9. 四角い空の、向こう側
花街で働く者達の脱走を阻むため、大門を監視する詰所には役人達が常時控えている。
千歳を抱きかかえながら走る男は、自身の懐に手を突っ込み、麻紐で括られた人差し指ほどの細長い板を取り出した。
「これが、俺の通行手形だ」
黒漆で塗られたその板は鏡面のように艶やかな光沢を放ち、咲き誇るリンドウが箔押しされている。
松五郎が持っていたのは、手のひらほどの粗末な木板。
似ても似つかぬ優美な通行手形を、駆け抜けざまに役人に示し、そのまま詰所の屋根に飛び移った。
男は一気に屋根を駆け、前方に見える大門に向かい、勢いに任せ弾むように跳躍する。
「ぶつか……ッ!?」
閉じられたままの北の大門。
ぶわりと内臓が浮き上がるような浮遊感とともに、烏羽色……黒一色に染められた柱が目の前に迫る。
――だがそれも、一瞬のこと。
柱は残像のごとく眼下へ過ぎゆき、天から引き上げられるように千歳の身体が空高く舞い上がった。
太い柱のさらに上にある大門の屋根棟を超え、屋根に葺かれた本瓦が、千歳の足元で瞬く間に小さくなっていく。
「千歳、顔を上げろ」
振り落とされまいと力いっぱい男の首にしがみつき、ギュッと目を閉じた千歳の耳元で声がする。
なおも続く浮遊感。
顔を上げて恐る恐る瞼を開けた瞬間、目の前に広がる光景に千歳は息を呑んだ。
「……ッ!!」
「壮観だろう?」
遮るもののないどこまでも広がる景色はまるで、空を飛ぶ鳥になったようだ。
前世でも今世でも、目に映る一番大きなものといえば、屋敷から見上げる切り取られた空だった。
花街が眼下に広がり、その先に遠く本土が見える。
大門よりも遥か上空から見渡す景色は美しく、花街を超えて遠く連なる山々が、広がる海が、世界は広いのだと教えてくれる。
それは地から見る景色とは違い、何者も侵すことのできない自由のようで、千歳の心を浮き上がらせた。
「この『雨催いの花街』は、すべてのものが入り交じる場所」
瞳に焼き付けるように見入る千歳の鼓膜を、男の低い声が揺らす。
「そして今越えた北側の大門から先は、瘴気溢れる危険な地。俺達はこの地を、『ハレの煉獄』と呼んでいる」
犯した罪を償うため、罪人の流刑地に指定された神避諸島のひとつ、『三ツ島』。
異国では天地の境で罪を償う場所を『煉獄』と呼ぶことに因み、涅家の屋敷がある三ツ島の中心地を、『ハレの煉獄』と呼んでいるらしい。
男は長い浮遊を終え、ストンと地に降り立った。
続けてもう一人、白虎の面を被った男も着地し、荷物のようにドサリと松五郎を地に落とす。
腕から降ろされた千歳は思わず足がもつれ、腰を支えられるようにして男の脇に立った。
「ここが『ハレの煉獄』。お前がこれから暮らす場所だ」
本土に住む唯人は、本来であれば足を踏み入れることを許されない、北の大門の向こう側。
男には容赦ないのだろうか、白虎の面を被った男に「早く歩け」と急かされる松五郎の姿が見える。
「お前は下働きだから、炊事洗濯や掃除が中心になると思うが、慣れるまでは指導係をつけてやる」
「ありがとうございます」
「アイツは筋力が弱そうだから、ひたすら薪割りと走り使いの雑用だ」
筋骨隆々な涅家の人間と比べるのは少し可哀想な気もするが、確かに松五郎はヒョロリとしていて、見るからに弱そうである。
こうしている間もどこからか流れてくる薄い瘴気。
先程のあやかしの件もあり、千歳が怯えていると心配していたのだろうか。
思わずクスリと笑ったのを確認し、男はどこかホッとしたように肩の力を抜いた。
「詳しいことは休んでからだ」
さぁ行くぞと声を掛け、男は前を歩き始める。
相も変わらず息が詰まるような閉塞感。
千年経っても変わり映えがしないなと、最後尾についた千歳は辺りを見廻した。
「――ただいま」
過ぎ来し方を思い返し、だが今世は健康な身体があると、喜びに笑みがこぼれる。
小声で告げた千歳の声に反応するように、目の前で小さな瘴気が揺らめいた。
撫でるように手のひらで掬い上げ、ゆっくりと拳を握ると、じゅわりと溶けるように消えていく。
「……ん?」
「どうかされましたか?」
「いや……」
わずかな瘴気の気配を察知し、振り向いた男は何もなかったことに首を傾げ、「気のせいか」と一言呟くなりまた歩き出した。
決して晴れることのない、三ツ島の空。
見上げる空は重い雲に覆われ、ぼんやりと淡く明らむだけで、わずかな陽の光も差し込まない。
暗澹たる本土とも、欺瞞に満ちた花街とも違う。
朝陽が昇る前の、ほの暗い時間を思わせるその景色は、そこはかとない寂寥感に満ちていた。