2016.01.15(Fri) 疵
【大学生編 18 疵】
[2016年1月15日(金)]
不意にどこからか"あの"笑い声がして振り返った。
「ん?どーした、央弥?」
「いや」
――まただ。あの耳障りな笑い声。坂の上で聞いた、女の笑い声だ。
央弥は"あの日"から何度も、ふとした拍子にその笑い声を聞いていた。
「なんでもない」
ただの浮遊霊的なものではなかったのか。明らかに、央弥か辰真を狙っているような悪意を感じてやまない。
ーーー
「東丸?」
「わっ」
ぼんやりしていた。今日は話があるからと辰真に呼び出されて、部屋に来たのだ。
「どうした、疲れてそうだな」
「ちょっと寝不足気味で、でも大丈夫だ」
ありがとう、と出された紅茶を一口飲んでから、話って何だと切り出した。
「ああいや、そんな大した事では無いんだけど、これから卒論で忙しくなるから……って伝えておこうと思って」
連絡が取れなくても心配するな、という事だろう。また勝手に考えて悩んで、別れるだなんて言い出さなくて良かったと胸を撫で下ろす。
「そっか、頑張ってね」
「お前も忙しいのか?顔色が……」
「え、そう?大丈夫だよ」
本当はあの奇妙な笑い声に悩まされていたが、辰真がそれに気付いてないなら言うつもりは無かった。
ふたりはそれから、しばらく他愛ない話をして、忙しくなると言っているのに長居もできないからと央弥は部屋を後にした。
その後は特に連絡を取ることもなく、あっという間に1週間ほどが過ぎた。学部、ゼミ、サークル、元々なんの関係もない二人には、必要に駆られて連絡を取る事もない。
わかっていた事だとはいえさすがに少し寂しくなった央弥は、眠る前に少しだけと自らに言い聞かせて辰真に電話をかけた。
出ないかもしれないという予想に反して、2,3回ほどのコールで応答があった。
『もしもし?』
「あ、葛西さん、俺……東丸だけど」
『わかってる、流石に電話番号くらい登録してる』
呆れたように笑う辰真の声に少しほっとして、電話をかけるだけで、迷惑じゃないかなどと不安になった事を自嘲する。
――恋をするって、情緒が大変だ。
「あは……いや、特に用はないんだけどさ」
『別にいい』
少し間を置いてから辰真は続けた。
『俺も、そろそろ何か連絡しようかと思ってた』
口実を考える手間が省けたな。とぼやいた辰真に央弥は耐えきれず赤面した。理由がなくても連絡してくれたらいいのに。連絡したいから口実を探していたという、いじらしい辰真を思わず抱きしめたいと思う。
恋愛初心者の辰真は自分が今、相当に恥ずかしい事を言っているという自覚が全くないのだが、央弥はそんな辰真の発言に一喜一憂させられていつも忙しい。
「……えと、あの」
『待て』
突然、張り詰めた声で辰真が央弥の言葉を遮った。
『誰か他にいるのか?』
「え?いないけど」
『そうか……なら気のせいだな』
その言い方に引っ掛かりを感じたが、追求しても無駄だと感じた央弥はおとなしく話題を変えた。
ーーー
――あれは、笑い声だ。
笑い声が聞こえた。聞き覚えのある、女の笑い声だ。
――どこかで。いったいどこで…。
「……あっ」
その声の主を思い出した辰真は途端に顔面蒼白になり、レポートを放り出して実家へ向かった。
"あの事故"は、辰真にたまたま取り憑いた浮遊霊の仕業だと思っていた。しかし10年近く経って、先日、全く同じような事故が起きた事で、もしや悪意を持って自分を狙っている霊の仕業なのかと疑い始めていた。そんな矢先にあの時に聞いた笑い声が央弥の後ろから聞こえてくるとは。
――すごく嫌な予感がする。
1時間ほど後、辰真が実家に着くと母親が洗濯物を取り込んでいるところだった。
「あれ、辰真?」
「ただいま」
「どうしたの急に」
「ちょっと気になることがあって」
取り込みを手伝いながら辰真は言葉を探しつつ、先日の事件に関して話し始めた。
「あの俺、前に怪我したじゃん…。あれ、実はさ」
小さい頃の怪我、全く同じ状況での事故、その度に聞こえる女の笑い声。
黙って聞いていた母親は苦い顔をして、リビングに戻ろうと辰真を促した。
辰真の母には、結婚の際に縁を切った姉がいた。
強欲で、身勝手で、人のものが欲しくて堪らない、子供がそのまま大きくなったような女だった。彼女は母の恋人、つまり辰真の父に横恋慕し、ありとあらゆる手を使って横取りしようと画策したが、手に入らないとわかるなり、今度は思いつく限りの手で二人を苦しめた。
そんな彼女は親族全員から縁を切られ、辰真の両親も秘密裏に遠くへ引越しをした。当然、その後生まれた辰真の存在は知らされていなかったのだが、どこで知ったのか彼女は幼い辰真の元に現れた。
その直後、あの事件が起きた。ブレーキのワイヤーに切り込みが入れられていたのだ。
彼女は捕まり、警察から正式に接近禁止令を出されても尚、辰真に対して病的な執着を見せたが、その数年後には病床に伏した。
「……だから、あの人はもう死んだのよ。7年も前に」
辰真は足早に駅に向かいながら央弥に電話をかけたが何度かけても繋がらない。無機質な電子音が続くだけだ。
「くそっ」
イライラと舌打ち混じりに思わず悪態をつく。だんだん小走りになり、駅に近づく頃にはほとんど走っているくらいだった。
時刻表を睨みつけて時計を見る。あと5分は来ない。たったの5分が待ちきれないほど長く感じる。切れるたびにリダイヤルをし続けているが、一向に電話は繋がりそうもない。
「ああ、もう……なんでだよっ!!」
気持ちばかりが焦る。さっきまで普通に電話していたのに。じっとしていられなくて、ソワソワと歩き回りながら電車の到着を待つ。到着を知らせるアナウンスの穏やかな声色にすら苛立った。
「東丸!!」
チャイムを押しても返事がない。半ば無理やり渡されていた合鍵をこんなことで使うことになるとは、と思いながら辰真は扉を乱暴に開ける。
「東丸っ!いないのか!?」
部屋の電気はついている。悪いとは思いつつ、靴を脱いで中に入ると部屋の真ん中で央弥が倒れていた。
「と、まる……?」
喉が緊張に張り付いたようで、かすれた声しか出せなかった。すぐに駆け寄って抱き起こす。ぐったりしているが、息はしていた。その首には絞められたような鬱血痕がある。
「おい、おい東丸っ!」
起きろ。そう祈りながら何度か名前を呼ぶと背後でパキッと音がした。家鳴りだ。
「う…か、さい…さん…?」
央弥が目を覚ましてホッとしたのも束の間、壁に掛けていた時計が外れて落下した。床に叩きつけられた時計のガラスは粉々に砕けて辺りに飛び散る。
こんなベタなポルターガイスト現象に辰真はいっそ腹が立ってきた。
「どういう理屈の執着なのかは知らねえし知りたくもねえが…こいつにこれ以上何かしてみろ!地獄に落ちて罰を受けても、俺がお前を許さねぇぞ!!」
辰真の大声に反応するように壁がミシミシ、パキパキと軋むような音を立てて、ぼんやりとした女の影が部屋の隅に浮かび上がった。
何かを呟いているようだが、聞き取れない。憎々しげにただ立っている。
普段の辰真ならそんなモノを見れば怯えて目を逸らすだろうが、今は怒りの方が凌駕しているらしく、一切怯む事なく睨みつけて対峙している。央弥を守るように、その前に立って。
「文句があんなら俺に言え!!」
そう言った瞬間、女の影は辰真に襲いかかるように近付き耳の痛くなるような大音量で「ズルイ」と繰り返して、幻のように消え去った。
自己中心的な未練でこの世に束縛されているだけの死者の魂など、強い意志を持った人間に敵うほど強い存在ではない。
「……っ」
女が消えてから遅れて恐怖心が来た辰真は安堵に気が抜けてドサッと座り込む。
「大丈夫か、東丸」
央弥は一体なんの事か全くわからなかったが、なんとなく状況を理解して座り込んでいる辰真の背中に抱きついた。
「ありがと、葛西さん…その、めちゃくちゃカッコよかった」
「そういう事は言わなくていいから」
無事で良かった。と辰真は央弥に向き直り、強く抱きしめ返した。
【疵 完】




