第10話 谷の奥の秘密
【リク視点】
春に収穫した小麦の脱穀も終わり、僕たちのささやかな食料庫が少しだけ潤った、そんな朝のことだった。僕は焚き火にくべるための枝を集め終え、燃え盛る炎のそばに戻る。その時だった。森の奥の木々の間から、一人の男が姿を現した。
その顔には見覚えがあった。鋭い獣のような目で、俺たちに弓を向けてきた、あの男だ。僕はとっさに身構え、近くにいたカイも木の棒を構えて体を硬くした。
けれど、男の様子は以前とは全く違っていた。手には武器もなく、その歩みには警戒心よりも深い疲労と焦りの色が滲んでいる。
男は僕たちの前まで来ると、ためらうことなく、乾いた土の上にどさりと膝をついた。そして、深く、深く頭を下げたのだ。
「……小麦を収穫しているのを見た……どうか、分けてほしい」
絞り出すような、かすれた声だった。僕もカイも、あまりの出来事に言葉を失う。あれほどの敵意と警戒心をむき出しにしていた男が、今、僕たちの前で頭を下げている。その姿が、ただ事ではない状況を物語っていた。
「……罠かもしれないぞ」
カイが、俺の耳元で低く囁いた。だけど、僕は静かに首を横に振る。
「違う。目を見て……。必死になっている奴の目だよ」
僕の言葉を聞いていたのだろう……男はゆっくりと顔を上げた。
「……名乗ろう。俺はノア・ヴァルシオン。かつては、王国の近衛騎士隊に籍を置いていた者だ」
ノアと名乗った男は、途切れ途切れに語り始めた。彼はかつて、第三王女リュシア殿下の護衛として仕えていたこと。王宮内で起きた暗殺未遂事件の混乱の中、ただ一人、殿下を連れて王都を脱出したこと。追っ手を振り切り、険しい山を越え、この谷の奥地へとたどり着き、今まで身を隠して生き延びてきたこと。
「だが、もう限界が近い。殿下はひどく衰弱されている。薬はとうに尽き、食料もほとんど残っていない……」
それは、忠誠を誓った主君の命を救うための、一人の騎士の必死の嘆願だった。僕たちの間に、重い沈黙が落ちる。畑仕事の手を休めて様子を窺っていたディノやサラたちも、固唾をのんで話に聞き入っていた。
僕は、強く頷いた。
「……わかったよ。そのリュシア殿下に、会わせてほしい」
ノアは、僕の言葉に一瞬驚いたように目を見開き、やがて、今度こそ心の底から安堵したように、再び深く頭を下げた。
ノアに案内され、僕たちは谷のさらに奥深くへと足を踏み入れた。湿った岩肌を伝い、光も届かぬような狭い獣道を抜けた先、苔むした岩陰に隠れるようにして、粗末な小屋が建っていた。
その中で、彼女は静かに座っていた。
色の抜けた毛布を肩に羽織り、ただ石を積んだだけの壁にもたれかかっている。長く満足な食事もとれていないのだろう、顔は青白く痩せていた。けれど、その背筋はまっすぐに伸び、僕たちを捉えた瞳は、澄んだ泉のように深く、静かな光を失ってはいなかった。
「僕はリクと言います」
「……リク、様?」
その声を聞いた瞬間、ただ、美しい、と思った。それは人の心を穏やかにするような、不思議な響きを持っていた。
「リュシア=エストリエルと申します。ノアが、あなた方に助けられたのですね。心より、感謝を」
彼女は椅子代わりにしていた岩の上からゆっくりと立ち上がると、一歩、こちらへ歩み寄ろうとした。その立ち居振る舞いには、紛れもない気品が満ちていた。だが、その足元がおぼつかずに、ふらりと揺れる。
僕は思わず腕を伸ばし、その華奢な体を支えた。軽い……。彼女は僕の腕にそっと手を預けると、恥ずかしそうに、しかし穏やかに微笑んだ。
「……お恥ずかしいところを。ですが、こうして誰かと目を合わせてお話しするのは、本当に久しぶりのことです」
その笑顔は、どこか儚げでありながら、決して折れることのない確かな誇りを宿していた。
「僕たちのアルベリア盆地に来ませんか? ここよりは、ずっとマシな暮らしができると思うよ!」
僕の提案に、隣にいたノアが息をのんだ。リュシアは僕の目をまっすぐに見つめ返すと、ゆっくりと頷いた。
「……では、そのご厚意に、甘えさせていただきます」
リュシアとノアが盆地にやってきた日、仲間たちは皆、驚きに目を見開いた。本物の王族が自分たちの前に現れたのだから、当然の反応だった。
けれど、リュシアは誰よりも穏やかに、焚き火のそばに腰を下ろすと、興味深そうに近づいてきたユナの髪を、自分の指で優しくすいてやりながら言った。
「こんなにも当たり前の暮らしが、これほどまでに幸せなものだなんて……。私は、まだ生きていたいのですね……」
その言葉に、サラが苦笑しながら、木の椀によそったばかりの薄い麦のスープを差し出した。
「まずは、これを食べて栄養をつけてください。ここでは『肩書き』よりも、腹を満たすことの方がずっと大事ですから」
リュシアは小さく笑って頷き、スープを静かに口へと運んだ。その姿を見つめるノアの肩から、ようやく力が抜けていくのがわかった。
その夜、焚き火を囲む輪には、新しい顔が二つ加わっていた。ミレイが、おずおずとリュシアの隣に座り、時折その猫耳をぴくりとさせながら、小さな声で何かを話している。ユナはその間に割り込むようにして、すっかり彼女に懐いていた。
逃げてきた者、捨てられた者、追われた者。それぞれの過去を持つ者たちが、今、この場所にひとつの『居場所』を見つけ出していた。
そんな光景を眺めながら、ディノがぽつりと呟いた。
「……なんだかさ、この盆地、少しずつ国みたいになってきてないか?」
その言葉に、皆がどっと笑った。
だが、その笑い声の中に、きっとここにいる誰もがうすうす感じている未来への予感があった。
この盆地は、もはやただの逃げ場所ではない。
(何かが、始まろうとしている……)
僕は燃え盛る炎を見つめながら、自分たちの運命が、大きなうねりの中にいることを確かに感じていた。
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