夜のグリマ村へ、再び
【リク視点】
夕暮れの空に、一本の黒い煙が昇っていた。
それは僕たちの焚き火から立ち上る煙ではなかった。方角からして、グリマ村からだ。あれがただの夕餉の支度であればいい。けれど、なぜか胸騒ぎがした。腹の底に、冷たい石が沈んでいくような、重苦しい不安が俺たちを包み込んでいた。
「……俺、グリマ村へ行ってくる」
沈黙を破ったのは、エリクだった。焚き火の赤い光が、彼の決意を固めた横顔を照らし出す。その声に、全員の視線が一斉に彼へと注がれた。
エリクは静かに立ち上がると、膝にくくりつけていた短いナイフの柄を確かめ、そばに置いていた古い麻袋を手に取った。その目は、すでに夜の闇が迫る森の向こう、村の方角を真っ直ぐに見据えている。
「もしかして、盗みに行くのかよ!?」
カイが、咎めるように声を上げた。
「道具が、足りない」
エリクはカイの視線をまっすぐに受け止め、はっきりと答えた。
「鍬は一つだけだ。釘もない。石で刃物を叩いていては、日が暮れる。……あの納屋には、捨てられそうな道具があったはずだ。誰も気にかけない今が、好機だ」
エリクの言葉に、誰も反論できなかった。彼の言う通りだった。開墾は思うように進まず、僕たちの手は豆と擦り傷だらけだった。このままでは、冬が来る前に十分な備えをすることすらできないだろう。
「……誰かと行くか?」
僕がそう問いかけると、エリクは静かに首を横に振った。
「いや、一人で行く。その方が見つかっても逃げやすい」
そう言って、彼は火のそばに置いていた火打石を、静かに懐へと収めた。あの逃亡の夜も、そうだった。僕たちが村を抜け出す直前、たった一人で豪農の納屋に忍び込み、この火打石を盗み出してきたのだ。今回も、きっと誰にも告げずに、一人で行くつもりだったに違いない。
「……戻ってこいよ。絶対だぞ……」
ディノが、か細く震える声でぽつりと呟いた。
「……ああ」
短い返事を残し、エリクの姿はあっという間に夜の森の闇へと溶けていった。
夜の森は、昼間とは全く違う顔を見せる。獣の声、風に揺れる木々のざわめき、その全てが俺たちの不安を掻き立てた。
僕たちは盆地の中央で火を絶やさぬよう、黙ってエリクの帰りを待った。
ユナは、サラの膝を枕にいつの間にか眠ってしまった。サラはそんなユナの髪を優しく撫でながら、祈るようにじっと目を閉じている。カイは苛立たしげに足元の小石を蹴っていたが、やがてそれもやめて、腕を組んだまま燃え盛る炎を睨みつけていた。
(まだか……)
時間が経つにつれて、焦りが胸を焼く。もし見つかったら? 捕まれば、ただでは済まない。最悪の場合、命の保証すらないだろう。
どれくらいの時間が過ぎたのか。夜が一番深くなる頃、不意に、静かな草を踏むかすかな足音が聞こえた。
「……ただいま」
その声に、俺たちは弾かれたように顔を上げた。泥にまみれた顔で、ボロ布に包まれた荷物を抱えたエリクが、そこに立っていた。
「見張りはいなかった。……納屋の鍵も、まだ壊されたままになってた」
エリクはそれだけ言うと、抱えていた荷物をそっと地面に開いた。中から現れたのは、刃こぼれした古い鍬の刃がもう一枚。柄の折れた鋸、錆びついた鉄杭の束、そして木製のハンマーの頭。どれも、豪農の倉庫の隅で打ち捨てられていたであろう、がらくた同然の物ばかりだった。
「……これ、使えるの?」
マリルが、心配そうに尋ねる。
「ああ。手入れは必要だが、なんとかなる」
エリクの確信に満ちた答えに、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。皆の肩から、知らず知らずのうちに入っていた力が抜けていくのがわかった。
ディノは泣きそうな顔で駆け寄ると、濡らした布をエリクに差し出した。サラは何も言わずに、静かに火へ薪をくべ、その暖かさを強めた。
「……やったね!」
僕が絞り出したのは、ありきたりな労いの言葉だけだった。
(盗みは、罪だ)
その夜、僕たちは新しく手に入った道具を囲むようにして眠りについた。
心のどこかで、罪悪感がちくりと痛む。けれど、僕たちは誰かを傷つけるために盗んだわけじゃない。ただ、生きるために。自分たちの手で未来を切り拓くために、捨てられた物を取り返してきただけだ。
その行為の重みを、きっとエリクは誰よりも理解している。それでも彼は、僕たちのために、一人で夜の村へ戻る覚悟を決めたのだ。
僕は、焚き火の向こうで静かに眠る友の背中を見つめながら、その覚悟を決して忘れないと、心に強く誓った。
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