2014.05.01(Thu) 視線
【大学生編 03 視線】
[2014年5月1日(木)]
小さい頃から、俺にとって"ソレ"は当たり前にこの世に存在するひとつの生き物のうちのひとつだった。犬や猫、虫と同じ。
だがいつからそれが普通ではないと気付いたのか。そしてその事に気付くと同時に、俺にとってソレは恐怖の対象となっていった。
「葛西さん」
知らず緊張していたのか、間近で呼びかけられるまでこいつの接近に気付かなかった。努めて冷静に視線を上げると、こいつには怖いものなどないのかと思う呑気な男が立っていた。
「…どうして俺の名前を知ってる」
「いろいろ聞いて回った」
アンタ、葛西 辰真っていうんだろ。とフルネームを再度口にされて睨みつける。なんなんだこいつは。馴れ馴れしい。
ギギギギ、と無遠慮に音を立てながらイスを引くので「静かにしろ」と注意した。ここは大学のすぐ側にある市立図書館の一角だ。
安いコーヒーサービスに古めの資料もあるので、生徒たちがよく利用している。ニコニコと笑みをたたえたまま向かいの席に東丸が腰を下ろしたので、俺は苦虫を噛み潰したような表情をしていた事だろう。
しかし、まあ…こんなやつに頼るのは非常に癪だが…。
「なあ…俺の後ろ、何か見えるか?」
「ん、後ろ?そっち?」
「指をさすな」
東丸は視線だけを動かして右側をゆっくりと探った後、左側を見て、正面を見つめた。つまり俺の目を。
「…おい、ふざけてんじゃ」
「あ」
言うと同時に視線が上に移って、つられて顔を上げそうになった俺は何か見てしまうんじゃないかと慌てて顔ごと目を伏せた。
しかしそれから数秒後、頭上からくすくすと笑い声が聞こえてきて謀られたと気付く。
「てめっ」
「俺がここに来た時からいるけど、何?アレ」
今度こそ、その視線は俺の顔のすぐ横を通り過ぎて後方へ伸びていた。明らかに何かを見ている。
「顔が潰れてる」
空が晴れてる、くらいのテンションで告げられた言葉に身の毛がよだった。
「俺から見て、アンタの右後ろの本棚から体半分だけ見えてる。多分だけど男だな。顔は」
「もういいから、あんま見んな」
細かい情報は欲しくない、と遮る。東丸は机の上で少し震えた俺の手を見てイタズラ心でも沸いたのか、ニヤニヤと立ち上がった。
「こっち見んなって文句言ってこようか」
「やめっ、おい!」
慌てて止めようと手を伸ばしたがスルリと避けられ、背後で何やらボソボソと話し声が聞こえている間、俺はもうずっと生きた心地がしなかった。
「葛西さん」
「なんだよ」
「いいから、ちょっとこっち見てって」
何がおかしいのか。
笑いを含んだ声に耐えきれず俺は敢えてガタッと音を立てて立ち上がり、全力で走って図書館から飛び出した。
「っはぁ…はぁ…」
まだ心臓が高鳴っている。信じられない、なんなんだあいつは。笑い事じゃない。
かすかに聞こえてきた東丸の言葉を必死で頭から追い出した。
――なあ、なんでずっとあの人の事見てんの?
――とりま出て来いってこら…あ。
――別に半分隠れてたわけじゃねえのか。
【視線 完】