7. 願ったり叶ったり
怒り狂ったあやかしは即座に向きを変え、黒装束の男に向かい襲いかかる。
男は目にも留まらぬ速さであやかしの背後に回り込み、木を足掛かりにして高く跳ねた。
次いで刃を振り下ろすと、その頂きを裂くように食い込んでいく。
重力に任せ垂直に、……下へ、下へと刃が沈む。
身の毛もよだつあやかしの叫びを分かつように、その身体は大きく二つに分断された。
原形をとどめることができなくなった身体は、どろりと、水飴のようにとろけて崩れ落ちていく。
「ん?」
黒装束の男は小さく呟くなり、あやかしの内から伸びていた松五郎の腕を掴み、一息にずるりと引き出した。
「ん――、違うな。こいつじゃない」
片腕を掴んで軽々持ち上げ、グッタリと力無く項垂れる松五郎をしばらく眺めていたが、そのうち興味がなくなったようにポイッと放り投げる。
糸を引く粘液にからめとられ、全身濡れそぼった松五郎。
身体を地に打ちつけた衝撃で意識を取り戻したのか、激しく咳込んでいる。
濁った咳を繰り返した後、ゴボッと飲み込んだ液体を吐き出して、身体をもたげた。
「た、助かったぁ……」
へなへなと腰が抜けたように蹲る松五郎をそのままに、黒装束の男は千歳のもとへ歩み寄ると、片膝に手を突き屈みこんだ。
「妙にあやかし達が騒ぐと思って来てみたが……」
鼻先が触れ合うほどの距離で交差する、二人の視線。
「……よく分からん。普通の子どもに見えるな」
雨催いであやかし達が寄ってきたのは、濃度の高い千歳の霊力に引き寄せられたため。
分からないのも仕方ない。
同じことが起きないよう、たった今、身の内に深く霊力をしまったのだから。
白狐の面奥で、夜色の双眸が無機質に千歳を映す。
静かな声に囚われ、世界から、音が消えた。
***
「おい、大丈夫か? 何を呆けている?」
腹に響く低い声。
面奥で瞬くその双眸をぼんやりと見つめていた千歳は、ハッと我に返った。
訝しげな視線を向けられ慌てて膝元の砂を払うと、そうだ置屋に行かなければと、ふらつきながら格子戸へ手を伸ばす。
「――待て娘。お前はここが何だか分かっているのか?」
袖からのぞいた千歳の細い腕を、男は引き止めるようにガシリと掴んだ。
……勿論知っている。
幸い、浴衣のおかげで幼く見える。
身売りはするが、勘違いするままにしておけば客を取るまで時間を稼げ、涅家へ行く算段も立てやすい。
「存じております。この置屋が私の引き渡し先です」
「……何をする場所か分かっているのか、と聞いている」
振り払うことを許されず、握る手の力強さに驚いてしまう。
助けに来たところを見ると涅家の人間なのだろうが、所詮は使いっぱしり。
強く腕を掴まれ問い詰められるが、下っ端と話したところで何が変わるとも思えない。
「助けてくださったことには御礼申し上げます。ですが貴方様はそれを聞いて、どうなさるおつもりですか?」
質問に質問で返されるとは思っていなかったのだろう。
男が、不快げに眉をひそめた。
「死にたくなければ止めておけ。金払いは良いが、生きて出られる保証はない」
「……あらぬ罪を着せられ、この島へと流れついた私には、他に方法がないのです」
「まだよく理解できないだろうが、あやかしが客として訪れることもある。今回のように、その身に危険が及ぶのだぞ?」
案の定、実年齢よりもだいぶ幼く見えているらしく、男は難しい顔をする。
しかも冤罪での島流し。
同じ涅家の者だろうか、後ろから現れたもう一人の狐面の男も、悩ましげに腕組みをしていた。
「物心付いた頃にはすでに親もなく、義両親に虐げられて育ちました。出自が貧しく学もなく、出来ることといえば身売りくらいです」
いらぬお節介を焼くところを見ると、もしかしたらこの男、多少の権限を持っているのかもしれない。
それなら、下働きでいいから雇ってもらえないだろうか。
ちょっぴり期待を籠めつつ、松五郎に使った設定をゴリ押しして反応を窺ってみる。
「お金もないので、働かねば食うに困ってしまいます」
「金のためなら死んでも構わない、ということか?」
「……」
男の言葉にどう返事をすべきか迷い、千歳は喉を詰まらせた。
死んでも構わないとまでは言っていない。
だが沈黙を肯定と捉えたのか男は掴んでいた腕を離し、今度は千歳のあご下に指を差し入れた。
「こんな幼い娘が罪もないのに流れつき、身売りをしたあげく無駄死にしたとあっては夢見が悪い」
松五郎といい、目の前の男といい、一体千歳を何歳だと思っているのか。
千歳の顔を上向かせ、考えるように首をわずかに傾げた後、仕方ないなと呟いた。
「では俺が、お前を買おう」
「貴方様が?」
突如現れた見ず知らずの使いっぱしりが、千歳を買ってくれる?
途中から少々期待感はあったが、こんなに上手くコトが運ぶと逆に心配になる。
だが本当であれば、どれほどありがたいことだろう。
「ちょうど先日下働きの人間を、小鬼が食べてしまってな」
「小鬼が、食べた?」
「痩せっぽちの小娘に何ができるかは分からんが……衣食住は保障されているし、わずかばかりだが給金も出る。花街で働くことを考えれば、悪い条件ではないはずだ」
そう告げるなり、千歳の反応をつぶさに観察しているのか、白狐の面奥に覗く瞳が輝きを増した。
「あやかしが瘴気に侵されると、人を襲う。善良なあやかしと区別するため、我らはこれを『異形』と呼んでいる」
ひとたび異形に堕ちると、二度と元には戻れないのだと男は言う。
「うちの屋敷はあやかしだらけでな。瘴気で異形となる者もたまにおり、使用人が喰われることもある。だが『金のためなら死んでも構わない』のであれば、何も問題はあるまい」
それは問題ないと言えるのだろうか……?
男の言葉に、千歳の目がこれ以上ないほど大きく開く。
だが涅家に行けるのならば願ったり叶ったり。
降って湧いた幸運に、千歳の頬が綻んだ。