3. 外れの離島に、よくもこんな花街を
「腹が減ってるなら決まりだ! あとはこの証文に判を押すだけだ」
「証文? ちょっ、待……痛ッ」
柔らかな物腰が一転、強めの圧をかけられる。
男が尖った爪先で、千歳の親指の腹をつま弾くと、小さな傷口からジワリと血がにじんだ。
そのまま親指を握られ、ギュッと証文に押し付ける。
「よしよし、これで契約成立だ。今日はツイてるぜ!!」
つい先程まで人好きのする笑顔を浮かべていた男は、商品を値踏みするように無遠慮な視線を千歳へ向ける。
前世は箱入り、そして今世も一応、箱入り令嬢。
このような破落戸にはとんと縁がなかったのだが――。
「励めば贅沢も出来るし、運が良ければ大店への身請けも可能。あとはお前次第だ!」
「身請け?」
「……ああ、自己紹介がまだだったな」
年頃の娘があてもなく、夕刻に一人浜辺で佇んでいたら、悪い男に声をかけられるに決まっている。
だというのに、何が何やら分からないまま証文に血判を捺してしまった。
「俺は松五郎。花街に女を斡旋するのが俺の仕事だ」
つまりは女衒――。
辻斬りに遭うよりはマシだろ? と、とんでもないことを悪びれもせずに言っているが、こんな辺鄙な島の浜辺に辻斬りがいるとは思えない。
「昔は花街など無かったのに」
「いつの話だ? 島流しで送られた者にも職は必要だからな。涅家様様だ!」
「女衒なら売ったお金を受け取るはず。そのお金は一体どこへ?」
「安心しろ、お前を売った金は俺が預かっておいてやる! なんなら増やして……うおッ!?」
突如バチッと音がして、目元で小さな火花が散ったことに驚き、松五郎は体をのけぞらせた。
口数の多い松五郎を黙らせるつもりが思ったよりも威力がなく、千歳は自分の手のひらを覗きこむ。
なるほど三ツ島だけでなく、この身体もだいぶ様変わりしているようだ。
前世の記憶が戻ったものの、これまでロクな教育を受けていないからか、霊力がまったく身体に馴染まない。
――慣れるまで、少し時間がかかるかもしれない。
「松五郎とやら、三ツ島を治めている涅家の屋敷へ案内してもらいたい」
「涅家!? 無理だ、花街の先へは許可を得た者しか入れない」
「ではどうやって許可を得れば?」
「し、知らな」
「……まぁいい。花街の先にあるならば、行ってみたほうが早そうだ」
どうせ売るつもりなのだから、早く連れていけと命じる……粗末な着物に身を包む、薄汚れた小さな娘。
何故か抗えない松五郎は、ブツブツ文句を言いながら歩きだした。
「主導権を握られると途端に連れて行く気が失せる」
「その前にお腹が減ったのだが」
「クソッ、少しは人の話を聞いたらどうなんだ……!? ホラ、黙って喰え!!」
腰元に結んであった握り飯は、少し塩気を帯びて疲れた身体に染みわたる。
モグモグと頬張るたび、からっぽの胃が満たされていく。
「松五郎、水をください」
「なんて図々しい奴なんだ!! しかも呼び捨てだと!?」
「……松五郎様、千歳は喉が渇きました」
「ぐっ、腹立つなお前」
俺の分も残しておけよと騒ぎ立てる松五郎を無視して、千歳はゴクゴクと竹筒の水を飲み干した。
ふぅ、と一息ついて見上げた空は、あの頃と変わらず淀み、重い雲に覆われている。
「本土とは全然違うだろ? こんな湿っぽい空を見上げても何の価値もないぜ」
チクショウ全部飲みやがったと、松五郎は腹立たしげに竹筒を振っている。
前世とまったく同じ、決して晴れることのない、三ツ島の空。
それでも千歳は、星の瞬きすら見えないこの空を、ひとり見上げる夜が嫌いではなかった。
「しかし、よもやの二回目とは」
――遥か昔。
三ツ島で涅家の当主を務めていた千歳――当時は日奈子という名だったが――は、花嫁となったその朝に、抑えきれなくなった瘴気を祓うための『鎮め石』として水底へ沈んだ。
それが千年もの時を経て、またしても生贄花嫁とは。
早く歩けと騒ぎ立てる松五郎を一瞥し、千歳はその口元を綻ばせた。
***
神避諸島で最も面積の大きい『三ツ島』の外周は、大人の足で丸二日あまり。
島流しにあった罪人が流れ着く、海に面した街は、貧民街。
そこから島の中央に向かって円を狭めるように区画が分かれ、一般街、花街と続き、最奥の中心部に涅家の屋敷があるらしい。
「……まだ着かないなんて」
「お前、体力が無さすぎやしないか?」
いくらなんでも遠すぎる。
前世も今世も、由緒正しい家門の生まれ。
平民育ちの健脚な成人男子と比べられ、同様に歩けと言われましても、それは無理な相談である。
「安心しろ、あと半刻ほどだ」
「そんなに!?」
涅家の当主をしていた前世は、病弱ゆえの引きこもり。
そして今世は屋敷の外へ出ることを許されないがゆえの、引きこもり。
しかも漂流明けで、充分に体力が回復していない。
今現在、都合のいい『島流しにされた罪人』の設定に甘んじおり、身分を隠しているので反論すらもままならない。
「歩くのが遅すぎて、このままだと夜が明けちまう。買取先の置屋が閉まったらお前のせいだからな!?」
「……ハァハァ、誰に向かってモノを……」
「息切れしながら威張る。まったく……ほら、手を引いてやるからとっとと歩け」
証文に血判を捺すところまでは問題だらけだったが、粗野な見た目に似合わず、意外と面倒見がいいこの男。
それではお言葉に甘えて、と少しでも楽をしたくてズルズルと引っ張ってもらう姿が、『貧民街の娘をムリヤリ連行する女衒』の絵面になるようで、道行く人々に気遣わしげな視線を送られてしまう。
「……その恰好じゃいくらなんでも汚ねぇよな」
少し寄り道するぞと言い捨てるなり、連れていかれたのは、傾いた木造の棟割り長屋だった。
「ほら、これをやる」
「……ありがとうございます」
とっぷりと日が沈みきった暗がりに、火を入れた提灯がぼんやりと浮かび上がる。
差し出された浴衣は丁寧に畳まれ、金魚が描かれた柔らかな生地の上に、広幅の三尺帯が乗っていた。
鮮やかな朱の帯に指先が触れる。
礼を述べて受け取ると、金魚の目がキョロリと動いた気がした。
「……ん?」
気のせいだろうか。
じ――っと見ていると、今度は口がパクッと動く。
「松五郎、コレ……金魚!?」
「何言ってんだお前は、どっからどうみても金魚だろうが」
早く着替えろと促すなり松五郎は後ろを向き、相手にもしてもらえない。
だが確かに、金魚が動いた気がするのだが。
「んん――?」
金魚の絵が動く不思議な浴衣は、小柄な千歳をもってしても短い身丈。
着替えを終えた千歳を見て、松五郎が一瞬息を呑んだ。
そのままじっと見つめ、ふぅ、と小さく息を吐く。
「ほら、行くぞ」
ん、と手を差し出すので、促されるまま千歳は握る。
一転して言葉少なになった松五郎に手を引かれ、いつのまにか夜明けを迎える時間帯へと差し掛かかった。
しばらく歩くと、視界を遮るほどの建築物が見えてくる。
「外れの離島に、よくもこんな花街を……」
「すげえだろ? これが四方を囲んでるんだぜ」
当主はきっと、とんでもなく女好きの享楽主義者だったに違いない。
見上げる先には、天まで届きそうに高い壁。
花街をグルリと囲むその高壁一色に視界が覆われ、千歳はゴクリと喉を鳴らした。