25. 使役契約ふたたび
物思いにふけるうち、頬を掠める冷たい風に気が付いた。
……入口の戸は、間違いなく閉めたはず。
窓はすべて閉じられており、風が吹き込む隙間はなかったのに。
「……千歳。お前はそこで何をしているの?」
突如聞こえた馴染みのある声に、千歳は半身を起こして振り返った。
「この封じは外部からの侵入を許していないわ。触れれば弾かれ、戸に手を掛けることすらできないはず。それをいとも容易く……それも気付かれぬよう一部だけ解くなど……お前は何者なの?」
怒りを孕んだその声は、管狐のもの。
わずかに開いた戸の隙間には、警戒し、こちらを凝視するイヅナの姿があった。
「……瘴気が見えないはずなのに、豆太を庇ったこと。『護り石』を手に入れた途端に小屋の封じが解かれ、瞬く間に全快したこと」
イヅナは一歩、前に出る。
「読み書きが出来ないのに、一度で文字を覚えたのも不自然だった。そして主様の居場所を伝えたら、何故かここに……」
ザワリと毛を逆立てて身構え、攻撃態勢に入る。
「そこから離れなさい。主様を害する者は、許さない」
……逆らうなら、お前には死んでもらうわと、地を踏む足に力が入る。
イヅナが全速力で突っ込めば、千歳の身体など容易に貫かれてしまうだろう。
「主様から離れろと言っている!!」
イタチサイズの小さな管狐……だが踏み込んだ足が畳に沈んだ。
畳を蹴った次の瞬間、千歳の心臓目掛けて光の道が伸び、柔らかな胸にイズナの頭が一瞬めり込む。
そのまま心臓を貫くかと思いきや、イヅナの身体が何かに反発するように引き戻された。
「……まったく、落ち着きのない奴め」
「ッ!?」
首根っこを掴み、ブラブラと左右に揺らすと、まるで振り子のようである。
これでは瘴気が払えないではないかと笑う千歳に、なぜ一介の小娘に捕まえられたのか理解が出来ず、イヅナは呆然としている。
「……主様を害する者は許されないのだろう?」
「は、離して!!」
逃れようと手元で暴れるが、首根っこを掴まれていて逃げられない。
「お前自身が主を害してどうするんだ。……イヅナ、短気は良くないと、昔あれ程言っただろう」
千年前の契約は、今でも有効だろうか。
死ぬと解除されるから、再度結んだほうがいいかもしれない。
「クダラ イヅナ。離して欲しければ、私のために走るか?」
「分かった、分かったら離しなさいよぉ!!」
――はい、契約成立。
暴れるイズナの額に口付けると、その中心が眩い光を放つ。
徐々に小さくなり、ホタルのようになった光を摘まみ、千歳はゴクンと一飲みにした。
「――千年ぶりだな。まだ覚えているか?」
仰天するあまり動けないイヅナの額に指で触れ、日中の疲労で弱った霊力を足してやる。
「お前との契約、更新させてもらったぞ」
「う、うそ……え……?」
「一日中駆けまわった後に待ち伏せまでして、何をやってるんだお前は」
「え、どうして……?」
驚くイヅナの顔が懐かしい記憶そのままで、つい頬が緩む。
「当主様が起きてしまう。騒いだから、お仕置きだ」
突如バチッと音がして、イヅナの目元で小さな火花が散る。
昔、怒られるたびに日奈子がやっていた軽いお仕置き。
イヅナは抵抗を止め、ブランと脱力した後、ビー玉のような目をまるまると見開いた。
「ほんとうに?」
日奈子が産まれる千年以上前から、涅家の連絡役を担ってくれていたイヅナ。
縋るように震える声もまた懐かしい。
「……ほんとうに、ほんもの?」
「本当だ。でも内緒だよ」
また、私のために駆けてくれるだろう?
そう問いかけると、頭が取れるんじゃないかと心配になるほど、ブンブンと勢いよく首を振っている。
「う、うわぁぁぁん」
「ぷは、泣きすぎだお前は」
ブランと垂れ下がったまま、おいおいと泣き出したイヅナが落ち着くのを待って、地に降ろす。
すぐに千歳の膝元に歩み寄り、その霊力を愛おしむかのように頬ずりをした。
小さな頭を一撫でし、引き続き瘴気を祓おうと、千歳は蒼士郎の枕元に跪く。
「主様は大丈夫そう?」
「……身の内に瘴気を飼うほど丈夫だから、きっとすぐに良くなる」
問題ないと軽く微笑み、瘴気に侵された蒼士郎の手を握る。
繰り返し霊力を送るうち、土気色だった蒼士郎の顔色が次第に生気を帯びていく。
「うん、大丈夫そうだな。あとは自力でなんとかするだろう」
「主……千歳様、近くで呼子笛が鳴ってますが……」
「封じが解けたのがバレたか?」
先程まで遠くでまばらに聞こえていた呼子笛が、随分と近くで鳴っている。
「戸を開けたのは誰だったか……?」
「え?」
「イヅナ、勝手に封じを解いたらダメだろう」
「はい?」
ニッコリと微笑む千歳に、イヅナは警戒したように再び毛を逆立てた。
「さぁ、自首しておいで」
「ひ、ひどいぃぃ!!」
お前ほどの古参なら、多少怒られるくらいで済むから大丈夫。
背中を押され、「私は隙を見て逃げ出すから」と微笑みのうちに送られるイヅナ。
この後、千歳がこっそりとその場を離れる間に、イヅナは見事謝罪を終えた。
離れようとしないイヅナを襟巻きのように首に巻いたまま、納屋の屋根裏へ戻るべく忍び足で進んだまでは良かったのだが――。
「……オイ。この非常事態に夜遊びとは、いい御身分だな!!」
仁王立ちの豆千代にたっぷりと怒られ、翌日、そろって寝不足のまま、仕事をする羽目になったのである。