35. 届かない願い
(SIDE:蒼士)
二十まで生きられないだろうと、医師に告げられたその日。
日奈子はすべてを受け入れたように、ただただ静かに微笑んでいた。
蒼士に出来ることは何もなく、だが食が細い日奈子に少しでも食べさせてあげたいと、わざわざ本土から取り寄せた桃を剥いて持って行ったのだ。
「当主様?」
部屋の外から呼びかけるが返事はなく、少し開いた障子の隙間から覗くと、珍しく机に突っ伏したまま寝入る姿が見えた。
「このままでは風邪を引いてしまう」
慌てて綿の入った羽織を取りに行こうと回れ右をしたところで、小さな呟きが耳に入った。
「……蒼士」
一瞬聞き間違いかと思うほど、か細く、縋るような声音。
「――え?」
「…………蒼士」
耳をそばだてると、今度はハッキリと聞こえた。
弱音一つ吐いたことのない日奈子が、震える声で自分の名前を呼んでいる。
そっと足を忍ばせて部屋に入ると、やはり眠っているらしい。
「う、うぅ……」
具合が悪いのかと慌てて顔を覗きこみ、――涙の跡に気付き、蒼士はハッと息を呑んだ。
まだ十代の年若い娘。
屋敷の外にも出られず、病に苦しみ、それなのに当主として威厳を示さねばならない。
さらにはあと数年という余命宣告。
辛くないわけがなかった。
「……蒼士」
求めるように指先が動き、蒼士の指をギュッと握り締める。
その細さに、握る力のか弱さに、――自分を求める声に、全身が燃え上がるように熱くなる。
日奈子と浅葱が夫婦になるのだと、ずっと思っていた。
だから自分の気持ちは隠したまま、二人を支えようと決めていたのに。
ドク、ドクと、熱を帯びた拍動が鼓膜を揺らす。
どうしたらいいか分からず口元を手で押さえたまま、呆然とその場に立ち尽くした。
「……そう、じ」
またしても消え入るような呟きが耳に届いた次の瞬間、蒼士は衝動的に日奈子へと腕を伸ばす。
力を籠めたら折れてしまいそうに細い身体。
自分のものにはならないと、ずっと堪えていたのに。
もしかして自分はすぐ傍で、優しくすることを許してもらえるのだろうか。
求めるように自分の名を呼ぶその声に、愛おしさが溢れてもう我慢ができなかった。
冷えた肩口を温めるように大きな手のひらで包み、身を寄せると、腕の中で小さく身動ぐ気配がする。
「……蒼士?」
さすがに目が覚めてしまったらしい。
我に返って慌てて身体を離すと、先程までの様子が嘘のように、日奈子は朗らかに笑っていた。
「そんなに力を入れたら、骨が折れてしまう」
「ええと、その……温めようかと思いまして」
「自分の身体でか? まったく、何をしているんだ」
ふふ、と笑う日奈子の頬にもう涙の跡はなく、いつも通りの姿に戻っている。
でも微かに色付くその頬が、確かに蒼士の名を呼んでいたのだと教えてくれる。
高鳴る鼓動が抑えられず、だが目の端で何かが動いた気がして入口に目を向けると、浅葱が顔を覗かせた。
「――ッ!?」
「ああ、蒼士も桃を持ってきたのか。量が多いから皆で食べよう」
浅葱が持つ皿には、一口サイズに剥かれた桃が山盛り乗せられている。
いつからいたのだろう。
抱き締めるところを見られたんじゃないかと青褪めるが、日奈子同様にあまり感情を表に現わさない浅葱。
表情からは何も読み取れず、その日は仲良く三人で、お腹いっぱい桃を食べたのだが――。
しばらくして蒼士は婿候補として名乗りを上げ、そして浅葱は辞退した。
なのに今になって突然、浅葱が日奈子を娶り、さらに翌朝湖に沈められると聞かされる。
「なぜ俺では駄目なのですか!? 俺が娶ると約束をしたのです」
「涅家の当主は、一番霊力の強い者と決まっている。お前が婿入りを許されたのは、日奈子が当主だったからだ」
日奈子の父である前当主からそう告げられ、蒼士は唇を噛みしめる。
この状況を淡々と受け入れ、平静を保つ浅葱を信じられない想いで見つめた。
「もう決まったことだ。お前では、浅葱に遠く及ばない」
こうなればもう覆せない。
いっそこのまま日奈子を攫って、三ツ島を捨ててしまえば……。
本土に逃げてやろうかと、そんな考えまで頭を過ぎってしまうのだが、きっと日奈子は許さないだろう。
「せめて最期に話をさせてもらえませんか」
「……駄目だ。お前は何をするか分からない。早朝解放するから、討伐部隊で自らの務めを果たせ」
涅家の主屋から離れ、奥まった敷地の一角に拘束されたまま一晩中閉じ込められる。
部屋の隅に転がされ、周りをグルリと監視され……日奈子の姿を一目見ることも許されない。
こうしている間も浅葱と日奈子の婚儀が進み、そして二人は結ばれる。
想像しただけで、気がおかしくなりそうだった。
猿ぐつわを噛まされ、声すら出せないこの状況で、何をしても日奈子にはもう届かない。
そして夜が明け、日奈子は湖へと沈んでいく。
『良き妻を娶って子を為し、涅家を支えるように』
信じられないことに、それが、日奈子が蒼士に遺した最後の言葉なのだという。
屋敷から火の手が上がり、だが一人フラフラと持ち場を離れ、湖へと向かった。
湖上に溢れる瘴気とはうらはらに、水は美しく澄み切っている。
間違いなく日奈子の命を飲み込んだのだという現実を蒼士に突き付け、とてつもない絶望感に襲われた。
傍らで、優しくすることを許されたのに。
ともに生きたかった。
思う存分幸せにしてあげたかった。
最期に一目、会いたかった――。
その願いはついに叶えられることはなく、蒼士の目から力なく涙がこぼれ落ちる。
あれほど守ると誓ったのに。
もう正気を保ってはいられなかった。
どれくらい異形を斬っただろうか、ぼんやりと霞む視界に浅葱が映る。
異形の刃が腹に食い込み、崩れ落ちていく、――浅葱の姿が。
「……兄上ッ!!」
怒りと悲しみに突き動かされ、我を忘れ……そしてまた蒼士も力尽き、倒れていく。
倒れざま目に入ったのは、光り輝くように美しい真白の狐――。
水底に沈んだ日奈子の魂は、天に帰るのだろうか。
もしまた廻ることを許されるのなら、すべてのしがらみから解き放ち、きっと自由に――。
叫んでも叫んでも届かない願い。
焼き尽くされるのではないかと思うほど、身体が熱い。
――それは、怒り。
***
大蛇に噛みつかれた場所からジワリと、何本もの朱い糸が伸びていく。
ふわ、と広がるその朱に触れた時、御守様と蒼士郎の境界が曖昧になり、千年にも及ぶ御守様の記憶が怒涛のように流れ込んできた。
身体を丸めて蹲ったまま両手で顔を覆い、泣き崩れる浅葱の姿。
今なら蒼士郎にも分かるのだ。
自分が身代わりになれたらと無力感に苛まれる夜を、蒼士郎はもう知っている。
「兄上だったのですね」
千年もの間、何人もの当主の死を見送り、たった一人で涅家を守ってきた浅葱。
狐火が大蛇にまとわりつき、だが反撃しようと伸びた大蛇の瘴気を、飛び込んだ蒼士郎が斬り祓った。
「蒼士郎!? なぜここに来た!?」
「千歳が、行けと」
周囲の瘴気はもうそれほど濃くはない。
今の千歳であれば、危険はないだろう。
「兄上、戦う時はいつも、一緒だったではないですか」
別々だったのは、千年前のあの日だけ。
驚きに見開かれた御守様の目が、フッと柔らかく緩む。
「……お前もか」
「はい。恥ずかしながら、思い出したのはつい最近ですが」
兄上、と呼ぶと、御守様の瞳が懐かしそうに揺れる。
「蒼士郎、駄目だった時は一緒に沈むか?」
「代替わりされるおつもりですか」
「はは、だが困ったことに代わりがいない。豆千代にでも頼もう」
残さず食べろとしゃもじを振り回す、豆千代の可愛い怒り顔が、頭に浮かぶ。
「……とても、務まりませんよ」
それも、そうだな。
御守様が小さく笑う声が聞こえた気がした。







