、沈黙が流れた。風が草を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて男は、僕たちがただのみすぼらしい子供で、本気で怯えていることを見て取ったのか、張り詰めていた弓の弦を、ゆっくりと、本当にゆっくりと緩めた。
「……ふん。あの男の下から逃げ出す奴がいたとはな」
吐き捨てるようにそう言うと、男は弓を肩にかけ直し、俺たちに背を向けた。
「待てよ! あんたこそ何なんだ!」
カイが呼び止めるが、男は振り返りもしない。
「ここはお前たちだけの土地じゃない。それだけは覚えておけ」
男はそれだけを言い残し、あっという間に森の中へと姿を消してしまった。残されたのは、不気味な焚き火の跡と、僕たち二人の胸に深く突き刺さった、新たな不安だけだった。
「……あいつ、一体、誰なんだ……」
カイの呟きに、俺は答えることができなかった。
このアルベリアは、僕たちだけの聖域ではなかった。僕たちの知らない影が、確かにここに存在している。その事実が、ずしりと重い鎖となって、足に絡みついた気がした。
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