第29話 鬼教官ゴルバ
【リク・アルベリア男爵(16歳)視点】
『ヴァルディス歴311年 6月10日 早朝 晴れ』
「起きろォォォォッ!! 太陽が真上に昇るまで寝ているつもりか、このウスノロどもがぁぁッ!!」
耳をつんざくような怒声と、銅鑼を打ち鳴らす不快な音で、僕は安眠から引きずり出された。
まだ夜明け前だ。空は薄暗く、空気はひんやりと冷たい。
ここは、村の広場。かつては収穫祭で踊った場所が、今は地獄の訓練場と化していた。
僕、カイ、ディノ、エリクの四人は、泥だらけの服を着たまま飛び起きた。
全身が悲鳴を上げている。筋肉という筋肉が断裂しそうなほど痛い。昨日から始まった、ゴルバさんによる『特別指導』のせいだ。
目の前には、仁王立ちするゴルバさんの姿があった。手には太い樫の木の棒を持っている。その横には、あきれ顔のノアと、心配そうに見守るルギンさんがいた。
「おはようございます……ゴルバさん……」
僕がふらふらと立ち上がって挨拶をすると、いきなりその樫の棒が風を切り、僕の足元の地面を叩いた。
バチンッ!!
「声が小さい! 挨拶は腹から出せ! 戦場でそんな蚊の鳴くような声を出してみろ、味方に気づかれずに見殺しにされるぞ!」
「は、はいっ! おはようございますっ!!」
「遅い! 全員、武器を持て! 村の外周を十周だ! 最後尾の奴には、俺からの愛の鞭が待ってると思え!」
ゴルバさんの号令で、集められた村の男たち――約六十名が一斉に走り出した。
僕たちも慌ててその列に加わる。
ただ走るのではない。それぞれが、支給された槍や盾、剣を持っているのだ。鉄の塊はずしりと重く、走るたびにバランスを崩しそうになる。
「はぁ、はぁ、重い……槍が、重いよぉ……」
ディノが泣き言を漏らしながら、最後尾を走っている。彼の細い腕には、長槍はあまりにも過酷な荷物だ。
ゴルバさんは容赦なく、ディノの尻に向けで棒を振り上げた。
「足が止まってるぞ、少年! 野盗は待ってくれねぇぞ! 背中を刺されて死にたくなければ走れ!」
「ひいぃぃっ! 死にたくないよぉ!」
ディノが悲鳴を上げて加速する。
僕も必死に足を動かした。肺が焼けるように熱い。心臓が早鐘を打つ。
だが、止まるわけにはいかない。これは罰ゲームじゃない。生き残るための儀式なのだ。
ランニングが終わると、次は基礎訓練だ。
だが、ゴルバさんの教え方は、騎士のノアとはまるで違っていた。
「いいか、テメェらは騎士じゃねぇ。英雄でもねぇ。ただの農民だ。一対一でかっこよく剣を振るう必要なんてねぇんだよ!」
ゴルバさんは、村人たちに三列横隊を作らせた。
最前列は盾と剣。二列目と三列目は長槍だ。
「テメェらがやることは一つだ。壁になれ。隣の奴と肩を密着させろ。盾の隙間をなくせ!」
ゴルバさんが列の間を歩き回り、姿勢の悪い村人の足を蹴り飛ばして修正していく。
「野盗どもは、個人の腕っぷしならテメェらより上だ。だが、奴らは群れるだけで連携なんざしねぇ。そこが付け目だ!」
彼はカイの前に立った。
カイは司令官として、最前列の中央で剣を構えている。
「カイ司令官殿。お前の剣は大きすぎる。そんな大振りじゃ、次の攻撃に移る前に首が飛ぶぞ」
「うっせぇ! 当たれば一撃だろ!」
カイが反発して、力任せに模擬剣を振るう。
だが、ゴルバさんは半歩下がってそれをかわすと、すれ違いざまにカイの軸足を軽く払った。
「ぐあっ!」
カイが無様に泥の中に転がる。
「当たりゃあな。だが、当たらなきゃただの隙だ。いいか、お前らは『殺す』んじゃない。『死なない』ために戦うんだ。盾を構えろ、突きを出せ、引け! これをひたすら繰り返せ!」
ゴルバさんの指導は、徹底的な集団戦法だった。
個の弱さを、集団の規律で補う。
『突き』『引け』『進め』。単純な号令に合わせて、六十人が一つの生き物のように動くことを強制される。
一方で、ノアは個別の技術を丁寧に教えてくれていた。
エリクには、効率的な盾の構え方を。
ディノには、非力でも相手を怯ませる槍の突き方を。
鬼のゴルバと、仏のノア。この二人の指導者がいなければ、僕たちは一日で潰れていただろう。
昼休憩を挟んで、午後の訓練はさらに過酷さを増した。
実戦形式の組み手だ。
「リク男爵! お前は領主だろ! 一番後ろでふんぞり返ってるつもりか!」
「ち、違います!」
「なら前へ出ろ! 俺を野盗の親玉だと思って突き殺してみろ!」
僕は震える手で剣を握り、ゴルバさんと対峙した。
彼は武器を持っていない。素手だ。それなのに、巨大な岩壁が迫ってくるような威圧感がある。
「や、やぁぁぁっ!」
僕は気合と共に剣を突き出した。
だが、ゴルバさんは最小限の動きでそれをかわすと、僕の手首を掴み、あっさりとねじり上げた。
「いっ、痛いッ!」
剣が手から滑り落ち、僕は地面に押さえつけられた。冷たい泥の感触と、鉄の味が口の中に広がる。
「甘い。甘すぎる。お前の剣には迷いがある。『相手を傷つけたくない』なんて甘っちょろい考えが透けて見えるんだよ」
ゴルバさんの冷徹な声が、頭上から降ってくる。
「いいか、リク。戦場に慈悲なんてねぇ。奪うか、奪われるかだ。お前が迷えば、お前だけじゃなく、後ろにいる女子供、守ると誓った連中が死ぬんだぞ。それを背負う覚悟がねぇなら、今すぐ剣を捨てて畑に帰れ!」
その言葉は、どんな暴力よりも痛く、僕の胸に突き刺さった。
畑に帰る。以前の僕なら、そうしていただろう。逃げて、隠れて、嵐が過ぎるのを待つ。それが一番楽だ。
でも。
(……嫌だ。もう、奪われるのは嫌だ)
脳裏に浮かぶのは、カブ祭りで笑い合うみんなの顔。
泣きながら謝ったルギンさんの顔。
そして、いずれ国を作ろうと語り合った、あの夜の誓い。
「……う、ううぉぉぉっ!」
僕は泥を吐き出し、ねじり上げられた腕の痛みをこらえて、ゴルバさんの足を蹴り上げた。
「おっ?」
不意を突かれたゴルバさんが体勢を崩し、拘束が緩む。
僕は泥まみれのまま転がり、落ちていた剣を再び掴んで立ち上がった。
「まだだ……! まだ、僕は負けてない!」
肩で息をしながら、僕はゴルバさんを睨みつけた。
足は震えている。握力も限界だ。それでも、僕は剣先を彼に向けた。
ゴルバさんは一瞬、驚いたように目を見開き、それからニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「……へっ。いい目になりやがった。その意地汚さ、嫌いじゃねぇ」
彼はパンパンと泥を払い、周囲の村人たちを見渡した。
カイも、エリクも、ディノも、そして他の村人たちも。泥だらけになりながら、誰も逃げ出そうとはしていない。その目には、確かに今までになかった光が宿っていた。
「よし! 今日の訓練はここまでだ! だが安心しろ、明日はもっと厳しくしてやるからな!」
ゴルバさんの宣言に、全員が「ひぃぃっ」と悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
泥と汗にまみれたその光景は、側から見れば無様かもしれない。
けれど、夕日に照らされた僕たちの影は、昨日よりも少しだけ、太く、力強くなっているような気がした。
僕の手のひらには、いくつものマメが潰れて血が滲んでいた。
これが、強くなるための代償。
これが、僕たちが手に入れた『武器』の重さなのだ。
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