死体
飛び降りだ飛び降り! 飛び降り自殺だ! うん。そうに違いない。いや、絶対にそうだ。あのオンボロ団地にはうんざりしていたんだが、まさかの大事件に遭遇だ! 今朝、外出てすぐのところに警官がえーっと四人、いや、もっといたな、うん。ブルーシートで何かを囲っていたんだ。あれは飛び降り自殺に違いない。誰かな誰かな。隣の部屋のやつかな、上の部屋のやつだといいな。顔は知らんが窓を閉める音がやたらうるさいんだ。ひひっ、死んだかな。死んだんだろうな。あの警官たちの暗い顔。死体だ死体。そうに違いない。朝早くから嫌なもん見ちまったなーって顔してたからなぁ。きっとひどい有様だったんだろうなぁ、ひひひ。あー、早く帰りてえな。それで妻から事件の詳細を聞いて、ああ、でもあいつの得意げな顔を見るのも嫌だなぁ。『ねえねえ知ってる!? 今朝ね! なんとねぇ……』って、おれが先に見つけたんだぞ。おれのもんだ。大体、お前が見送りに出てきて上から『ほら! なに立ち止まってるの! 電車乗り遅れるわよ!』なんて大声で言うから、警察の人たちに何があったのか話を聞きそびれたんだ。それがなければ、おれが上手いこと聞きだしたのに。そうしてればこうして吊革に掴まっている今、もやもやせずにいられたんだ。大体、お前、朝からあんな大声で何だよ、はしたない……。結婚する前はそんなんじゃなかったくせに。ご近所さんに聞かれたかもしれないし、警察の人たちに、『ああ、野次馬か』みたいな目で見られちゃったじゃないか。ああ、嫌だなぁ。おれはそんなんじゃないのに。ついついぺこりと頭を下げて逃げるように走っちまったんだ。あれを見てあいつ、いい気になったんじゃないのかなぁ。自分が旦那の尻を蹴ってやったって。嫌だなぁ。で、それから『あら、なにかしら。ブルーシート? あらやだ警察? 事件かしら』なんて気づいて、下まで話を聞きに行ったのかもしれない。それでご近所さんに自慢するんだ。『あたしが警察の人たちから聞き出した話によるとねぇ』なんて得意げにさ。おれの死体なのに。ああ、『あたしがね、旦那を怒鳴ってやってたらね』って話の導入に使われるかもしれない。そうなったら嫌だな。ご近所さんに情けない亭主だと思われちまう。あいつ、だから結婚前はそんなんじゃなかったのに。女は子供ができると変わるって言うけど、うちはまだなのに、あー、やっぱりそれかなぁ、おれたちに子供ができないせいかなぁ。頑張ってはいるんだがなぁ。あっ、あいつ、そのこともご近所さんに、おれのせいみたいに話すかもしれない。『うちの旦那ったらね、ちょっと問題があるみたいで』『あれも下手で』ああああぁぁぁ、嫌だなぁ。でも事件に気づいたのはおれが先なんだぞ。あ、でも、そうだ。あいつ、上からブルーシートの中が見えたかもしれない。ああ、そうなったらもう、あいつのもんだ。悔しいなぁ悔しいなぁ。あーあ、家を出てすぐに下を覗いていればなぁ。せめて、もっと早起きしてれば、あいつが見送りに出て来なかったかもしれないのに。ああ、そうだ。もっと早く家を出ていれば警察が来る前に死体を見られたかも。そうだよ、夜中にトイレに起きていれば死体が落ちた音を聞いて、真っ先に見れたかもしれないのに。くそぉ、いつ死んだのか知らないけど、おれが家を出る時に飛び降りてくれりゃあよかったのになぁ。あーあ、どんな死体かなぁ。脳みそ飛び散ったかな。すごいなぁ。やっぱり、死んでからしばらくの間はピクピク動くのかなぁ。ふふふふふっ。おっといけない。周りの連中に変な奴に思われちゃうよ。でもなぁ、ふふふふふ。殺虫剤を浴びた虫みたいにふふふ。ああ、でもそうかぁ、死んだとは限らないよなぁ。何階から落ちたかによるよなぁ。うちの団地は七階建てで、六階からなら十分かな。屋上には出られるかな。まあ、出ようと思えば出られるよな。死ぬ気なら何でもできるってやつだ。どうせ飛ぶなら高いほうがいいだろうしなぁ、そうしたのかなぁ。いや、面倒くさいかぁ。そういえば、あいつ六階以上に住みたいとか言ってたなぁ。でも四階でよかったな。あの団地にはエレベーターがないから階段の上り下りが大変だもんなぁ。『毎日、買い物に出るのが大変よぉ』なんて愚痴ってたもんなぁ。おれだって毎日通勤してんのに。四階でよかったろ。おれが正しかったろって言ってやればよかったなぁ。帰ったら言ってやろうかな。と、なんだ? あ、もう駅に着いたのか。降りますよっと、いててて、なんか擦れていてえよバカ、アホ! 大体、毎朝毎朝混みすぎなんだよなぁ。
はーぁ。でも、やっぱり死んだよなぁ。だって、死んでなきゃブルーシートで囲う必要ないもんな。ドン! って落ちて、眼球が飛び出したかもしれないぁ。ポーンって、ひひひひ。どんな気分だっただろうなぁ。落ちている間、ああ気絶するって言うっけ? でも高さによるよなぁ。何階から落ちたんだろうなぁ。そういうのも後々明らかに、あ! そうだ、ニュースになるよな。うちの団地が全国デビューなんかしたりして。そうなったら同僚連中に自慢できるよなぁ。あれ、あそこ、うちの団地なんだよって。新人のあの子とか、話聞かせてくださいっておれに言ってくるかもなぁ。可愛くて純朴そうだけど、女はみんな噂好きだもんなぁ。そしたらどこか二人きりで詳しく話そうかなんて言ってみたり。あああ、あの警官たちに話を聞いておけばよかったなぁ。あいつが邪魔しなければなぁ。おれの恋路まで邪魔しやがって。あいつは勘がいいからなぁ。おれが女の子を口説くのに使うって予期してたのかもなぁ。本能的に。
あ、はい、おはよう、おお、おはようございます。と、ああ、もう会社に着いまった。何も情報がないのに、ああ、あの子に今日も可愛いねなんて言いたいけど言えないなぁ。セクハラになっちまうかもしれないもんなぁ。でも、あの子。部長と不倫してるなんて噂もあったよなぁ。なかったっけ? いいなぁ、部長、いいなぁ。いや、きっとデマだな。あの子はなんで部長なんかと、好きなのかなぁおじさんが。まあ、だとしたら、おれにもチャンスあるよなぁ。おれは部長より若いし、体だってなぁ。ああ、はいはい。はぁ……いや仕事よりもさぁ、やるけども……うーん、まだニュースになってないみたいだなぁ。ちゃんと仕事してんのかマスコミは。不公平だぞ。おれだけ仕事なんて。そもそも、あの死体はおれが先に気づいたおれのものなのに我が物顔で報道しようとするのが気に入らない。あ、でも、おれにインタビューとかしてくれたらいいよなぁ。モテるだろうなぁ。あの子にも、え、はいはい。なんですか。……はい……はい……はい……はい……はい。別にぼーっとなんかしてなかったのになぁ。部長め、おれがあの子を狙っていることに気づいたのかな。本能的にさ。あの部長が飛び降りてくれてたらよかったのに。でも部長が、おれの団地で飛び降り自殺は変だよなぁ。おれが疑われちゃうかも。あ、そうだよ。自殺とは決まってないじゃないか。殺人かもしれない。うわぁ、怖いなぁ。殺人犯が近くにいるのかも。犯人はあの団地に住んでる誰かで、あっ……はい……はい……はい……はい。すみません。はい。あーあ、部長、その窓から飛んでくれねえかなぁ。おれが落としてやろうか。膝から抱えるように持ち上げれば頭の方が重いから案外、簡単に。ああ、死体のやつ、どう飛び降りたんだろうなぁ。足からかな。頭からかな。足から落ちて、頭を打って死んだかなぁ。
あーあ……うわっ、もうお昼か。今日は何を食おうかなって、アイツの弁当があったんだ。いや、作ってくれるのはありがたいと思うけどさぁ。節約だってんで貧相なんだよなぁ。同僚に見せたくないから、いつもこそこそ他所で食わなきゃならないのを知らないであいつは感謝しなさいよって、あれ! 忘れてきたみたいだ……。なんだよ。じゃあ、あの時、上から言ってくれればよかったじゃないか。……なんて言っても『あたし、知らないわよ!』なんて言うんだろうなぁ。あーあ、死体のやつは何食ったのかなぁ。最後の晩餐だもんな。おれみたいに牛丼屋の豚丼じゃないよな。並盛トッピングなし。でも死ぬくらいだから金なんて持ってなかったかな。きっと惨めったらしい奴だったんだろうな。ひひひひっ。落ちたとき、吐いたのかな。腹を打てば吐くかな。オエエエって。オエッ。気分悪いなぁ。はぁ……げ、もう、こんな時間か。会社に戻らないと。……そろそろニュースでやったかな。定食屋とかテレビ置いてあるところで食えばよかったなぁ。きっと今頃テレビでやっているよなぁ。団地での飛び降り自殺なんて昼のワイドショーの恰好のネタだもんなぁ。あいつも煎餅を食べながら見てるだろうなぁ。『お母さん、テレビ見てる!? 今すぐ点けて! ここ、うちようち!』なんて、母親に電話してさ。それで、ああ、インタビューされてるかもなぁ。買い物の行きと帰りにわざとゆーっくりとカメラの近くを通ってさぁ。『ここの住民の方ですか!?』なんてリポーターに話しかけて欲しくてさぁ。そしたらあいつ、『ええ、そうですけど。なにかしら?』なーんてすまし顔でさぁ。目をちょっと開いてみせて、腹立つよなぁ。おれ嫌いなんだよ。目をパチクリさせるっていうの、あのわざとらしい顔。でもいいなぁ、おれが見つけた死体なのになぁ。あーあ、あいつ、インタビューなんかされたらきっと、おれのアレがしょぼいこととか、いろいろと喋っちまうんだろうなぁ、乗せられてさ。口がうまそうだもんなぁリポーターとか。そしたらうちにあがってお茶なんてどうですなんて言ってカメラマンとリポーターを家の中に入れてそれで、それでいろいろと、え? あ、はい……はい、あ、はーい。また部長から説教だよぉ。今日は多いな。でも思ったよりも早く終わってよかった。げっ、あいつとリポーターとの妄想してたら勃っちまったよ。あいつで興奮するなんてなぁ。あの子がいいのに。へへへへへっとなんだ、目が合ったのに顔を逸らされちゃったよ。なんだよ、あの子もおれが一緒にインタビューに出してやるって言ったら泣いて喜ぶくせに。あーあ、惜しいなぁ。会社休めばよかったかなぁ。それであそこで待っていれば、マスコミがおれにカメラを向けてきたのになぁ。んー……でもネットを見るに、まだニュースになってないみたいだなぁ。夕方からかな。うん、あり得るな。そうだ。今はまだ情報を集めてる最中なんだ。どこの誰が死んだか、名前と年齢、職業に顔写真に卒業アルバムに動機に、そいつが住んでいたところの近所の人へのインタビューに仕事先も、まあ無職か職場でぱっとしない奴だろうけどな。人生に絶望した、なーんの面白みもない奴。それが一気にスター扱いだもんなぁ。いいなぁ。もしかしたら夜のニュース番組で取り上げられるかもなぁ、トップでさぁ。本当のスターだな。そしたらおれも鼻が高いなぁ。うちの団地からなぁ……って、え、もうこんな時間。やばいやばい。早く家に帰ってテレビを点けなきゃ。
あーあ、でも結局、おれの声は届かずかぁ。マスコミがここまでインタビューに来てくれればなぁ。来ないかぁ。団地のあの階段の前で待ち構えててくれねえかなぁ。あなたが最初に気づいたんですね! ってさぁ。そうだよ。おれのものだもんなぁ。それを警察の野郎どもがさぁ。自分たちのものみたいに独占してさぁ。ずりーよなぁ。いっつもいっつもさぁ。やっぱ権力って強いんだなぁ。
……はぁーあ、着いた着いた。駅前にはマスコミはなし、と。まあ、そうだよなぁ。号外とか配られてもないよなぁ。でも地元の新聞には載るよなぁ。おれのコメントとか載せてくれねえかなぁ。コラムとか書かせてくれたりしてもいいよなぁ。ないかなぁ。観光地になったりしてなぁ。でも少なくとも野次馬はいるよなぁ。あ、なんか緊張してきたな。そうだよ。今頃、団地にはたくさん人がいるよな。ミュージシャンが泊まるホテルの前にファンが集まるみたいにさぁ。そうだよ。おれはそこに住んでるんだもんなぁ。きっとすごい誉めそやされるだろうなぁ。へへへ、照れちまうなぁ。
ああ、もう着く。ドキドキしてきたなぁ……ん? いないなぁ……。さすがに時間が経ちすぎたかなぁ……。いや、夜のニュースでやるなら人が集まるのはこれからかなぁ。ひひひ、それなら風呂に入って身だしなみを整えとかないとなぁ。うー、階段きついなぁ。しかし、あいつの得意げな顔見るのは嫌だなぁ。おれが帰った瞬間、おかえりを言うよりも先に死体の話してくるだろうなぁ。はしゃいでさぁ。はぁーあ、ただいまっと、え? ああ、うん。弁当は忘れたけどさ。うん、うん、ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに。いや、それよりもさ。あ、うん、それよりもじゃないんけど、事件がさ、そう事件。ここで、え? だからここだよここ。この団地で! 飛び降り自殺! え? ない? いやいや、だってお前も朝、ブルーシートと警官を見ただろ? 見てない? いやいやいや、そこだって、そこから見えるだろ? 外のここからほら、ええとこうしてさ、いや、ある、あったんだってば、おれが見つけた、おれの死体がさ! あそこに、あっ、わわっ――