第14話 契約と名乗り
【リク視点】
僕は、ランドベルト辺境伯の城の一室に招かれていた。
高い天井から吊るされた鉄の燭台が、石造りの広間を静かに照らしている。壁には古びたタペストリーが掛けられ、磨かれた床にその影を落としていた。
広間の中央、豪奢な彫刻が施された椅子に腰かけていた男は、僕の姿を認めると、わずかに目を細めた。歳を重ねた証である濃い灰色の髪と、額に刻まれた深い皺。眼鏡の奥で光る瞳は、まるで分厚い書物のページを一枚一枚めくるように、僕という人間を頭の先からつま先まで、じっと観察している。
「ふむ……。思ったよりも、若いな」
男は読んでいた書類を静かに閉じると、ふうっと長いため息をついた。
「私がノルベルト=ランドベルド。このあたり一帯を治める辺境伯だ。まあ、座りたまえ」
促されるまま、僕は向かいの椅子に腰を下ろした。革張りの座面が、ぎしりと小さな音を立てる。緊張で汗ばんだ手のひらを、強く握りしめた。
「リク、と申します。グリマ村の出身で……今は、ファルケン村に」
「聞いている。君が、バルドロ男爵を『打ち倒した』そうだな」
その言い回しには、意図的に事実関係をぼかす響きがあった。ノルベルト辺境伯は僕に反論の隙を与えず、話を続ける。
「この一件、公式には『決闘』として処理する。反乱であろうが、追放であろうが、一度勝敗が決してしまえば、あとは形式の問題でしかない」
そう言うと、彼は机の上に一枚の羊皮紙を滑らせた。
「バルドロは一兵士に降格だ。あれには、過ぎた権限を与えすぎた。私の落ち度でもある」
独り言のようにつぶやき、ノルベルト辺境伯は一度目を伏せた。その横顔には、統治者としての冷徹な反省の色が浮かんでいた。
(貴族は……こんなにもあっさりと、別の貴族を見限るものなんだ……)
僕が言葉を失っていると、辺境伯は再びこちらに視線を戻した。
「さて、リク君。領地が一つ、空いた。空席は、新たな混乱を招くだけだ」
指先で、とん、と机を軽く叩く。その音が、やけに大きく響いた。
「君に、新たな男爵の座を預けたい。決闘の勝者として、ファルケン村とその領地を治める者としてな」
「……!」
(男爵? 僕が? 農奴だった僕が、貴族になるというのか……?)
あまりに現実離れした提案に、思考が追いつかない。だが、辺境伯は俺の動揺などお構いなしに、淡々と続けた。
「もちろん、正式な『契約』に基づく。条件は一つだけだ。非常時には、兵士を五名、よこしてもらう。具体的には戦争の時だな。それだけだ。当面の年貢も免除しよう。まずは、荒れた土地を立て直すことを優先してほしい」
(兵士を、五人……)
その言葉に、脳裏を仲間たちの顔がよぎった。カイ、エリク、ディノ……そして、僕たちのささやかな暮らし。この申し出を受け入れれば、僕たちの土地は『正当な権利』として守られる。もう誰にも、不当に奪われることはない。
僕はゆっくりと顔を上げ、辺境伯の目をまっすぐに見つめ返した。
「……その条件、お受けします。僕たちの土地を、仲間たちを守るために」
「よろしい。賢明な判断だ」
ノルベルト辺境伯は、初めてその口元にわずかな笑みを浮かべた。
その夜、僕は辺境伯と二人きりで、暖炉の前で語り合う。彼は「契約成立の祝いだ」と言って、琥珀色の酒が満たされた杯を俺に差し出した。
黙って酒を酌み交わし、しばらくの沈黙が続いた後、辺境伯がぽつりと尋ねた。
「貴族となるからには、家名が必要だ。それが、君の領地の名にもなる。……何か、考えているかね?」
僕は、黙って揺らめく炎を見つめた。炎の向こうに、あの盆地の風景が浮かんでくる。誰にも知られず、誰にも縛られず、俺たちが初めて自分たちの手で未来を耕した、あの場所。
僕たちの、始まりの土地。
「アルベリア、と名乗ります。リク=アルベリア。それが、僕の名前です!」
その答えを聞いて、辺境伯は満足げに頷いた。
「……アルベリア。いい名だ。短く、覚えやすい。そして何より、血の臭いがしない」
その夜、僕たちは夜が更けるまで、言葉少なげに杯を重ねた。
翌朝。城門の前には、あの白馬と、女騎士が待っていた。彼女は黙々と手綱を整えている。
出発の直前、俺はどうしても気になっていたことを尋ねた。
「そういえば……まだ、あなたの名前を聞いていなかったです……」
俺の言葉に、彼女は少しだけ目を丸くし、そして初めて、小さく、本当に小さく微笑んだ。
「セレス=ノワール。辺境伯付きの騎士だ。リク男爵、これから何度か顔を合わせることになるだろう」
「……ありがとう、セレスさん。お世話になりました!」
僕は馬にまたがり、白い朝霧の中、ファルケン村へと続く道を進み始めた。
馬が進む。その一歩一歩が、僕を過去から引き離していくようだった。
(僕はもう、ただの農奴リクじゃない)
アルベリアの地を守る者、リク=アルベリアとして、僕は生きていく。
【第一章 逃亡と開墾 完】
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