林檎
本作を見たことがあるという人はその時とは内容を変更しております。ご了承ください。
町をただ練り歩く。何かしていないとどうも気持ちが沈んで仕方がない。だからこうやって何かしらの行動を起こしているのだが、如何せん何をするにしてもついつい余計なことを考えてしまっている。あれだけ熱中していたものも不思議と今では億劫でしかない。昔であれば何をするにも時間が全くもって足りないとあれほど感じていたのに、今ではどうだ、あれこれしようと思っても頭の中で浮かんでは気付くともうどうでもよくなっている。それの繰り返しで無駄に時間を食っている自分がいる。以前であれば本屋などに行けば読みたいと思うような本が山のようにあり立ち読みなどして楽しんだものだが、段々一頁を目を通せばもう読む気は失せてすぐに元の場所に戻してしまう。もっと辛い時には本棚に本が整然と背を並べているのを見るだけで耐え難い苦痛を感じるときさえある。画本や音楽さえ始めの方でもう胃が込み上げるような感覚になる。そこまで来るといよいよ急いで踵を返して何かに追われるように急ぎ足で逃げ出してしまうのである。この頃になって幼い時より患っている喘息も具合が酷くなってなってきている。これが相まってより一層嫌になる。
町を練り歩くと言ったが、もの悲しさに染まった虚ろで変わり映えの無い色彩に欠ける町並みなどたいして面白くはない。ただ、ひたすらに歩いていると稀にぼんやりと心をくすぐるような物がある。その色彩を損なう前に味わうことでほんの少しだけだが以前のような心が満ちていく感覚を得ることが出来た。専ら、それを目的として何もない日にもある種の癖のようになっていたのかもしれない。圧倒的な劣等感や虚しさに襲われた時のこの不安感で誰も見てない所でうずくまって嗚咽を吐く、それで屍人のようにまた歩みを進める。そうやって今の私になっていった。
風が冷たくなり、木の葉が舞い始める季節の頃、いつものように何をするでもなく歩いていると視界の淵の方に刹那に目に留まるものがあった。それを逃すほど私は呆けていたわけではない。少し皮の痛んだ靴を後ろに向けていそいそとその興味の方へと進む。ふらふらとした足取りでたどり着いたのは青果店である。その店先には乱雑に積まれた林檎があった。なんとも安っぽい赤い絵の具を塗りたくった上からツヤだしを付けたようなこの果実にすっかり魅せられてしまった。衝動的に寂しい懐を叩いて一つだけその林檎を買い取った。その林檎を返り路を一人、歩きながらくたびれた外套にあてがってみたり雲に覆われた空に合わせてみたりもした。そこで私はつまりは色彩なんだなということに妙な納得感を覚えた。
久々に上機嫌になった私はいつもよりも軽やかな足取りで湿っぽい薄暗い部屋に戻ってきた。そこでは、他の何とも比べようのない重苦しい空気が漂っている。しかし、今日は違う。外套のポケットにしまっておいた林檎を取り出す。まだこれでもかというほどの鮮やかさを放っているそれをとりあえず薄く埃の被った机に置く。外套をドサッと敷きっぱなしになっている布団の傍らに脱ぎ捨てて狭い部屋を一旦見回す。特に何と言うこともない。だが、無性にそわそわして机の林檎に手を伸ばす。一齧り。口の中で咀嚼される欠片はとてもぱさぱさしていて味も薄く、とても食えたものではない。これではあまりにも貧相ではないか。立派な見た目の中身はお粗末、少し自嘲気味の笑みがこぼれる。そこに突然、ある思惑が湧いた。へやの一角を無駄に陣取っている棚の中身を厳選してぶちまけていく。ものが重なり合ってこんもりとなっている。その上にもう一齧りして、さらにすり減らされた林檎を置く。絶妙なバランスをとって安定してそびえたっている。安物の林檎とは言え、私にはかなり財布を叩いて買ったものだから、また丁寧に机に戻したのちに過去の残骸の山を蹴り飛ばした。一仕事を終えた私は満足そうに笑みを浮かべ、しわくちゃの布団の上で虚ろな目を閉じた。
林檎、別に嫌いではないんですけど、あまりいい思い出は無いと思いながら書いてます。