第12話 迫る足音と落石の谷
【リク視点】
僕は春の収穫で得た小麦袋を一つ、慎重に背負い直すと、再び奴隷を買った村へと続く道を下った。目的は、新たな仲間を探すこと。そして、できれば鉄製品を少しでも手に入れること。この盆地で僕たちが生き残り、この土地を守り抜くためには、力だけではなく、知識と、より優れた道具が必要だった。
たどり着いた市場は、相変わらず埃っぽく、人々の叫び声と家畜の匂いで満ちていた。兵士たちが退屈そうに辺りを見回す中、僕は人波をかき分け、目的の場所へと向かう。
その一角に、見覚えのある顔があった。ミレイを買った時の、あの目つきの悪い奴隷商人だ。男は僕に気づくと、口の端を歪めてにやりと笑った。
「よォ、兄ちゃん。また来たのか。今度は何をお探しだ?」
「読み書きのできる奴隷を探している。いるか?」
「へっ、そいつはまた随分と物好きな。いるにはいるが……ちいと高いぜ? そういや、前にあんたが買ってった猫耳の娘、達者にしてるか?」
男の探るような視線に、僕は警戒しながらも無言で頷いた。男は煙管をふかし、紫の煙を吐き出しながら、声を潜めてぽつりと言った。
「なんでも、あの娘を血眼になって『探してる』らしいぜ、バルドロ=ファルケン男爵様がな。どうやら、とっておきの『商品』だったようだ。今朝方、兵を十人ほど引き連れて、意気揚々と山狩りへ向かったとよ。『猫耳の獣人を見かけた者がいる』って、村の密告者から話があったらしい」
心臓が、氷水の中で強く握りつぶされたかのように、どくん、と一つ大きく跳ねた。全身の血が、さっと引いていくのがわかる。
「……それは、本当の話ですか?」
「俺が嘘をついて、何の得があるってんだ。ま、せいぜい気をつけるんだな、兄ちゃん」
男はそれだけ言うと、興味を失ったように背を向けた。
「奴隷商のおっちゃん、その袋預かってて!」
「おい、ちょっとまて、いきなりだな!」
僕は市場を飛び出していた。盆地が、危ない。ミレイが、仲間たちが、危ない!
息の続く限り山道を駆け上がりながら、僕は必死に思考を巡らせる。敵は兵士十人。まともに戦えば、こちらに勝ち目はない。だが、僕たちには地の利がある。あの谷……僕たちだけが知る、あの狭い道を使えば……!
盆地へ転がり込むように戻ると、仲間たちが焚き火を囲み、食事をとっているところだった。その平和な光景に、僕の声は自分でも驚くほど張り詰めて響いた。
「……来るぞ! バルドロの兵隊が、もう山に入った! ミレイを、僕たちを狩るために!」
僕の叫びに、穏やかだった空気が一瞬で凍りついた。カイは椀を放り出して立ち上がり、ミレイは小さな悲鳴を飲み込んで、恐怖に肩を震わせる。ノアは音もなく立ち上がると、すでにその手を剣の柄にかけていた。
そんなパニック寸前の空気の中、ただ一人、リュシア殿下だけが、湯気の立つスープの椀を静かに地面に置きながら、優雅に微笑んだ。
「あらあら、まあまあ。とうとう、お客様がいらっしゃるのですね。大変なことになりましたわ」
その声は、どこか楽しんでいるかのようにさえ聞こえた。彼女のその動じない態度が、不思議と皆の動揺を鎮めていく。リュシアは、傍らに立つ騎士へと、静かに、しかし絶対的な信頼を込めて問いかけた。
「ノア。勝てますね?」
「はっ。仰せのままに」
短いやり取りだったが、そこには揺るぎない覚悟があった。ノアは僕たちの方を向き、元近衛騎士らしい冷静な声で告げる。
「谷で迎え撃つ。あの道が最も狭まる場所に罠を仕掛ける。落石だ。そこを叩けば、一網打尽にできる」
その言葉が、僕たちの指針となった。ディノとエリクが真っ先に動き出し、谷の斜面へ向かう。落石に使うための岩を、てこの原理で動かし始めた。ユナとサラも、罠に使うための丈夫な蔦を集め、ロープを編んでいく。
ミレイだけが、一歩引いた場所から、自分のために必死に動く仲間たちの姿を、ただ呆然と見つめていた。やがて、震える声で呟く。
「……どうして。私のせいで、みんなが……どうして、ここまで……」
その問いに、汗を拭いながら振り返ったサラが、当たり前のように答えた。
「だって、もう仲間でしょ? それ以外に、理由なんている?」
その言葉に、ミレイははっと息をのみ、ぎゅっと唇を噛み締めた。そして、ゆっくりと、しかし確かに頷くと、自らも小さな岩を運び始めた。
谷に巨大な岩がいくつも仕掛けられ、ノアが剣の切れ味を確かめ終える頃、西の空は戦いの始まりを告げるかのように、不気味なほど真っ赤な夕焼けに染まっていた。
(来いよ、バルドロ男爵とやら……この盆地は僕たちのものだ!)
僕は固く拳を握りしめ、谷へと続く一本道を見据えた。
(こっちはもう、ただ逃げるだけのガキじゃないんだ。守るべきものがある。僕たちは、ここで戦うって決めたんだ)
夕焼けを背に、谷の入り口の稜線にいくつもの黒い影が現れた。
先頭を歩く男のシルエットが、おそらくバルドロ男爵だろう……。
皆、覚悟を決めた。
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