6. 空高く舞う黒装束の男
うつくしいものを、初めて目にした幼子のように。
茜色の金魚を身にまとわせたその少女は、魅入られたように佇んでいる。
その姿を目にした瞬間、松五郎は何も考えられなくなって、翻したはずのその身を再び反転させた。
千歳を見捨て、ひとり逃げるはずだった足は跳ぶように地を蹴り、加速した身体とともに伸びきった指先は、柔らかに結ばれた朱に触れた。
「ぼーっと突っ立ってんじゃねぇ!!」
朱に染まった帯を、必死に指先で手繰り寄せる。
むんずと掴むなり先程視界の端に映った隙間へ、千歳の身体を力いっぱいブン投げた。
「ッ!?」
「振り返らずに、詰所へ走れ!!」
勢いのまま、もんどり打って倒れ込んだ松五郎の目に、あやかしの包囲を逃れた千歳が映る。
ったく、何やってんだ俺は。
自問する松五郎を余所に、千歳はコロコロと転がった後、起き上がり逃げ出すのかと思いきや、浴衣に着いた泥をもたもたと払っている。
……でもって何やってんだアイツは!?
冤罪で島流しにあった過酷な状況にも拘わらず、穏やかで、どうにもぼんやりした印象のある少女。
浜辺で見つけた時もそうだし、初対面で連れ込まれた女衒の家……しかも男の前で抵抗なく渡された浴衣に袖を通した時も、そう。
果ては涅家に行きたいから、自分を高値で売れとか言い出すし……。
「おいバカ、さっさと行け!!」
またとっ捕まったら助けた意味がねぇだろうが、と怒鳴る松五郎の緊迫感はまったく伝わってないらしい。
《…………ジャマ、ダ……》
「ッ!?」
千歳を逃がした途端あやかしの雰囲気が変わり、――すぐ後ろで、くぐもった声が聞こえた。
ギクリと動きを止めた松五郎の額に汗粒が浮き、頼みの綱である呼子笛に、続く限りの呼気を吹き込む。
『ピィーーーーッ』
先程より長く鋭く、甲高い音が空高く昇っていく。
あれはいつだっただろうか、まだ松五郎が新人女衒だった頃に、詰所へと顔見せに行った時のこと。
『この呼子笛は、ひとつ銀二十匁だ』
『は!? こんな竹製の、何の装飾もない小さな笛がですか!?』
『そうだ。これは涅家から配布されている特別な笛でな、花街の中であればどこにいても音が届く』
『それは頼もしいですね』
『……らしい』
『!?』
最後のほうが若干怪しかったが、万が一を考えて高い金を払い、わざわざ涅家特製の呼子笛を買ったのに。
「花街であやかしに襲われたら、助けに来てくれるんじゃなかったのかよ!?」
……残念ながら今のところ、払った金額分の恩恵は何も受けられていない。
「ぜんっぜん、来ないじゃねぇかぁぁあぁああッ!?」
金返せよと叫ぶ視線の先で千歳と目が合い、だが相変わらず何が起こっているのか理解できていないのか、こちらを見てピョコリと首を傾げている。
いやもう、頼むから早く逃げろよ……。
千歳の間抜けな姿に、状況も忘れ脱力してしまう。
だがそうしている間も、地に伏せる松五郎の身体を、ゆるゆると伸びた触手が覆う。
じっとりと湿ったソレが素足に触れると、ゾワッと全身に悪寒が走った。
次の瞬間引き込まれ――。
助けを乞うように伸びた腕が彷徨い、藻掻くように宙をかく。
――つまんねぇ人生だったな。
とぷん、と音を立てて、松五郎は『あやかし』の内に呑み込まれた。
***
(SIDE:千歳)
――ふむ。
あやかしの内で藻掻く松五郎を眺めながら、千歳はどうしたものかと首を傾げていた。
先程探るように伸ばされた触手を見る限り、瘴気に侵されて我を見失っている雰囲気はなく、取り立てて害意も感じられない。
何か言いたいことでもあるのだろうか。
不思議に思って見上げた千歳を松五郎が放り投げた途端、あやかしの雰囲気が一変し、殺意が立ち昇った。
あの状況で松五郎が、会ったばかりの千歳を助けたのは意外だったが――。
「あのままだと、息ができなそうだ」
引っ張り出さねばと独り言ち、手のひらを握る。
祭祀を司り、祓い屋も務める『神宮司家』の前当主の娘ともなれば、幼い頃から見合う教育を受けて然るべきなのだが、今世ではまともな教育を受けていない。
ゆっくりと開いて、また握り――数度繰り返すが、何しろ今の自分に何が出来るかもよく分かっておらず、前世の記憶に頼りきりである。
松五郎を呑み込んだあやかしは向きを変え、再び千歳を覆うように触手を伸ばしてきた。
「まぁ、やってみるしかないか」
真上から伸ばされたソレを視界に収め、のんびりと一歩足を踏み出す。
身体の奥底から霊力を引き出そうと目を閉じたその時、ヒュッ、と軽やかな風切り音が耳元をかすめた。
瞬きほどの間に、ぶよりとした触手はいくつにも分かれ、断ち切られ、地にボトボトと音を立てて落ちていく。
見上げれば、舞うように身を翻す黒装束の……白狐の面を被った男。
まるで重さなど無いかのように空高く舞う黒装束の男は、息もつかずに千歳の視界をひらいていく。
「……きれい」
思わず声が漏れ出た千歳の足元に、切断され落ちた触手が苦しそうにうねり、しばらくして動きを止めた。
その一つがボトリと頬に落ち、千歳の輪郭を辿るように伝っていく。
頬を起点に一筋の模様を描きながら動きを止め、惜しむように顎をなぞった後、ゆっくりと地に落ちる。
神宮司家の屋敷にいた時はおよそ見ることの無かった現実感のない光景が、千歳の瞳にぼんやりと映りこんだ。