5. 笛を鳴らせど助けは来ない
「この置屋がお前の引き渡し先だ」
数分歩き、二階建ての屋敷の前で立ち止まる。
袖垣のある玄関には、片引きの格子戸。
脇に配置された前庭には、青々とした緑が美しく目に映える。
「これまた随分と立派な」
「適当に売っぱらう予定だったが、まぁここでいいだろう。どうだ千歳、怖気づいたんじゃないか?」
格子戸を開けようと伸ばした腕を止め、松五郎が振り向いた。
「いえ、別に怖気づいては……」
「証文を破棄して欲しいんだろ? お願いしますって言えよ」
売る気満々だったくせに、なぜだか急に及び腰。
大事な証文を自ら破棄する女衒など、聞いたこともない。
「今まで島に流れてきた罪人達も同様に、売る直前で証文を破棄したのですか?」
「いや、別に千歳みたく物を知らないヤツはいなかったし……」
そもそも冤罪じゃなかったし、それにお前ほど幼くもなかった。
最後は消え入るほどに小さな声だが、一体千歳を何歳だと思っているのだろう。
栄養不足による低身長と、ガリガリの手足に幼い顔立ち。
与えられた浴衣を見る限り、下手をすれば十を少し超えた辺りだと認識しているのかもしれないが、正真正銘まごうことなく十五歳。
結婚も可能な、成人女性なのだ。
「涅家に行きたいし、それに引き返したからといって、行くあてもありません」
「……どうなっても知らねぇからな」
だから、証文はそのままで。
千歳の説得を諦め、松五郎が意を決したように再度格子戸へと指をかける。その時、二人の足元に影が差した。
不意に暗転した原因を探るように、松五郎はそろそろと首を傾け――突如、動きを止める。
「……ッ!?」
こぼれ落ちそうなほどに目を見開き、微動だにしない松五郎をそのままに。
目の前が暗くなり、大きな影が二人を覆った。
***
(SIDE:松五郎)
格子戸を引こうとした手元ごと、覆うように影が差す。
――急に、どうしたというのか。
ただならぬ気配に、松五郎の身体中から汗がどっと噴き出した。
震える手を握りしめ、ぎこちなく首を上向けて、そのまま杭で打ち付けられたように固まった。
朽葉を思わせる、濁った鶸茶色。
ぶよりとした質感と醜悪な姿……漂う異臭に生理的な嫌悪感を覚え、喉奥で小さく悲鳴を上げる。
胃に押し戻すように、喉元へ上がる液体を懸命に呑み込んだ。
身体を折り曲げて、真上から二人へ覆い被さるかのようにゆっくりと近付いてくる、巨大な『あやかし』。
膨張し、四方をぐるりと囲まれる。
「誰か! 誰か助けてくれッ!!」
震える手で呼び呼子笛を一吹きすると、『ピィーーッ』と甲高い音が空気を裂いた。
慌てて周囲に目をやるが、逃げようにも四方塞がれ逃げ場がない。
《ヨコ……セ…………》
あやかしだろうか、くぐもった声がどこからか聞こえる。
女衒などと阿漕な商売をしていると、命を狙われることも少なくない。さらに花街ともなれば、どんなことが待ち受けているかも分からない。
とはいえ、いくら覚悟をしていても怖いものは怖いのだ。逃げ道を塞がれた絶望感に、松五郎の視界が涙で歪む。
寒威増す暁の、軒から地に伸びる氷柱のように、何本もの触手が見上げる二人に向かい降りてきた。
「助けなんて、来ないじゃねぇか! こんな竹製の、小さな笛がひとつ銀二十匁もしたのに!!」
「それはまた随分と……」
ぼったくられましたね、とはさすがに言えず、口の中に呑み込んだ。
呆れる千歳をよそに松五郎は、頼みの綱である呼子笛へと、再び息を吹き込む。
必死に助けを求め、わずかな隙間から逃がれようと目を凝らすが、通行人達は皆遠巻きにしてこちらの様子を窺っている。
「頼むから助けを呼んで……おい誰か、誰かいないのかッ!?」
このままでは危うい。
今にも腰が砕けそうな恐怖の中、必死で逃げ道を探す松五郎の視界に、ふと、鮮やかな朱の帯色が飛び込んできた。
――逃げるでもなく、叫ぶでもなく。
恐怖など微塵も感じていないかのように、ただぼんやりと佇んだまま迫る触手を見つめている。
「バカか、あいつは!?」
ターゲットを柔らかそうな千歳に決めたのだろうか。
松五郎に伸びていた触手はすべて、小柄な少女へと向き先を変える。
人一人通れそうなほどの隙間が視界の端に映り、松五郎は逃げるべくその身を翻した。
「悪く思うなよ」
振り向きざま、仕方のないことだと言い捨てて――。
だが。
真上から降り注ぐように迫りくる触手が、千歳の頬に触れそうになるのを目にした瞬間。
見捨てて、ひとり逃げ出すはずだったのに。
……頭を過ぎった考えは、浴衣の裾を彩る金魚にかき消された。