向日葵を燃やす男
描きかけ点描の向日葵を見ながら、ふと麻酔の激痛を味わった。
キャンパスの上を地味にいきわたる薄い線だけが輪郭を露にし、花弁の部分にぽつりぽつりと少量の雨粒のような黄色が乗っている。
傍から見たらそれは未完成だと分かる。
そうと分かれば印象に残る前に除外され、忘れる以前に認識すらされないだろう。
しかしながら、その絵は私に自分の人生がいかに空虚なものだったかを教えてくれた。
行き詰っている――どう描いてもこの絵は駄作になる。
下書きをし、色を乗せた瞬間で切り取られたタブローからはそんな作者の妄執が聞こえてきそうだった。色か、構図か、はたまた焦点のような美術的技術の問題かは素人の私には分からなかったが、その絵からは先が見えなかった。
完成した姿。
あるべき姿が。
なぜならその絵は、これで完成だったのだ。
これ以上美しくなることも無く、これ以上に芸術となることも無い。
そう宿命づけられた駄作だった。
だから、私は足を止めたのだった。
額縁にも入れられず、展覧会の壁に忘れられたまま立てかけられたこの絵に。
西日のような黄色。
円熟の象徴、繁栄の証。
見るものに暖かさを分け与えてくれる高級な色がここまでの駄作に使われている。
苦痛のない人生を送ってきた私にはそれが自分の人生に重なって見えた。
幸せだけを煮詰めた人生がいかに息詰まるのか。
幸福も不幸も穏やかな凪の海の如き人生だった。
子供の頃には運動をしなかったから大きなケガをしなかった。遊ぶために勉強を停滞させた。そして、疲れるからと人と関わることを減らした。新しい時間消費の娯楽を幸福と読み違えた。
振り返ってみれば人生はもう半ば。
私はいつの間にか鬱蒼とした森の中にいた。
手元の灯りばかり見て歩いていたせいで振り返っても、前を向いても道はなかった。
途方に暮れることもできず、気づいて動く勇敢さよりも目先の娯楽を食べ荒らし続けた。
道のない森の中で、私の手元に残ったのは灯りだっただろうか。
それとも、これのように単調で、のっぺりとしていて、思い出にもならない向日葵を握っていたのかもしれない。
それが怖くて、趣味だとかこつけて美術品を見るようになった。
小説を書くようになった。
しかし、その果てに何があるのだろうか。
今だ人生は道半ば。
鬱蒼とした森の中からヴェルトロは現れども、ウェルギリウスは見当たらず、またミューズも私の前に姿を現さない。
薄い線とぽつぽつとした黄色い汚れが私を見つめていた。
怖くなってその絵に火をつけた。
逃げてみるが、捕まるだろう。
否定したかったのだろうか。
もしかしたら気づいたのかもしれない。
自分が歩む先にある煉獄の扉に。