描きかけのキャンバス
三日目
私の学校には七不思議があって、その中に『描きかけのキャンバス』というものがあった。
噂によれば、夜の誰もいなくなった美術室にいつの間にかキャンバスが置いてあり、ひとりでに絵が描かれるらしい。私はそのキャンバスを目の当たりにして、ようやくその話を思い出した。
その日は委員会の片付けで遅くなった上に、忘れ物までして、気づけば外はすっかり暗くなっていた。既に生徒は一人もおらず、私はたった一人で廊下を歩いていた。横切った教室のどれもが明かりを消している中、美術室にだけ明かりが灯っていたのだ。
誰かまだ残っているのだろうか。なんとはなしに教室を覗き込めば、そこにはキャンバスが一枚、イーゼルに立て掛けられていた。
ああ。これが噂の。なんて軽く思って、何が描いてあるのだろうと近づいてみれば、たしかに描きかけの絵だった。というよりも、むしろ描き初めの絵、だろうか。
キャンバスに描かれているのは鉛筆による下書きだけで、なにかぐにゃぐにゃと曲がった線が何本も引かれている。一体何の絵なのだろうか検討もつかなかった。少し気になりはしたが、もう時間も遅く、家族に心配をかけるだろうと、その日は家に帰った。
それから数週間が経って、私はまた夜の美術室に訪れていた。あの絵が一体何の絵だったのか。気になって仕方がなかったのだ。
以前と同じように、美術室にだけ明かりが灯っていて、やはり、キャンバスが一枚だけイーゼルに立て掛けられている。
キャンバスの絵は以前よりも進んでいた。絵は鮮やかな青から暗い青へとグラデーションで彩られ、一番下には黒ずんだ緑でゴツゴツした岩が描かれていた。岩からは細く枝分かれした、曲線が数本引かれていて、ああ海藻かな、なんて予想をしてみる。
海底の絵だったのか、と一人で納得した私は、妙な満足感を感じながら帰路についた。
数日後。私はまた夜の美術室にいた。あの絵の行く末が気になって、その完成を見たくなっていた。私はすっかり魅了されていたのだ。
以前と同じように明かりの灯った美術室に入り、絵の前に立つ。絵の下の方には緑色の海藻が描かれていた。やっぱり思ったとおりだ。
予想があたったことに喜びながら、改めて絵を眺める。所々に以前はなかった下書きの線が足されていて、その流線型は魚なんかの海洋生物を思わせた。
次は魚を描くのかな、なんて思った私はその絵の完成に思いを馳せながら教室を後にした。
それから私は足繁く夜の美術室に足を運んだ。最初は週一回、委員会のある日だけだったけれど、その回数は日が経つほどに増えていって、いつしか毎日のように通うにようになっていた。
通うたびに、魚が描かれ、イルカが描かれ、タコやら貝やら亀やらが描かれ、その絵は完成に近づいていく。おそらく海洋ゴミだろうと思われるペットボトルやビニール袋が描かれ始めた時は、期待を裏切られたようでがっかりしたけれど、それも含めて、リアリティを感じていた。
やがて絵は完成に近づいてくる。私は絵のことには全く詳しくないが、直感でもう二、三日で完成するだろうと確信していた。
改めて見てみれば、その絵は歪んでいたり逆さまになっていたりと、まるで全体が蜃気楼のようで神秘的に感じられつつも、丁寧かつ写実的に描かれていて妙な現実感がある。その落差が不思議な魅力になって私を惹きつけているのだろう。
そして、完成の日を迎えた。これで、この絵は完成だと、不思議と理解した。
最後に描かれたのは、人だった。海底に沈み行く人だ。絵の奥の方に小さく描かれたその人物は見覚えがある程にありふれたシャツを身に着けていて、それが学校の制服とソックリだったから、少し微笑ましく思った。
この絵を描いているのが誰かは知らないけれど、きっとその人物も同じシャツを着ているのだろうと思うと急に親近感が湧いて、嬉しくなった。
絵が完成した今、私はもうこの美術室に来ることはないのだろうか。そう思ったら名残惜しくて、教室を離れる前に、私はそっと絵に手を触れた。
私の学校には七不思議があって、その中に『描きかけのキャンバス』というものがあった。
夜の誰もいなくなった美術室にいつの間にかキャンバスが置いてあり、ひとりでに絵が描かれるらしい。
そして、その絵の完成を見たものは、誰一人として、いないらしい。
テーマは蜃気楼・美術室・シャツ