34. それは、祈り
(SIDE:日奈子)
最後に見上げた空はいつもと同じく重い雲に覆われ、一筋の陽の光も見ることは出来なかった。
「当主様。いつか本土に、晴れた空を見に行きましょう!」
「……そうだな。楽しみにしている」
必ず、見せてあげますから。
快活に笑う蒼士の真っ直ぐな愛情がこそばゆくて、素っ気ない返事をしてしまったのが、少しだけ悔やまれる。
湖の中央にある岩山に立ち、小舟が離れた瞬間、足に絡みついた何かに水底へと引きずり込まれた。
すべての霊力で以て瘴気を水底の亀裂に封じると、なぜだか水面が淡く光る。
起きている時間の半分以上を布団の中で過ごした、――そんな人生だった。
それほど長く生きられないだろうと自分でも思っていたけれども、浅葱に支えられ、蒼士に愛され、ここまで過ごしてこられた。
幸せに笑い身を寄せ合い、いつか子を産み育んで、そして年を重ねていく。
最後はそう、微笑みながら老い逝く浅葱を……蒼士を看取り、私の人生は終わりを迎える。
刺すように冷たい水が刻々と命を奪い、それでもそんな優しい夢をみることを最期に許された私は、きっと幸せな人生だった。
ぷくぷくと泡が水面に向かって上り、まるで自分が魚になったような気持ちで、そっと目を閉じる。
――叶わなかったけれど、悪くない人生だった。
きっと私はあの場所で、一生分の幸福をもらったのだ。
この苦しさは、永遠には続かない。
大丈夫、私は死に向かう間際まで、強い姿を見せられたはずだ。
涙をこぼさず、微笑みを残せたはずだ。
どうかこの出来事が二人の心の棘にならぬよう。
残された二人の幸せを願いながら、ひとり静かに消えていきたいのだ。
――――それは、祈り。
***
手のひらの中には、今朝五つに割ったうちの一番大きな護り石。
反発するほどの霊力を宿したその護り石は、千歳が死ぬと、消えるのだ。
充分に霊力が充填されたその護り石を、千歳はゴクリと飲み込んだ。
身体に収まりきらないほどの霊力が四肢に漲り、染みわたるように広がっていく。
護り石自体も霊力の塊……となると、これが一番効率が良かった。
「以前は日奈子だったが、今は千歳だ。これまで通りにして欲しい」
こちらへ――と呼ぶと、蒼士郎はまるで操られたかのように、フラリと千歳の元へ歩み寄る。
理解が追い付かず、呆然とする蒼士郎の霊力はもう尽きかけており、右腕に飼っている瘴気が溢れて炭のように黒ずんでいた。
この状態で躊躇もせずに湖へ飛び込んだのか……。
腕を伸ばして蒼士郎の頭を引き寄せ、コツンと額を寄せる。
あやかし混じりで耐性があるものの、先程の大蛇との戦いで右腕だけじゃなく、身体のそこかしこに瘴気が移っており、取り除かないと手遅れになる可能性もあった。
寄せた額から千歳の体内へ、押し寄せるように瘴気が流れ込んでくる。
臓腑を締め付けられ、中から握り潰されるような鋭い痛みが襲ってくる。
長い距離を全力疾走したかのように息が上がり、噴き出した汗が流れ出ていった。
「日奈……千歳!?」
蒼士郎の鋭い声で、千歳はハッとなり一歩後退った。
離れる額――苦しさに、千歳の息が荒くなる。
思っていた以上に蒼士郎を侵食していた瘴気が多く、思わず苦しさに咳込んでしまう。
だが腕に飼っていた瘴気ごと、消せたはず。
「ゆっくりと息を吸って。……そう。長く吐いて、またゆっくりと……よし、少しずつ呼吸を整えて」
蒼士郎が背中を優しく撫でてくれる。
花街で黒装束を着ていた際は指先まで革手袋で覆われていたため、体温を感じなかった。
だが今は抱き締めるように肩に添えられた大きな手のひらから、じわりと熱が伝わってくる。
まどろむような温かさが心地良く広がり、次第に呼吸が整っていく。
こんな時なのに、その熱がとても嬉しかった。
「大丈夫だ、蒼士郎。問題ない」
「何がどう問題ないんだ!?」
少しだけ肩で息をしていると、蒼士郎に怒られてしまう。
「……本当に、大丈夫だから」
心配そうに見つめられ、千歳は弱々しく微笑んだ。
目を凝らすと、先程蒼士郎を覆っていた黒い靄が薄れ、殆ど見えなくなっている。
ドォン、と地が揺れ、千歳はグラリとよろめいた。
視線の先で御守様が瘴気の大蛇を勢いよく地に叩きつけている。
まとわりついた狐火が、まるで生き物のように大蛇の体を這い回った。
「浅葱一人じゃ辛いだろう。兄の元に行ってやれ」
「でも」
他の討伐部隊のメンバーは地に転がっているが、蒼士郎であれば戦力になるはず。
「大丈夫。私を誰だと思っている? 自分の身くらい、自分で守れる」
むしろお前より強いくらいだ。
笑ながら告げると、蒼士郎は少し迷うように視線を彷徨わせ――。
そして一礼し、御守様の元へと駆けていった。